都市の森の探求者たち
アメリア合衆国、ニューシティ。
その名は、あまりにも無邪気で、この街が内包する複雑怪奇な現実を覆い隠すには、あまりにも薄っぺらな響きを持っていた。天を摩するガラスと鋼鉄の巨塔群は、富と権力の象徴として陽光を鈍く反射し、その足元に広がるアスファルトの渓谷には、人、モノ、情報が濁流のように渦巻いている。希望と絶望、成功と挫折、そして数えきれないほどの孤独が、ネオンの光と排気ガスの匂いに溶け合い、この巨大な生命体の脈動を形作っていた。
ジェシカ・ミラーとの最初の会合を終えた後、ノエルとリリィ、そしてルドルフは、彼女が手配してくれたミッドタウンのホテルの一室に戻っていた。床から天井まで続く巨大な窓の外には、まるで地上にこぼれ落ちた天の川のように、無数の光がどこまでも広がっている。ジェシカの理路整然とした分析と圧倒的な情報網は心強い一方で、そのどこか人間的な温かみを欠いた完璧さは、ノエルたちに捉えどころのない感覚を与えていた。彼女は、この光の海を支配する側の人間なのだと、肌で感じていた。
「ジェシカさんに任せきりにするのは、なんだか違う気がするの」
窓の外に広がる光の海を見つめていたリリィは、決意を秘めた目でノエルに向き直った。彼女の青い瞳には、眼下の夜景にも負けない、強い光が宿っている。
「もちろん、彼女の力はすごいわ。私たちが一生かかっても集められないような情報を、瞬時に手に入れてくれるでしょう。でもね、ノエル。それだけじゃ、きっと見つけられないものがあると思うの」
「ジェシカさんの情報網は確かだと思う。カイトも、彼女なら信頼できるって言っていたし」リリィは続けた。「でも、だからといって、全てを彼女任せにして、ただ待っているだけっていうのは、なんだか違う気がするの」
彼女はくるりとノエルの方へ向き直った。その青い瞳には、いつもの探求心に満ちた、強い光が宿っていた。
「さてと、ジェシカさんが情報を集めてくれているうちに、私たちもイリスさんの情報を探しましょう。この広い街のどこかに、きっと彼女の足跡が残っているはずよ」
「え? 僕たちで?」
ノエルの目が、少しだけ驚きに見開かれる。彼の心の中では、この巨大で複雑な都市を前にして、自分たちに何ができるだろうかという、漠然とした不安が渦巻いていた。
「もちろんよ。三人寄れば文殊の知恵、って言うでしょう? 私たちには、私たちのやり方があるはずだわ」
リリィは立ち上がり、テーブルの上に広げていたニューシティの巨大な地図を指差した。その指先は、まるで未開の地に挑む探検家のように、力強く、そして楽しげに地図の上を滑っていく。
「見て、ノエル。このニューシティという街は、ただのコンクリートジャングルじゃない。世界中の文化が流れ着き、根を下ろし、独自の生態系を築いている、巨大な『森』みたいなものなのよ」
彼女の目が、獲物を見つけた狩人のようにキラキラと輝き始めた。
「ニューシティにはね、同じ出身地の人たちが集まってできたマーケットやコミュニティが、そこら中にあるって聞くわ。ほら、ここがチャイナタウンで、こっちがリトルイタリー。ノース・ハーレムにはアフリカ系アメリカ人の文化が、クイーンズにはコリアタウンや、南米からの移民たちが暮らすエリアが広がっている。そこにはきっと、その土地ならではの特別な食材やスパイスが、まだ私の知らない形で眠っているはず。私の知らない、新しい味の世界が広がっているに違いないわ!」
「食材探し……だね!」
ノエルは、リリィの熱のこもった言葉に、思わず身を乗り出した。スネーランドの火山で『ヒータサルター』を探した時の、あの胸の躍るような冒険が蘇る。不安よりも、新たな冒険への期待が勝り始めていた。
「ええ、都市型の『食材探し』よ」
リリィは悪戯っぽく微笑んだ。
「そして、それはきっと、情報探しにも繋がるはず」
彼女は続けた。
「たくさんの人が集まる場所を巡って、聞き込みをしてみましょう。銀色の髪をした、北欧系の女の子。イリスさんのような特徴のある人がいれば、誰かが見かけているかもしれないじゃない? ジェシカさんのようなハイテクな情報網とは違う、もっと人間臭い、足で稼ぐ情報収集よ。こっちの方が、私たちには向いていると思わない?」
