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聖夜の黄昏  作者: 那王
7章 さまよえるトナカイ亭
42/52

都市の森の探求者たち

アメリア合衆国、ニューシティ。


その名は、あまりにも無邪気で、この街が内包する複雑怪奇な現実を覆い隠すには、あまりにも薄っぺらな響きを持っていた。天を摩するガラスと鋼鉄の巨塔群は、富と権力の象徴として陽光を鈍く反射し、その足元に広がるアスファルトの渓谷には、人、モノ、情報が濁流のように渦巻いている。希望と絶望、成功と挫折、そして数えきれないほどの孤独が、ネオンの光と排気ガスの匂いに溶け合い、この巨大な生命体の脈動を形作っていた。


ジェシカ・ミラーとの最初の会合を終えた後、ノエルとリリィ、そしてルドルフは、彼女が手配してくれたミッドタウンのアパートの一室に戻っていた。床から天井まで続く巨大な窓の外には、まるで地上にこぼれ落ちた天の川のように、無数の光がどこまでも広がっている。ジェシカの理路整然とした分析と圧倒的な情報網は心強い一方で、そのどこか人間的な温かみを欠いた完璧さは、ノエルたちに捉えどころのない感覚を与えていた。彼女は、この光の海を支配する側の人間なのだと、肌で感じていた。


「ジェシカさんに任せきりにするのは、なんだか違う気がするの」


窓の外に広がる光の海を見つめていたリリィは、決意を秘めた目でノエルに向き直った。彼女の青い瞳には、眼下の夜景にも負けない、強い光が宿っている。


「もちろん、彼女の力はすごいわ。私たちが一生かかっても集められないような情報を、瞬時に手に入れてくれるでしょう。でもね、ノエル。それだけじゃ、きっと見つけられないものがあると思うの」


「ジェシカさんの情報網は確かだと思う。カイトも、彼女なら信頼できるって言っていたし」リリィは続けた。「でも、だからといって、全てを彼女任せにして、ただ待っているだけっていうのは、なんだか違う気がするの」


彼女はくるりとノエルの方へ向き直った。その青い瞳には、いつもの探求心に満ちた、強い光が宿っていた。


「さてと、ジェシカさんが情報を集めてくれているうちに、私たちもイリスさんの情報を探しましょう。この広い街のどこかに、きっと彼女の足跡が残っているはずよ」


「え? 僕たちで?」


ノエルの目が、少しだけ驚きに見開かれる。彼の心の中では、この巨大で複雑な都市を前にして、自分たちに何ができるだろうかという、漠然とした不安が渦巻いていた。


「もちろんよ。三人寄れば文殊の知恵、って言うでしょう? 私たちには、私たちのやり方があるはずだわ」


リリィは立ち上がり、テーブルの上に広げていたニューシティの巨大な地図を指差した。その指先は、まるで未開の地に挑む探検家のように、力強く、そして楽しげに地図の上を滑っていく。


「見て、ノエル。このニューシティという街は、ただのコンクリートジャングルじゃない。世界中の文化が流れ着き、根を下ろし、独自の生態系を築いている、巨大な『森』みたいなものなのよ」


彼女の目が、獲物を見つけた狩人のようにキラキラと輝き始めた。


「ニューシティにはね、同じ出身地の人たちが集まってできたマーケットやコミュニティが、そこら中にあるって聞くわ。ほら、ここがチャイナタウンで、こっちがリトルイタリー。ノース・ハーレムにはアフリカ系アメリカ人の文化が、クイーンズにはコリアタウンや、南米からの移民たちが暮らすエリアが広がっている。そこにはきっと、その土地ならではの特別な食材やスパイスが、まだ私の知らない形で眠っているはず。私の知らない、新しい味の世界が広がっているに違いないわ!」


「食材探し……だね!」


ノエルは、リリィの熱のこもった言葉に、思わず身を乗り出した。スネーランドの火山で『ヒータサルター』を探した時の、あの胸の躍るような冒険が蘇る。不安よりも、新たな冒険への期待が勝り始めていた。


「ええ、都市型の『食材探し』よ」


リリィは悪戯っぽく微笑んだ。


「そして、それはきっと、情報探しにも繋がるはず」


彼女は続けた。


「たくさんの人が集まる場所を巡って、聞き込みをしてみましょう。銀色の髪をした、北欧系の女の子。イリスさんのような特徴のある人がいれば、誰かが見かけているかもしれないじゃない? ジェシカさんのようなハイテクな情報網とは違う、もっと人間臭い、足で稼ぐ情報収集よ。こっちの方が、私たちには向いていると思わない?」


