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聖夜の黄昏  作者: 那王
序章
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二つの道、一つの願い

協会に戻った私の足取りは、鉛のように重かった。胸の奥に広がるのは、深い、深い無力感。まるで底なし沼に足を取られ、じわじわと沈んでいくような、抗いようのない絶望が、私を飲み込もうとしていた。私の中の何かが、音を立てて崩れ落ちていく。その音は、誰にも聞こえないけれど、確かに私の鼓膜を揺らしていた。


私たちサンタクロース協会が、世界中の子供たちに届けている優しさ。それは、確かに尊いものだと信じてきた。けれど、その優しさは、いったい何なのだろう? 不幸や恐怖を撒き散らす、悪意の権化のような者たちの前では、私たちが信じてきたやり方は、まるで砂の城のように脆く、儚い。波が来れば一瞬で消え、跡形もなくなる。そんな無力なものでしかないのだ。


一人、雪がしんしんと降り積もる中庭に立ち尽くす。冷たい風が、私の銀色の髪を容赦なくかき乱し、頬に触れた雪は、一瞬で溶けて、まるで涙のように伝い落ちる。けれど、その冷たさすら、今の私には、遠い世界の出来事のように感じられた。心の奥底まで凍てついた私には、もう何も感じることができないのだ。


今、この瞬間にも、世界のどこかで、戦争や暴力に苦しんでいる子供たちがいる。助けを求め、泣き叫んでいる子供たちがいる。その声は、私の耳に、はっきりと聞こえる。あの手紙の少年の震える文字が、目の前の雪景色に重なって見える。


『ぼくがわるいこだから、ばくだんがとどいたんですか』


違う。あなたは悪くない。悪いのは、その爆弾を落とす者たち。その爆弾を作らせる者たち。子供たちの涙の上にあぐらをかき、富と権力を貪る者たちだ。


『サンタさんが、たすけてくれないなら、ぼくは、わるいやつらを、ゆるしません』


そうだ、許してはいけない。けれど、誰が彼らを裁くというの?


サンタクロース協会が、世界中の子供たちに届けている優しさ。それは、確かに尊いものだと信じてきた。暖炉の温もりや、甘いホットチョコレートのように、心を温めるものだと。でも、それは嵐の前では、あまりにも無力だ。凍える夜に、毛布一枚でどれだけの寒さを凌げるというのだろう? 吹き荒れる暴力の嵐の前では、私たちの「優しさ」は、吹き飛ばされ、踏みにじられるだけではないのか。


ニコラス様は言った。『いつかその子、その孫が優しい世界を作ってくれる』と。いつか? その「いつか」を待つ間に、どれだけの子供たちが涙を流し、命を落とせばいいの?


私たちは何もできない。何もしてこなかった。そんなことは、あってはならない。絶対に、許すことはできない。この苦しみは、私が終わらせなければならない。誰かがやらなければならないのなら、それは、この痛みを誰よりも知る、私であるべきだ。


足が、勝手に動き出す。協会の奥深くへ。暖かな暖炉の光も、妖精たちの楽しげな槌音も届かない、忘れられた回廊へ。目指す場所はわかっていた。ニコラス様と、彼が絶対の信頼を置く、ごく一部の上位者だけが知る、協会最大の禁忌。禁断の部屋。


かつて、その存在を噂で聞いた時、私は恐ろしいと思った。サンタクロース協会に、そんな「影」の部分があること自体が、信じられなかった。けれど、今の私には、その禁忌を犯すことへの恐れも、ためらいもなかった。いや、正確には、恐れや罪悪感よりも、遥かに強い衝動が、私を突き動かしていた。燃えるような使命感と、焼け付くような絶望が、私の心を支配していた。


回廊を進む。壁には、歴代のサンタクロースたちの肖像画が掛けられている。皆、慈愛に満ちた穏やかな表情をしている。彼らの視線が、私を咎めているように感じた。


『おやめなさい、イリス』

『その道は、破滅へと続いている』


幻聴が聞こえる。ノエルの顔が浮かぶ。彼の屈託のない笑顔、私を信じてくれるまっすぐな瞳。


「ごめんね、ノエル…」


小さく呟いた声は、誰にも届かず、冷たい石の床に吸い込まれていった。あなたと一緒に、子供たちに笑顔を届ける。それが私の夢だったはずなのに。でも、もう、それだけでは足りない。笑顔を奪う者たちを、止めなければ。