「うん! いいね、それ! やってみよう!」
ノエルはすっかりその気になっていた。ただ待っているだけの時間は、彼の性にも合わなかった。自分たちの足で動けるということが、何より嬉しかった。
「へぇ、都市の森、か。面白い表現だね」
部屋の隅で、アパートの管理人が特別に運び込んでくれた上質な干し草を食んでいたルドルフが、穏やかな声で言った。「僕も、この国の『森』には興味がある。どんな匂いがして、どんな音が聞こえるのか。イリスの痕跡を追う、何かの手がかりになるかもしれない」
こうして、ジェシカの情報網とは別に、ノエルたち自身による、手探りの捜索活動が始まることになった。それは、この巨大な都市の深部に分け入り、人々の暮らしの息遣いに触れる、ささやかで、しかし確かな一歩だった。
翌朝、ニューシティの喧騒は、夜の間に溜め込んだエネルギーを吐き出すかのように、再び目を覚ましていた。ノエルたちは、手始めに最も異国情緒が色濃いと言われるチャイナタウンへと向かうことにした。地下鉄の駅から地上に出た瞬間、彼らはまるで別の国に迷い込んだかのような錯覚に陥った。
空気の匂いが違う。英語の看板に混じって、あるいはそれ以上に、龍が踊るような躍動的な漢字の看板が、建物の壁という壁を埋め尽くしている。行き交う人々の大半はアジア系の顔立ちで、彼らの間で交わされる広東語や北京語の、抑揚の強い響きが、ノエルにはまるで歌のように聞こえた。道の両脇には、店先まで商品を山と積み上げた商店がひしめき合い、軒先には丸焼きにされたアヒルや豚肉が飴色の艶を放ちながら吊るされている。八角や五香粉といったスパイスの、甘く、それでいてエキチックな香りが、点心の湯気や、様々な食材が混じり合った独特の匂いと絡み合い、ノエルたちの鼻腔を強く刺激した。
「わぁ……! ここ、本当にアメリアなの?」
ノエルは、目を丸くして周囲をきょろきょろと見回した。その姿は、初めて見るものばかりで興奮を隠せない、地方から出てきた子供そのものだった。
「すごい活気……。匂いも、音も、人の熱気も、何もかもが濃密だわ」
リリィもまた、その圧倒的なエネルギーに気圧されながらも、彼女の探求心はすでにフル回転を始めていた。彼女の視線は、観光客向けの土産物屋ではなく、地元の人々が日常的に利用する、路地の奥深くへと向けられていた。
リリィは人混みを巧みにかき分け、メインストリートから一本外れた、薄暗く、より匂いの濃い路地へと入っていく。そこには、乾物屋、漢方薬局、八百屋などが、まるで秘密を分け合うかのように肩を寄せ合って並んでいた。
リリィの目的は、一軒の古びた漢方薬局だった。店の入り口には「仁寿堂」と墨で書かれた古風な看板が掲げられ、店内には、壁一面に並んだ無数の引き出しと、ガラスの瓶が整然と並んでいる。空気中には、甘草や桂皮、そして得体の知れない様々な生薬が調合された、複雑で、どこか懐かしいような、それでいて薬効を感じさせる独特の香りが満ちていた。
店の奥のカウンターでは、長い白髭をたくわえ、仙人のような雰囲気を漂わせた老人が、小さな天秤を使って、客の求める生薬を慎重に量っていた。彼こそが、この店の主、ワン老人だった。リリィが店に入ると、老人は一瞥をくれたが、特に言葉をかけるでもなく、再び手元の作業に集中した。
リリィは、慌ただしく商品を物色するのではなく、まずは店内に満ちる香りを深く吸い込み、壁の引き出しに書かれた漢字のラベルを、一つ一つ興味深そうに眺めていた。しばらくして、先客が去り、店内に静寂が戻った。リリィは意を決して、カウンターの老人へと歩み寄った。
「こんにちは。少し、お伺いしてもよろしいでしょうか」
リリィの丁寧な口調に、ワン老人はゆっくりと顔を上げた。その目は、長い年月を見つめてきたかのように深く、鋭い光を宿している。
「……何を探している。病気かい?」