「うん! いいね、それ! やってみよう!」


ノエルはすっかりその気になっていた。ただ待っているだけの時間は、彼の性にも合わなかった。自分たちの足で動けるということが、何より嬉しかった。


「へぇ、都市の森、か。面白い表現だね」


部屋の隅で、アパートの管理人が特別に運び込んでくれた上質な干し草を食んでいたルドルフが、穏やかな声で言った。「僕も、この国の『森』には興味がある。どんな匂いがして、どんな音が聞こえるのか。イリスの痕跡を追う、何かの手がかりになるかもしれない」


こうして、ジェシカの情報網とは別に、ノエルたち自身による、手探りの捜索活動が始まることになった。それは、この巨大な都市の深部に分け入り、人々の暮らしの息遣いに触れる、ささやかで、しかし確かな一歩だった。


────

翌朝、ニューシティは夜の間に溜め込んだエネルギーを吐き出すかのように、再びその巨大な心臓を動かし始めていた。ノエルたちが最初に目指したのは、この多民族都市の中でも、最も異質な空気が凝縮された場所――チャイナタウン。地下鉄の駅から地上へ続く階段を上りきった瞬間、彼らはパスポートもなしに国境を越えてしまったかのような、強烈な感覚の渦に飲み込まれた。


空気に含まれる匂いが、まるで違う。

英語の看板を侵食するように、龍が舞い、鳳凰が羽ばたくような躍動的な漢字の看板が、建物の壁という壁を埋め尽くしている。行き交う人々の熱気、耳慣れない抑揚の強い言葉の響き、そして何より、八角や五香粉といったスパイスの甘く官能的な香りが、点心の湯気や、様々な食材が発する生命力そのもののような匂いと混じり合い、嗅覚を激しく揺さぶる。道の両脇には、軒先から飴色の艶を放つ焼き鴨が吊るされ、店先には見たこともない野菜や乾物が山と積まれている。あらゆるものが過剰で、濃密で、生命力に満ち溢れていた。


「わぁ……! ここ、本当にアメリアなの?」


ノエルは、情報の洪水に目を丸くして周囲を見回した。その姿は、初めて大都市を訪れた純朴な田舎の少年そのものだ。


「すごい活気……。匂いも、音も、人の熱気も、何もかもが私たちの知っている世界とは違うわ」


リリィもまた、その圧倒的なエネルギーに気圧されながらも、彼女の青い瞳はすでに獲物を定める狩人のように、鋭い光を宿していた。彼女の探求心は、観光客向けの土産物屋ではなく、この混沌の中心で本物の叡智を守る、路地の奥深くへと向けられていた。


リリィは人混みを巧みにかき分け、メインストリートから一本外れた、より匂いの濃い薄暗い路地へと迷いなく進んでいく。そこには、乾物屋、漢方薬局、八百屋などが、まるで秘密を分け合うかのように肩を寄せ合って並んでいた。彼女の目的は、その一角に佇む古びた漢方薬局だった。色褪せた木の看板には『仁寿堂』と、達筆な墨文字が記されている。


店内に足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のように遠のき、静謐な空気が流れていた。壁一面に並んだ無数の引き出しと、ガラス瓶。甘草や桂皮、そして幾種類もの生薬が長い年月をかけて溶け合った、複雑で、どこか心を落ち着かせるような独特の香りが満ちている。


店の奥のカウンターでは、長い白髭をたくわえ、仙人のような雰囲気を漂わせた老人が、小さな天秤で生薬を慎重に量っていた。彼こそが、この店の主、ワン老人。リリィの来訪に一瞥をくれたが、すぐさま手元の作業へと意識を戻した。その瞳は、長い年月を見つめてきたかのように深く、容易に内側を覗かせない。


リリィは性急に用件を切り出すのではなく、まず店内に満ちる香りを深く吸い込み、壁の引き出しに書かれた漢字のラベルを、一つ一つ吟味するように眺めた。やがて先客が去り、老人が顔を上げたタイミングを見計らい、静かにカウンターへと歩み寄る。