たどり着いたのは、古びた樫の扉の前だった。装飾もなく、ただ重々しく存在するその扉は、協会の他のどの扉とも異質な空気を放っていた。埃っぽく、冷たい空気が隙間から漏れ出してくる。まるで、永い間、誰の訪問も拒んできたかのように。


震える手で、重い扉を押す。軋むような音を立てて、扉はゆっくりと開いた。


中は、想像していたよりもずっと狭く、そして暗かった。窓はなく、壁一面が書架になっているが、そこに並ぶのは、使い古された記録簿や図面ばかり。しかし、部屋の中央、石造りの簡素な台座の上に、それはあった。


一冊の、古びた書物。


分厚い表紙は黒い革で装丁され、タイトルも何も記されていない。ただ、中央にかすかに刻まれた、奇妙な螺旋模様だけが、鈍い光を放っているように見えた。長い間、誰にも触れられず、忘れ去られていたのだろう。埃が降り積もり、ページの端は朽ちかけている。


まるで、この世の全ての悲しみと禁忌を吸い込んだかのような、異様な存在感を放っていた。私は蛇に睨まれた蛙のように、その場に縫い付けられた。足がすくみ、呼吸が浅くなる。これが協会最大の禁忌、触れてはならない力だ。


逃げ出せば、まだノエルの隣で、いつもの優しいイリスでいられるかもしれない。ニコラス様の教えを守り、ささやかでも、子供たちの心に光を灯し続ける道を選べるかもしれない。


だが、脳裏に、あの少年の言葉が再び響く。

『ぼくは、わるいやつらを、ゆるしません』


そして、遠い記憶。戦火に焼かれた故郷。両親の最期の顔。助けを求めて伸ばされた、小さな手。


「…助けられなかった」


あの時も、そして、今回も。私は、結局何もできなかった。無力だった。もう、二度と、あんな思いはしたくない。させたくない。


私は、まるで何かに引き寄せられるように、その書物に近づいた。一歩、また一歩と。台座に近づくにつれ、空気がさらに冷たく、重くなっていくのを感じる。書物から、低い唸りが漏れ出ていた。それは警告か、あるいは誘惑か。


見慣れぬ文字で記されたその書物には、一体何が書かれているのか。今の私には、まだ理解することはできない。けれど、この力を使えば、きっと世界を変えることができる。この力があれば、子供たちの悲しみを、永遠に終わらせることができる。そして、あの手紙をくれた少年のような子供たちを、二度と苦しませない世界を、必ず作り出すことができる。


私は、震える手でその書物に触れた。それを手に取った瞬間、古びた本の重みと共に、今まで感じたことのない強大な力が、私の奥底へと流れ込んできた。


「私は…」


声が、自分のものではないように響いた。低く、冷たく、そして揺るぎない響き。


「私は…黒のサンタクロースとなる。この力で、偽りの平和を終わらせ、真実の夜明けをもたらす。子供たちが、もう二度と涙を流さない世界を…この手で、創り変えてみせる」


その言葉を口にした瞬間、私の決意は、ダイヤモンドのように固く、揺るぎないものとなった。もう、迷いはない。


雪が、先ほどよりも激しく降りしきる夜、私は協会を後にした。吹雪が私の視界を奪おうとするけれど、不思議と足取りはしっかりしていた。後ろを振り返ることは、しなかった。


ノエルの、あの優しい笑顔が脳裏をよぎる。けれど、私は迷わない。もう、立ち止まるわけにはいかないのだ。一瞬の躊躇いもなく、前へ、前へと足を進めた。


待っていて、今度こそ、必ず救ってみせる。今度こそ、絶対に。

かつて戦争で失った、もう二度と会えない家族の面影と、手紙をくれた、名前も知らない少年への想いが、私の心の中で激しく渦巻いていた。彼らのために、私はこの力を使うのだ。


「私は...この手で、何かを変える。必ず...」


そう誓った私の胸には、かつてのような、ただ優しいだけの光ではない、もっと強い、何か別の力が宿っているのを感じた。それは、闇のように見えるかもしれない。けれど、その奥底には、希望の光が確かに灯っている。それが何なのか、私にはまだわからない。けれど、その光が、私を導いてくれる。今は、ただそれを信じて、進むしかないのだ。