「いいえ、病気ではありません。私は料理人なのですが、こちらのスパイスに興味がありまして。特に、『医食同源』という考え方に基づいた、体を整えるためのスパイスを探しているのです」
リリィの言葉に、老人の眉がわずかに動いた。
「医食同源、か。若い西洋のお嬢さんが、また珍しい言葉を知っているもんだ」
彼は値踏みするようにリリィの顔をじっと見つめた。
リリィは臆することなく、真っ直ぐに老人を見つめ返した。
「例えば、八角や桂皮には体を温める効果が、花椒には健胃作用や鎮痛効果があると聞いています。そして、陳皮は気の巡りを良くし、消化を助けるとか。私は、ただ美味しいだけの料理ではなく、食べる人の体を内側から元気にするような、そんな料理を作りたいのです。そのためには、あなたのような専門家のお知恵をお借りしたいと思いました」
リリィの口から、淀みなく語られる生薬の名前とその効能。それは、付け焼き刃の知識ではない、食材そのものへの深い敬意と探求心に裏打ちされたものだった。
老人の険しい表情が、ふっと和らいだ。
「……ほう。あんた、面白いお嬢さんだな」彼は初めて、穏やかな笑みを浮かべた。「よかろう。少し座りなさい。良いお茶でも入れてやろう」
彼は三人を店の奥にある小さなテーブルへと促し、手慣れた様子で香り高い烏龍茶を淹れてくれた。
「わしの一族はな、何代にもわたって、この地で漢方医をやってきた」ワン老人は、湯気の立つ茶をすすりながら、静かに語り始めた。「わしの曽祖父の代に、故郷の広東省から、大きな夢と、ほんの少しの荷物だけを持って、このアメリアに渡ってきた。言葉も通じず、頼る者もいない異国の地で、一族が唯一持っていたのが、この漢方の知識と、そして代々受け継がれてきた、門外不出のスパイスの調合だった」
彼は、店の奥の、鍵がかかった古い木箱を指差した。
「あの箱の中に、わが家の宝、『五宝龍魂粉』の調合書が入っている。八角、花椒、桂皮、丁子、小茴香…五つの基本的なスパイスに加えて、十数種類の秘伝の生薬を、季節や、食べる人の体調に合わせて配合を変える。それはただの調味料ではない。気の流れを整え、魂を癒し、明日を生きる力を与える、まさに『食の薬』なのだよ」
ワン老人の話は、単なるスパイスの説明ではなかった。それは、異国の地で必死に根を張り、伝統を守り抜いてきた一族の、誇りと魂の物語だった。
ノエルは、リリィと老人の専門的な会話にはついていけず、店の外で待っていたが、その間にも小さな冒険を楽しんでいた。乾物屋の店先で売られている、見たこともないようなキノコや魚の干物を興味深そうに眺めたり、菓子屋で月餅を一つ買い、その濃厚な甘さに目を丸くしたりしていた。店の前を通りかかる子供たちが、大きなトナカイであるルドルフに興味を示し、遠巻きに眺めている。ノエルが笑顔で手を振ると、子供たちもはにかみながら手を振り返してくれた。言葉は通じなくても、笑顔は万国共通の言語なのだと、彼は改めて感じた。
「このスパイスの香りを嗅ぐと、わしは今でも、子供の頃に母が作ってくれた、温かいスープの匂いを思い出す。貧しくて、ろくな食材もなかったが、あのスープさえあれば、どんな困難も乗り越えられる気がしたもんじゃ。この『五宝龍魂粉』は、わしら一族の、魂そのものなのさ」
リリィは、ワン老人の言葉に、深く心を打たれた。自分が求めていたのは、まさにこういうものだった。単に珍しい味や香りではない。その背景にある、人々の歴史や想い、そして魂。それこそが、料理に深みと温かみを与える、最高の「魔法の調味料」なのだ。
「老師、そのお話を、聞かせていただけて光栄です」リリィは深々と頭を下げた。「もしよろしければ、その魂のスパイスを、少しだけ分けていただけませんか。私も、料理で人の心を温めたいと願う者の一人です。決して、無駄にはいたしません」
ワン老人は、リリィの真剣な申し出に、ゆっくりと頷いた。
「よかろう。お嬢さんのその目には、嘘がない。料理人としての、確かな魂を感じる。特別に、お前に合わせた調合で作ってやろう」