「こんにちは。少し、お伺いしてもよろしいでしょうか」


リリィの丁寧な口調に、ワン老人はゆっくりと顔を上げた。値踏みするような、鋭い視線が注がれる。


「……何を探している。具合でも悪いのかい?」


「いいえ、病気ではありません。私は料理人なのですが、こちらのスパイスに興味がありまして。特に、『医食同源』という考え方に基づいた、体を整えるための調合を探しているのです」


その言葉に、老人の眉がわずかに動いた。「医食同源、か。若い西洋のお嬢さんが、また古風な言葉を知っているもんだ」


「ただ美味しいだけの料理ではなく、食べる人の体を内側から元気にする料理を作りたいのです」リリィは臆することなく、真っ直ぐに老人を見つめ返した。「八角や桂皮が体を温め、花椒が胃を健やかにし、陳皮が気の巡りを良くするように。食材の持つ力を引き出し、組み合わせることで生まれる相乗効果……その叡智を、あなたのような専門家から学びたいと思いました」


付け焼き刃ではない、食材そのものへの深い敬意と探求心に裏打ちされた言葉。老人の険しい表情が、ふっと和らいだ。


「……ほう。あんた、面白いお嬢さんだな」彼は初めて、穏やかな笑みを浮かべた。「よかろう。少し座りなさい。良いお茶でも入れてやろう」


店の奥にある小さなテーブルで、香り高い烏龍茶を淹れながら、ワン老人は静かに語り始めた。それは、広東省から夢だけを抱えて海を渡った曽祖父の話、異国の地で一族を支え続けた漢方の知識の話、そして、代々受け継がれてきた門外不出のスパイスの調合の話だった。


「わが一族の宝、それは『五宝龍魂粉ウーパオロンフンフェン』と呼ばれる調合スパイスだ」彼は、店の奥に置かれた鍵付きの古い木箱に目をやった。「五つの基本のスパイスに、十数種類の秘伝の生薬を、季節や食べる人の体調に合わせて配合を変える。それはただの調味料ではない。気の流れを整え、魂を癒し、明日を生きる力を与える、まさに『食の薬』なのだよ」


それは、異国の地で必死に根を張り、伝統を守り抜いてきた一族の、誇りと魂の物語だった。リリィは、自分が求めていたのはまさにこれだと、深く心を打たれた。単なる味や香りではない。その背景にある、人の歴史や想い。それこそが、料理に深みと温かみを与える最高の調味料なのだ。


その間、ノエルはルドルフと共に店の外で小さな冒険を楽しんでいた。乾物屋の店先で売られている未知の食材に驚いたり、菓子屋で買った月餅の濃厚な甘さに目を丸くしたり。チャイナタウンの活気は、彼のような素直な好奇心を持つ者を温かく迎え入れてくれる。


老師ラオシー、その魂のスパイスを、少しだけ分けていただけませんか」リリィは深々と頭を下げた。「私も、料理で人の心を温めたいと願う者の一人です。決して、無駄にはいたしません」


ワン老人は、リリィの真剣な瞳に嘘がないことを見て取り、ゆっくりと頷いた。「よかろう。お嬢さんのその情熱に応えよう。特別に、お前に合わせた調合で作ってやろう」


老人が厳かな手つきで調合を始めると、リリィはまるで魔法の儀式を見守るように、その一挙手一投足を見つめていた。

だが、彼女の脳は止まっていない。老人が引き出しから取り出す生薬の種類、その比率、香り……それら全ての情報を、驚異的な集中力で記憶し、分析していた。


(甘草と当帰…血の巡りを良くする組み合わせ。あの独特の香りは白芷か。鎮痛作用があるはず。これらをあの比率で混ぜると、一体どんな効果が…?)


未知の組み合わせが、彼女の頭の中で新たなレシピへと昇華されていく。


店を出る前、リリィは本来の目的を思い出し、尋ねてみた。「つかぬことをお伺いしますが、最近このあたりで、銀色の長い髪をした、北欧系の若い女性を見かけませんでしたか」


老人は少し考え込んだ後、静かに首を振った。「はて…見覚えはないな。この界隈はご存じの通りだ。西洋のお嬢さんなら目立つはずだが。すまんな」


手がかりは得られなかった。しかし、リリィの手に握られた小さな紙包みには、スパイスの重み以上の、一族の歴史と温かい心が詰まっていた。


────


チャイナタウンの、五感が飽和するほどの混沌としたエネルギーを後にした彼らが次に向かったのは、まるで別の大陸へと渡ったかのような錯覚を覚える場所だった。リトルイタリー。赤レンガ造りの建物が肩を寄せ合い、馬車の時代から続く石畳の道が歴史の重みを静かに語る。陽気なイタリア語の響きと、カフェから漂うエスプレッソの香りが、この一角だけ時間の流れを少しだけ緩やかにしているようだった。


