裁きの代償
眠らない街、アメリア。
その光が生み出す深い影の一つ、高層ビルの屋上に、イリスは独り佇んでいた。
冷たい夜風が、彼女の銀色の髪と、深く被った黒いフードを容赦なく揺らす。
国防長官アシュフォードとの予期せぬ対話は、彼女の中に小さな、しかし無視できない波紋を投げかけた。
敵対する世界の権力者の中にも、守るべき未来を想い、個人的な良心に苦悩する人間がいるという現実。
しかし、それは彼女の研ぎ澄まされた決意を鈍らせるものではなかった。
むしろ、GOGという巨大な悪意の存在と、彼らが『魔法』の力を渇望しているという事実は、彼女の行動をさらに加速させる理由となった。一刻の猶予もない。
彼女の今回のターゲットは、GOGと裏で手を結び、人体に有害な可能性を認識しながらも、危険な遺伝子組み換え作物を違法に開発・流通させ、世界の食の安全を脅かしている巨大アグリビジネス企業のCEO。
イリスは静かに目を閉じ、精神を研ぎ澄ます。
彼女の指先から、黒に近い、深く禍々しい紫色の魔力が紡ぎ出された。
翌日には、彼の奇行はスキャンダルとして報じられ、社会的な地位も健康も、全てを失うことになるだろう。
魔法を行使した瞬間、イリスの体を、まるで全身の血が凍りつくかのような、鋭い倦怠感と悪寒が襲った。
それだけではない。キィィン、という金属的な不協和音が、頭蓋の内側で鳴り響き、世界そのものが軋み、悲鳴を上げているかのような錯覚に陥る。
「……また、なの……?」
イリスはよろめき、冷たい屋上の縁に、震える手をついた。
身を切り刻むような反動と、世界を震わせる強大なエネルギーの奔流。
禁書の強大な力は、行使するたびに、術者自身の肉体を蝕み、魂を削り取り、世界のどこかに予測不可能で無秩序な歪みと破壊と悲劇を撒き散らす。
禁断の魔法がもたらす『因果律の反動』。
だが、この奔流の『方向』を定め、一点に集束させることができれば…それは絶大な『力』となる。かつてヘリオスを焼き尽くしたように。
さて…次はこの奔流を、どこへ『導く』べきか…
その拭い去れない罪悪感と、見えない恐怖が、冷たい楔のように彼女の心を深く、深く打ち付ける。
(それでも……私は止まるわけにはいかない……! この腐敗しきった世界の連鎖を、断ち切るまで…! ……立ち止まるわけには……!)
震える唇を強く噛み締め、彼女は崩れ落ちそうになる自分自身を、必死に奮い立たせる。
しかし、その夜空を映す青い瞳の奥には、以前のような純粋な怒りの炎だけではない、深い疲労と、抗いがたい孤独の色が、拭いがたい暗い影のように、宿り始めていた。