彼は立ち上がると、店の奥の引き出しから様々な生薬を取り出し、長年の経験と勘だけを頼りに、リリィのためだけの『五宝龍魂粉』を調合し始めた。その姿は、厳かで、神聖ですらあった。
「先生、つかぬ事をお伺いしますが」店を出る前、リリィは本来の目的を思い出し、尋ねてみた。「最近、このあたりで、銀色の長い髪をした、北欧系の若い女性を見かけませんでしたでしょうか」
老人は少し考え込むように天井を見上げた後、静かに首を振った。「はて……見覚えはないな。この界隈は、ご存じの通り、ほとんどが我々と同じ顔をした人間ばかりだよ。西洋の、それも北欧から来たようなお嬢さんなら、一目でわかるはず。すまんな」
手がかりは得られなかった。しかし、リリィの心は、新たな知識と、人との温かい交流で満たされていた。
次に彼らが目指したのは、チャイナタウンの喧騒とは打って変わって、どこか陽気で、それでいて歴史の重みを感じさせるリトルイタリーだった。レンガ造りの建物が並び、石畳の道が続く街並みは、まるでヨーロッパの古い都市にタイムスリップしたかのようだ。
リリィが目指すのは、観光客向けのレストランではなく、地元の人々に愛される、小さなチーズ工房兼デリカテッセンだった。店の名前は「カーサ・ディ・マンマ」。訳せば「お母さんの家」。その名の通り、店先には色とりどりのオリーブや生ハム、そして様々な種類のチーズが並び、家庭的な温かい雰囲気を醸し出していた。
店に入ると、カウンターの奥から、看板通りの「マンマ」が現れた。年の頃は60代だろうか。恰幅が良く、白いエプロン姿が様になっている。その女性、ソフィアは、皺の刻まれた顔に、太陽のような明るい笑顔を浮かべていたが、その瞳の奥には、長年この店と家族を守ってきたであろう、鋭い光が宿っていた。
「いらっしゃい! 何を探してるんだい、坊やに嬢ちゃん?」
「こんにちは、マンマ。あなたの作るチーズが、この街で一番美味しいと聞いてやって来ました」リリィは、にこやかに、しかし敬意を込めて言った。
「実は……」リリィは少し声を潜めた。「あなたの工房では、ご家族のためにだけ作る、特別なリコッタチーズがあると伺いました。市場には決して出回らない、幻のチーズだと」
その言葉を聞いた瞬間、ソフィアの笑顔がすっと消え、プロの職人の厳しい顔つきに変わった。
「……どこでそれを聞いたんだい? あれは、私のノンナ(おばあちゃん)から、母へ、そして私へと受け継がれてきた、ビアンキ家の宝物だ。誰にでも食べさせるようなもんじゃない。一見さんには、逆立ちしたって売ってやるもんじゃないよ」
普通ならここで引き下がるだろう。しかし、リリィは怯まなかった。
「存じております。だからこそ、その歴史と伝統に敬意を表し、ぜひ一度、その味を知りたいと思ったのです」彼女は、スネーランドの市場で手に入れた、小さな包みを取り出した。「これは、私の故郷の近く、スネーランドという島国で作られている『スキール』というものです。ヨーグルトに似ていますが、チーズの一種で、非常に濃厚で、独特の酸味があります。ヴァイキングの時代から食べられてきた、彼らの魂の味です。もしよろしければ、味見していただけませんか?」
ソフィアは、怪訝な顔で、リリィが差し出したスキールをスプーンで少量すくい、口に運んだ。最初は訝しげだった彼女の目が、次の瞬間、大きく見開かれた。
「……なんだい、こりゃ。ヨーグルトとは違う、このクリーミーで、しっかりとした乳の味は……。ふん、面白いじゃないか。あんた、ただの観光客じゃないね」
そこから、二人の国境を越えた「乳製品談義」が始まった。二人の間には、食に対する共通の情熱と敬意が、言葉の壁を越えた確かな架け橋を築いていた。その様子を見ていたノエルは、店の外で、ルドルフと一緒にジェラートを頬張っていた。ソフィアが「坊やたちも待たせて悪いからね」と、特別に味見させてくれたのだ。ピスタチオの濃厚な風味と、ベリーの爽やかな酸味が、旅の疲れを癒してくれる。大きなルドルフは、店の外に繋がれているだけでも注目の的で、通りかかる子供たちが「わぁ、トナカイだ!」と指をさしたり、店の人が「お腹が空いてるだろう」と、焼きたてのパンの耳を持ってきてくれたりした。リトルイタリーの陽気で世話好きな人々は、異邦から来た二人と一頭を、温かく迎え入れてくれていた。
