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聖夜の黄昏  作者: 那王
7章 さまよえるトナカイ亭
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さまよえるトナカイ亭

ニューシティの空は、高層ビルの隙間から辛うじてその存在を主張するだけで、どこか窮屈そうに見えた。リリィの「この街の人たちに、何かを届けたい」という提案は、すぐに具体的な計画へと姿を変えた。彼女が思い描いたのは、フードトラック――移動販売車での屋台運営だった。


「フードトラックなら、一つの場所に留まらず、色々な場所へ、私たちの味を届けに行くことができるわ。それに、様々な人々が集まる場所は、情報の交差点にもなるはず。イリスさんの手がかりだって、見つかるかもしれない」


リリィの計画に、ノエルもルドルフも二つ返事で賛成した。問題は、どうやってフードトラックを手に入れるか、だ。ジェシカに頼めば、あるいは何とかしてくれるかもしれない。しかし、リリィは首を横に振った。


「ううん、これは私たちの冒険よ。自分たちの力で何とかしたいの」


その言葉通り、リリィは再び街へと繰り出した。前回巡ったコミュニティを再訪し、人々と交流を深める中で、彼女はリトルイタリーのマンマ・ソフィアから、耳寄りな情報を得ることになる。ソフィアの従兄弟であるアントニオが、長年続けてきたピザのフードトラックを、そろそろ歳だからと引退を考えている、というのだ。


「アントニオは、頑固で気難しい男だけどね。あんたみたいに、食に情熱のある若者なら、きっと気に入るはずさ。あたしから話を通しておいてやるよ」


ソフィアの紹介で訪れたアントニオのガレージには、少し古びてはいるが、丁寧に手入れされたことが一目でわかる、真っ赤なフードトラックが停まっていた。壁には「Antonio's Pizza」の文字が、誇らしげに描かれている。


アントニオは、ソフィアの言葉通り、口数の少ない、職人気質の老人だった。彼はリリィの顔をじろりと見ると、一言だけ言った。


「ピザを、食ってみな」


彼がトラックの石窯で手際よく焼き上げたマルゲリータは、シンプルながらも完璧な一品だった。焦げ目のついた香ばしい生地、フレッシュなトマトソースの酸味、そして最高級のモッツァレラチーズのコク。リリィは、その一切れを口にしただけで、アントニオがどれほどの愛情と時間を、この一枚に注いできたかを理解した。


「……素晴らしい、ピザです」


リリィの心からの賞賛に、アントニオは初めて口の端をわずかに緩ませた。


結局、リリィは「アントニオの味と魂を受け継ぐこと」そして「いつでも彼のピザを食べに来させること」を条件に、トラックを格安で譲り受けることに成功した。ノエルは、アントニオの引退後の生活資金の足しになればと、スネーランドで手に入れた貴重な工芸品をいくつか譲り、それが思いのほか高値で売れたことで、トラックの購入資金を補うことができた。


こうして、彼らの新たな城となるフードトラックが手に入った。ノエルは、アントニオの店名の上に、新しい名前をペンキで書き加えた。リリィのアイデアだった。


『さまよえるトナカイ亭 (The Wandering Reindeer)』


その名の通り、大きなルドルフは、トラックのそばにいるだけで最高の看板になった。子供たちはもちろん、大人たちも珍しいトナカイを一目見ようと集まり、その人だかりが、さらに新たな客を呼んだ。


看板メニューは「世界を旅するシチュー」。

ベースとなるのは、スネーランドの厳しい海で育ったタラと、火山灰土壌で育った滋味深い根菜をじっくり煮込んだ、素朴ながらも奥深い魚介のスープ。そこに、チャイナタウンでワン老人から譲り受けた「五宝龍魂粉」をほんの少し加えることで、香りに幾重もの奥行きと、魂を揺さぶるような深みを与える。仕上げに、リトルイタリーのソフィアが教えてくれた、水牛のリコッタチーズ、「天使の涙」をひとかけら溶かし込み、優しいコクとミルクの甘みをプラスする。そして、スネーランドのオラフルが教えてくれた「溶岩塩」が、全ての素材の味を力強く引き締め、まとめ上げていた。

付け合わせには、地熱で焼いたスネーランドのライ麦パン。

それは、リリィとノエルの旅の記憶そのものが、一皿に凝縮されたような、特別なシチューだった。


最初は、見慣れない店名と、店の前に鎮座する巨大なトナカイの姿に、人々は遠巻きに様子を伺うばかりだった。しかし、トラックから漂ってくる、今まで嗅いだことのない、複雑で、抗いがたいほど魅力的な香りに誘われて、一人、また一人と、勇気のある客がシチューを注文し始めた。


「……なんだ、こりゃあ……!?」

最初にシチューを口にした、屈強な体格のトラック運転手は、スプーンを持ったまま固まった。

「うめぇ……ただ、うめぇだけじゃねえ。なんだか……懐かしいような、それでいて、全く知らねえ国の景色が見えるような……不思議な味だ……」


その一言が、呼び水となった。一人、また一人とシチューを味わった客は皆、言葉を失い、そして一様に、深く満たされた表情を浮かべた。ある者は遠い故郷を思い出し、ある者はいつか旅した異国の街並みを懐かしんだ。リリィの料理は、人々の心の中にある、個人的な「物語」を呼び覚ます力を持っていたのだ。

ノエルの、太陽のように明るく、少しドジなところもあるが、誰にでも分け隔てなく接する人柄も、店の温かい雰囲気を作り出していた。そして何より、看板トナカイのルドルフは、子供たちの絶大な人気を集めた。