リリィが目指したのは、大通りの喧騒から一本入った路地に佇む、一軒のデリカテッセン。観光客向けの派手な看板はなく、ただ『カーサ・ディ・マンマ』――お母さんの家――と、温かみのある手書き文字で記された小さな木の看板が下がっているだけ。店先には色とりどりのオリーブの瓶や、天井から吊るされたプロシュートが並び、ここが地元の人々に深く愛されている場所であることが、その家庭的な佇まいから静かに伝わってきた。


店に足を踏み入れると、熟成されたチーズの芳醇な香りと、焼きたてのフォカッチャの香ばしい匂いが、優しい挨拶のように彼らを包み込んだ。カウンターの奥から現れたのは、まさに看板通りの「マンマ」だった。恰幅が良く、真っ白なエプロンがトレードマークのその女性――ソフィアは、太陽のように屈託のない笑顔を浮かべていたが、その瞳の奥には、長年この店の魂を、そして家族の歴史を守り抜いてきた砦の主のような、揺るぎない光が宿っていた。


「いらっしゃい! 旅のお嬢ちゃんたち、何を探してるんだい?」


「こんにちは、マンマ。あなたの作るチーズが、この街で一番美味しいと聞いてやって来ました」リリィは、にこやかに、しかし探求者としての敬意を込めて言った。


「実は……」彼女は少し声を潜めた。「あなたの工房では、ご家族のためだけに作る、特別なリコッタチーズがあると伺いました。市場には決して出回らない、幻のチーズだと」


その言葉が放たれた瞬間、ソフィアの顔から太陽が消えた。笑顔はすっと拭い去られ、長年使い込まれたチーズナイフのように鋭く、厳しい職人の顔つきに変わる。


「……どこでそれを聞いたんだい? あれは、私のノンナ(祖母)から母へ、そして私へと受け継がれてきた、ビアンキ家の宝物だ。誰にでも食べさせるようなもんじゃない。一見さんには、逆立ちしたって売ってやるもんじゃないよ」


その拒絶は、単なる意地悪さからくるものではなかった。家族の歴史と誇りを守るための、聖域を侵す者への当然の警戒心。普通ならここで引き下がるだろう。しかし、リリィは怯まなかった。


「存じております。だからこそ、その歴史と伝統に敬意を表し、ぜひ一度、その魂の味を知りたいのです」

彼女は、懐からスネーランドの市場で手に入れた小さな包みを取り出した。

「これは、遠い北の島国で作られている『スキール』という乳製品です。ヴァイキングの時代から食べられてきた、彼らの魂の味。あなたのチーズとは違う歴史を持つものですが、同じく乳に込められた人々の想いが詰まっています。どうか、味見していただけませんか?」


それは、単なる手土産ではなかった。食を探求する者同士の、敬意に満ちた異文化交流の申し出だった。ソフィアは怪訝な顔で、しかしリリィの真摯な眼差しから目を逸らさず、差し出されたスキールをスプーンで少量すくい、吟味するように口に運んだ。最初は訝しげだった彼女の目が、次の瞬間、大きく見開かれた。


「……なんだい、こりゃ。ヨーグルトとは違う、このクリーミーで、しっかりとした乳の味は……。ふん、面白いじゃないか。あんた、ただの観光客じゃないね」


そこから、二人の国境を越えた「乳製品談義」が始まった。その熱のこもったやり取りを、ノエルは店の外でルドルフと共に少し離れて見守っていた。ソフィアが「坊やたちも待たせて悪いからね」と、特別に味見させてくれたジェラートを頬張る。ピスタチオの濃厚な風味と、ベリーの爽やかな酸味が、旅の疲れを優しく癒してくれた。大きなルドルフは、店の外にいるだけで街の人気者だ。通りかかる子供たちが指をさしたり、店の人がパンの耳を持ってきてくれたりする。リトルイタリーの陽気で世話好きな人々は、異邦から来た二人と一頭を、ごく自然に受け入れてくれていた。


「……分かったよ」ひとしきり話した後、ソフィアは大きなため息をつき、そして観念したように笑った。「あんたのその情熱に免じて、特別だ。少しだけ、味見させてやるよ。ただし、レシピは絶対に教えないからね!」