「……分かったよ」ひとしきり話した後、ソフィアは大きなため息をつき、そして観念したように笑った。「あんたのその情熱に免じて、特別だ。少しだけ、味見させてやるよ。ただし、レシピは絶対に教えないからね!」
ソフィアは店の奥の工房へと消え、やがて、雪のように白く、絹のように滑らかなリコッタチーズが乗った小皿を手に戻ってきた。それは、まだほんのりと温かかった。リリィは、まるで聖杯を受け取るかのように、恭しくその皿を受け取り、スプーンでそっと口に運んだ。
その瞬間、彼女の青い瞳が、驚きと感動で大きく見開かれた。信じられないほどクリーミーで、ほのかな甘みと、ミルク本来の豊かな風味が口の中いっぱいに広がる。それは、これまで彼女が味わったどのチーズとも違う、優しくて、どこまでも深い、愛情そのもののような味だった。
「……マンマ・ミーア(なんてこと)……。これが、家族の味……」
「どうだい、嬢ちゃん。うちのノンナの味は」ソフィアは、満足そうに腕を組んで言った。
「このチーズはな、ただの牛乳じゃ作れん。この街の、特別な契約農家から仕入れた、特別な水牛の乳だけを使っている。そして、最後の塩加減が肝心だ。これは、わしの一族が、故郷のシチリアから持ってきた、特別な岩塩を使っている。地中海の太陽と、潮風の味がする、涙のようにな」
ソフィアは少し遠い目をして続けた。
「私のノンナも、頑固な職人だった。よく喧嘩もしたけれど、このチーズの作り方だけは、厳しく叩き込まれたわ。ノンナが亡くなる前、最後にこのチーズを一口食べて、『……うん、ベリッシモ(最高だ)。これで、私も安心して天国に行ける』と言ってくれたの。その時の味が、忘れられなくてね」
リリィは、このチーズに、ただの食材ではない、家族の愛と、世代を超えて受け継がれる魂の物語を味わった。
「ところで、マンマ。この辺りで、銀色の髪をした、私たちくらいの歳の女の子を見かけませんでしたか?」リリィは忘れずに尋ねた。
「銀髪の? さあねぇ」ソフィアは少し首を傾げた。「観光客なら、そりゃあ毎日、色んな国の人が店の前を通り過ぎていくよ。綺麗な子も、変わった格好の子も、たくさんいる。いちいち覚えてなんかいられないさ。ごめんよ、力になれなくて」
ここでも、イリスの手がかりは掴めなかった。
陽が傾き始め、街の風景が黄金色に染まり始めた頃、彼らは最後の目的地、ハーレムへと向かった。地下鉄を乗り継ぎ、マンハッタンのアップタウンに位置するその地区に足を踏み入れると、街の空気は再び一変した。建物の壁には、鮮やかな色彩で描かれたグラフィティアートが、力強いメッセージを放っている。
リリィが向かったのは、大通りから少し入った場所にある、食材店を兼ねた小さなダイナーだった。店の名は「ジャクソンズ・ソウル・キッチン」。使い込まれて黒光りするカウンターと、数席のテーブルだけの、こぢんまりとした店だ。しかし、ひっきりなしに訪れる客の様子から、地元の人々に深く愛されている店であることが窺えた。
店のカウンターの中には、寡黙そうな、しかしその瞳の奥に深い優しさを湛えた、大柄な黒人男性が一人で立っていた。彼が店主のジャクソンだった。
リリィはメニューに一通り目を通した後、決めていたかのように言った。「ガンボスープを、一つお願いします。それと、あなたの特製のスパイスブレンドを、少しだけ分けていただくことは可能でしょうか」
ジャクソンは、リリィの言葉に少し驚いたように眉を上げた。
「スパイス、だと? うちの料理が気に入ったのかい?」
「はい。この店の前を通った時から、素晴らしい香りがしていました。ケイジャンスパイスや、燻製パプリカ、カイエンペッパー……色々なものが混じり合って、とても複雑で、深い香りがします。でも、それだけではない、何か特別な……魂のこもったような香りがするんです」