口コミは、ニューシティのストリートを駆け巡った。「なんだか分からねえが、とんでもなく美味いシチューを出すトナカイの店がある」。「さまよえるトナカイ亭」は、数日のうちに、知る人ぞ知る名店となっていった。


リリィの目的は、単なる商売の成功ではなかった。彼女は、客との何気ない会話の中に、常にイリスの情報を探していた。


「最近、この辺りで銀髪の綺麗な女の子、見かけなかった?」


「北欧から来たみたいな、ちょっと物憂げな感じの子なんだけど……」


だが、得られる答えは、いつも同じだった。


「さあ、どうだろうね。この街には、世界中から人が集まってくるから」


「銀髪なんて、今じゃ珍しくもないさ。ファッションで染めてる子もたくさんいるしね」


アメリアという人種のるつぼの中で、銀髪の北欧系の少女という特徴は、大海の一滴のように、あまりにもありふれていて、全く手がかりにはならなかった。


そんなある日、「さまよえるトナカイ亭」の噂を聞きつけた、一人のフード系インフルエンサーが、大きなカメラを持って現れた。


「うわ、まただ……」


カメラを構えたインフルエンサーの姿を見て、ノエルは思わず顔をしかめ、リリィと顔を見合わせた。スネーランドで出会った、あの迷惑な配信者のように、自分たちがただの珍しい見世物として消費されることへの不快な記憶が蘇る。


「すみません、うちは小さな店なので、撮影はちょっと……」


リリィが丁寧ながらもきっぱりとした口調で断ろうとしたが、インフルエンサーはまるでその言葉が聞こえていないかのように、すでにスマートフォンを取り出し、ライブ配信を開始していた。


「ヘイ、ガイズ! 見てくれよ、ここが今ニューシティで一番ホットなフードトラックだぜ! なんと、本物のトナカイまでいるんだ! 超クールだろ!?」


彼の軽薄な声と、許可なく向けられるカメラのレンズに、リリィの表情がこわばる。しかし、男はそんなことにはお構いなしに、リリィの料理を大げさな身振りで絶賛し始めた。


「見てくれ、この『映え』るシチュー!マジでヤバい! 味? もちろん美味いけど、それ以上に、このビジュアルが最高なんだよ!」


その配信が、バズった。


翌日から、「さまよえるトナカイ亭」の前には、これまでにない長蛇の列ができるようになった。しかし、そこに並ぶ人々の多くは、リリィが届けたいと願っていた客層とは、少し違っていた。彼らは料理を味わうためではなく、SNSに投稿するための「映える」写真を撮るために集まってきたのだ。


料理を受け取ると、彼らの多くはまずスマートフォンを取り出し、味わうことよりも先に、様々な角度から何枚も写真を撮ることに夢中だった。もちろん、心から「美味しい」と喜んでくれる人もいる。しかし、流行に乗ることだけが目的の客も少なくなく、彼らは一口か二口食べると、満足したようにSNSに投稿する。そして、中には、本当は食べたくもなかったであろう料理を、まだ半分以上残したまま、平然とゴミ箱に捨てていく者もいた。


「見て、リリィ。この写真、すごく『映え』てない?」


「うん、超クール! このスープの色合い、フィルターかけると最高だよね」


「味? うーん、まあ、普通に美味しいんじゃない? それより、ここに並んだってことが重要なんだって」


そんな会話が、毎日のように聞こえてくる。営業が終わると、ゴミ箱には、ほとんど手付かずのスープカップが、溢れかえっていた。


「……悲しいわ」


その日の営業を終え、大量の売れ残りと、客が捨てていった食べ残しの山を前に、リリィは力なく呟いた。


「私の料理は……私の想いは、誰にも届いていないのかもしれない。ただ、面白い見世物として、消費されているだけ……」


彼女が大切にしている料理哲学――「手の届く範囲で、本当に大切だと思う人たちと、心を込めた料理を分かち合いたい」。その想いは、空虚な熱狂の中で踏みにじられているようだった。ワン老人やソフィア、ジャクソンが語ってくれた、食材に宿る魂の物語も、誰にも届くことなく、ただのゴミとして捨てられていく。


そして、その数日後。一台のテレビ局のクルーバンが、トラックの前に停まった。車から降りてきたのは、ノエルたちも見知った顔――ジャーナリストのジェシカ・ミラーだった。


「リリィ、ノエル。あなたのトラックが、今、この街で大変な話題になっているわ。素晴らしいことじゃない。ぜひ、私の番組で取材させてくれないかしら?」


ジェシカは、完璧な笑顔と、非の打ち所のないプロフェッショナルな態度で言った。


ジェシカの取材と、彼女が持つメディアでの拡散力は、「さまよえるトナカイ亭」の知名度を爆発的に押し上げた。店は連日、大盛況。売上も、これまでの旅の資金を補って余りあるほどになった。


しかし、リリィの心は、晴れなかった。店の成功は、皮肉にも、リリィから料理への純粋な喜びを奪い、イリスを探すという本来の目的からも、彼らを遠ざけているように感じられた。


知名度は上がった。しかし、イリスの手がかりは、依然として何一つ得られていなかった。流行という名の喧騒の中で、本当に大切なものが、見えなくなってきているのではないか。そんな焦燥感が、ニューシティの華やかな夜景の片隅で、彼らの心を静かに蝕み始めていた。

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