ソフィアが工房の奥から運んできたのは、雪のように白く、絹のように滑らかなリコッタチーズが乗った小皿だった。まだほんのりと温かい。リリィは、まるで聖杯を受け取るかのように、恭しくその皿を受け取り、スプーンでそっと口に運んだ。


その瞬間、彼女の青い瞳が、驚きと至福で大きく見開かれた。

信じられないほどクリーミーで、ほのかな甘みと、ミルク本来の豊かな風味が口の中いっぱいに広がる。それは、これまで彼女が味わったどのチーズとも違う、シチリアの陽光と、ノンナの優しい皺、そして家族の笑い声が溶け込んでいるような、愛情そのものの味がした。


「……マンマ・ミーア……。この味は……」

リリィは、感動の余韻に浸りながらも、その探求者の脳をフル回転させていた。

「この滑らかさとコク…普通の牛乳じゃないわね。乳脂肪分が極端に高い。水牛の乳? それに、この塩味。ただしょっぱいだけじゃない、微かなミネラルの甘みがある。シチリア島の、特定の岩塩層から採掘されたものでしょうか。凝固させる時の温度は、おそらく摂氏85度前後を保っているはず…」


「な、なんだいあんたは!?」

ソフィアは、自分の店の秘伝の味を、いとも容易く分析していくリリィの姿に、驚嘆の声を上げた。


「あわわ、ご、ごめんなさい、マンマ! この子、悪気はないんです! ただ、食べ物のことになると、ちょっと夢中になっちゃうだけで!」

ノエルが慌てて二人の間に割って入り、人懐っこい笑顔で必死にフォローする。彼の人の好さと、リリィの純粋なまでの探求心が、ソフィアの警戒心を少しずつ解きほぐしていった。


「……ふん、変わった嬢ちゃんだね。あたしのノンナも、あんたみたいに味のためなら何でもする人だったよ」

ソフィアは、呆れながらも、どこか昔を懐かしむような目でリリィを見つめていた。彼女は、このチーズに込められた、世代を超えて受け継がれる魂の物語を、リリィに語って聞かせた。


別れ際、リリィは忘れずに尋ねた。

「ところで、マンマ。この辺りで、銀色の髪をした、私たちくらいの歳の女の子を見かけませんでしたか?」


「銀髪の? さあねぇ」ソフィアは少し首を傾げた。「観光客なら、そりゃあ毎日、色んな国の人が店の前を通り過ぎていくよ。綺麗な子も、変わった格好の子も、たくさんいる。いちいち覚えてなんかいられないさ。ごめんよ、力になれなくて」


ここでも、イリスの手がかりは掴めなかった。しかし、リリィの心は、それ以上に価値のある「魂のレシピ」と、人との温かい繋がりで満たされていた。


────


陽が傾き始め、街の風景が黄金色に染まり始めた頃、彼らは最後の目的地、ハーレムへと向かった。地下鉄を乗り継ぎ、マンハッタンのアップタウンに位置するその地区に足を踏み入れると、街の空気は再び一変した。建物の壁には、鮮やかな色彩で描かれたグラフィティアートが、力強いメッセージを放っている。


リリィが向かったのは、大通りから少し入った場所にある、食材店を兼ねた小さなダイナーだった。店の名は「ジャクソンズ・ソウル・キッチン」。使い込まれて黒光りするカウンターと、数席のテーブルだけの、こぢんまりとした店だ。しかし、ひっきりなしに訪れる客の様子から、地元の人々に深く愛されている店であることが窺えた。


店のカウンターの中には、寡黙そうな、しかしその瞳の奥に深い優しさを湛えた、大柄な黒人男性が一人で立っていた。彼が店主のジャクソンだった。


リリィはメニューに一通り目を通した後、決めていたかのように言った。「ガンボスープを、一つお願いします。それと、あなたの特製のスパイスブレンドを、少しだけ分けていただくことは可能でしょうか」


ジャクソンは、リリィの言葉に少し驚いたように眉を上げた。


「スパイス、だと? うちの料理が気に入ったのかい?」


「はい。この店の前を通った時から、素晴らしい香りがしていました。ケイジャンスパイスや、燻製パプリカ、カイエンペッパー……色々なものが混じり合って、とても複雑で、深い香りがします。でも、それだけではない、何か特別な……魂のこもったような香りがするんです」