ジャクソンは何も言わず、厨房に立つと、手際よくガンボスープを温め、リリィの前に置いた。リリィは、まずその香りを深く味わい、そしてスプーンでスープを一口、ゆっくりと口に運んだ。
その瞬間、彼女は言葉を失った。様々なスパイスが織りなす複雑な辛味と風味、野菜の甘み、魚介の旨味、そしてそれら全てをまとめ上げる、信じられないほど深いコク。それは、単なる料理の味を超えていた。
「……美味しい……。本当に、美味しいです」リリィは、感動で少し潤んだ目でジャクソンを見上げた。「この味の秘訣を、教えていただくことはできませんか?」
ジャクソンは、ゆっくりとカウンターを拭きながら、静かに首を振った。「秘訣、ね。そんなものはないさ。これは、俺たちの歴史と魂の味だ。レシピなんて紙切れに書けるような、安っぽいもんじゃない」
彼は窓の外、夕暮れの街を眺めながら、ぽつりぽつりと語り始めた。その間、ノエルは店の隅のジュークボックスから流れる、レイ・チャールズやB.B.キングのブルースに、不思議と心を惹かれていた。その物悲しくも力強いメロディは、ジャクソンの語る歴史と、ハーレムという街が持つ独特の空気に見事に重なり合っているように感じられた。
「俺のひい爺さんは、南部のプランテーションから逃げてきた奴隷だった。ひい婆さんは、そこの料理人だった。食うものもろくにない中で、彼らは知恵を絞った。捨てられるような野菜の切れ端や、魚の骨から出汁をとり、手に入る限りのスパイスを混ぜ合わせて、家族の腹を満たした。その味が、俺の婆さんへ、そしてオフクロへ、そして俺へと受け継がれてきた。このガンボの味はな、俺たちの先祖が、どんなに辛い時でも生きることを諦めなかった、その証なんだよ。だから、レシピなんてない。心で、舌で、魂で受け継いでいくもんなんだ」
ジャクソンの言葉は、重く、そして尊かった。リリィは、自分の問いが、いかに浅はかであったかを恥じた。
食事が終わる頃、リリィは再び、最後の望みをかけて尋ねてみた。「ジャクソンさん。この辺りで、銀色の髪の、私たちと同じくらいの歳の白人の女の子を見かけませんでしたか?」
ジャクソンは、しばらく黙って考え込んだ後、静かに言った。「銀髪の、白人の子、か。この辺りじゃあ、あまり見ない顔だな。もし見たら、良くも悪くも目立つだろうが……いや、心当たりはねえな。すまない」
結局、この日、イリスに繋がる直接的な手がかりは、何も得られなかった。
陽が完全に落ち、摩天楼がイルミネーションの光で輝き始める頃、三人はアパートへの帰路についていた。リリィの大きなリュックサックは、チャイナタウンの複雑なスパイス、リトルイタリーの愛情のこもったチーズ、そしてハーレムの魂が宿るホットソースで、ずっしりと重くなっていた。
「結局、イリスさんの手がかりはなかったわね……。この街は、あまりにも広すぎるわ」地下鉄の揺れに身を任せながら、リリィは少し落胆したように呟いた。
「でも、すごい一日だったよ、リリィ」ノエルは、窓に映る自分の顔を見ながら言った。「いろんな国の、いろんな人の暮らしが見えた気がする。みんな、違う言葉を話して、違うものを食べて、違う歴史を持っているけど……でも、家族を大切にしたり、自分の仕事に誇りを持っていたり、美味しいものを食べたら笑顔になったり。そういうところは、みんな同じなんだなって思ったよ」
「……そうね」ノエルの言葉に、リリィの表情が和らいだ。「本当に、そうね。この街は、たくさんの『味』で溢れているわ」
彼女は、ずっしりと重いリュックを抱え直し、その中身を思い浮かべた。チャイナタウンの薬膳スパイス、リトルイタリーの家族のチーズ、ハーレムの魂のホットソース……。それらの食材が、彼女の頭の中で混じり合い、新たなハーモニーを奏で始めようとしていた。
「ねぇ、ノエル」リリィの瞳に、再び探求者の光が灯った。「この素晴らしい食材たちを使って、今度は私たちが、この街の人たちに何かを届けられないかしら……?」
その呟きは、次の冒険の始まりを告げる、静かで、しかし確かなファンファーレのように、地下鉄の騒音の中に響き渡った。