ジャクソンは何も言わず、厨房に立つと、手際よくガンボスープを温め、リリィの前に置いた。リリィは、まずその香りを深く味わい、そしてスプーンでスープを一口、ゆっくりと口に運んだ。


その瞬間、彼女は言葉を失った。様々なスパイスが織りなす複雑な辛味と風味、野菜の甘み、魚介の旨味、そしてそれら全てをまとめ上げる、信じられないほど深いコク。それは、単なる料理の味を超えていた。


「……美味しい……。本当に、美味しいです」リリィは、感動で少し潤んだ目でジャクソンを見上げた。「この味の秘訣を、教えていただくことはできませんか?」


ジャクソンは、ゆっくりとカウンターを拭きながら、静かに首を振った。「秘訣、ね。そんなものはないさ。これは、俺たちの歴史と魂の味だ。レシピなんて紙切れに書けるような、安っぽいもんじゃない」


彼は窓の外、夕暮れの街を眺めながら、ぽつりぽつりと語り始めた。その間、ノエルは店の隅のジュークボックスから流れる、レイ・チャールズやB.B.キングのブルースに、不思議と心を惹かれていた。その物悲しくも力強いメロディは、ジャクソンの語る歴史と、ハーレムという街が持つ独特の空気に見事に重なり合っているように感じられた。


「俺のひい爺さんは、南部のプランテーションから逃げてきた奴隷だった。ひい婆さんは、そこの料理人だった。食うものもろくにない中で、彼らは知恵を絞った。捨てられるような野菜の切れ端や、魚の骨から出汁をとり、手に入る限りのスパイスを混ぜ合わせて、家族の腹を満たした。その味が、俺の婆さんへ、そしてオフクロへ、そして俺へと受け継がれてきた。このガンボの味はな、俺たちの先祖が、どんなに辛い時でも生きることを諦めなかった、その証なんだよ。だから、レシピなんてない。心で、舌で、魂で受け継いでいくもんなんだ」


ジャクソンの言葉は、重く、そして尊かった。リリィは、自分の問いが、いかに浅はかであったかを恥じた。


食事が終わる頃、リリィは再び、最後の望みをかけて尋ねてみた。「ジャクソンさん。この辺りで、銀色の髪の、私たちと同じくらいの歳の白人の女の子を見かけませんでしたか?」


ジャクソンは、しばらく黙って考え込んだ後、静かに言った。「銀髪の、白人の子、か。この辺りじゃあ、あまり見ない顔だな。もし見たら、良くも悪くも目立つだろうが……いや、心当たりはねえな。すまない」


結局、この日、イリスに繋がる直接的な手がかりは、何も得られなかった。


陽が完全に落ち、摩天楼がイルミネーションの光で輝き始める頃、三人はアパートへの帰路についていた。リリィの大きなリュックサックは、チャイナタウンの複雑なスパイス、リトルイタリーの愛情のこもったチーズ、そしてハーレムの魂が宿るホットソースで、ずっしりと重くなっていた。


「結局、イリスさんの手がかりはなかったわね……。この街は、あまりにも広すぎるわ」地下鉄の揺れに身を任せながら、リリィは少し落胆したように呟いた。


「でも、すごい一日だったよ、リリィ」ノエルは、窓に映る自分の顔を見ながら言った。「いろんな国の、いろんな人の暮らしが見えた気がする。みんな、違う言葉を話して、違うものを食べて、違う歴史を持っているけど……でも、家族を大切にしたり、自分の仕事に誇りを持っていたり、美味しいものを食べたら笑顔になったり。そういうところは、みんな同じなんだなって思ったよ」


「……そうね」ノエルの言葉に、リリィの表情が和らいだ。「本当に、そうね。この街は、たくさんの『味』で溢れているわ」


彼女は、ずっしりと重いリュックを抱え直し、その中身を思い浮かべた。チャイナタウンの薬膳スパイス、リトルイタリーの家族のチーズ、ハーレムの魂のホットソース……。それらの食材が、彼女の頭の中で混じり合い、新たなハーモニーを奏で始めようとしていた。


「ねぇ、ノエル」リリィの瞳に、再び探求者の光が灯った。「この素晴らしい食材たちを使って、今度は私たちが、この街の人たちに何かを届けられないかしら……?」


その呟きは、次の冒険の始まりを告げる、静かで、しかし確かなファンファーレのように、地下鉄の騒音の中に響き渡った。

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