────


僕はイリスの姿が見当たらないことに気づき、胸がザワザワと騒がしくなっていた。嫌な予感が、背筋を伝って駆け上がってくる。


「イリス、一体どこに行ったんだ……?」


僕は、協会中を走り回った。彼女の部屋、訓練場、食堂、妖精たちの工房…どこにも、イリスの姿はない。彼女がいつも大切に身に着けていた、見習いサンタクロースのバッジも見当たらない。彼女の部屋の机の上には、僕宛の手紙と、古びた家族写真だけが、ぽつんと残されていた。


「まさか……!」


嫌な予感が、確信に変わる。僕は、息を切らしながらニコラス様の部屋へと駆け込んだ。


「聖ニコラス様! 大変です! イリスが、イリスがいなくなりました! もしかしたら、禁断の部屋の禁書を…!」


「やはり、彼女はそちらの道を選んでしまったか……」

ニコラス様は、深く、重いため息をつかれた。その表情は、深い悲しみと、諦めに似た感情に満ちていた。


「僕は…イリスを信じています。だから…必ず連れ戻します。そして、彼女の心を、必ず救ってみせます」

気づけば、僕はそう口にしていた。自分でも驚くほど、力強い声だった。胸の奥から、熱い何かが込み上げてくる。


「ノエル……」

ニコラス様は、心配そうな、それでいて優しい眼差しで、僕を見つめられた。

「儂は、彼女の深い悲しみを、癒してやることができなかった……。じゃが、儂も……彼女を信じておる」

「もし…もし彼女が道を違えてしまった時は……その時は……儂が責任を取ろう……」

その言葉は、静かな部屋に、重く響いた。


僕は、ニコラス様に深く一礼し、部屋を後にした。廊下を歩きながら、どうしようもなく胸が締め付けられる。イリスは、本当に間違った道に進もうとしているのだろうか?


僕はすぐに、旅立ちの準備を整えた。と言っても、着替えを少しと、保存食をリュックに詰めるくらいだ。リュックの中には、イリスと過ごした日々を、ぎゅっと詰め込んだ。一緒に笑ったこと、一緒に頑張ったこと、一緒に見たオーロラの輝き…その全てが、僕の力になってくれるはずだ。


「待っててくれ、イリス。必ず、君を連れ戻すから」


僕の隣で、ルドルフが力強く足踏みをした。頼もしい相棒だ。


「ノエル、何かあったのかい? ひどく慌てているようだけど…」

ルドルフが、心配そうに僕の顔を覗き込む。


「ルドルフ、実は……」

僕は、これまでの出来事を、一つ一つ丁寧に説明した。そして、ルドルフに助けを求めた。

「イリスを探しに行くんだ。君の力を貸してほしい」


ルドルフは、力強く頷いた。

「もちろんだよ! イリスは大切な仲間だ。僕たちで、必ず見つけ出そう!」


僕は、感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。

「ありがとう、ルドルフ。君がいてくれて、本当によかった。一緒に行こう」


僕は、もう一度イリスの部屋に戻り、彼女が残していった家族写真を、大切に懐にしまった。そして、僕宛の手紙を、もう一度読み返した。そこには、僕への感謝の言葉と、そして、自分の信じる道を、どんなことがあっても進むという、強い決意が綴られていた。僕は、手紙をぎゅっと握りしめ、イリスの決意を、全て受け止めようと、自分に言い聞かせた。


「わかった、イリス…。君が、自分の信じる道を行くというのなら…僕はそれを…最後まで見届ける。そして…もし、君が本当に間違った道に進んでしまった時は…必ず…必ず、君を正しい道に連れ戻すから…」


たとえ、どんな困難が待ち受けていようとも、僕は絶対に諦めない。イリスは、僕にとって、誰よりも大切な存在なのだから。


────


雪の降りしきる大地を、イリスはひたすらに進んでいた。冷たい風が彼女の頬を刺したが、彼女は微動だにしなかった。黒いコートが雪に染まり、まるで夜に溶け込むようだった。その先に待つのは、彼女自身も知らない新たな運命。しかし、彼女は立ち止まることなく歩み続けた。彼女の瞳には、手紙の少年の姿と、焼け落ちた故郷の村の光景が焼き付いていた。


「私は、この手で何かを変える。たとえ、この身がどうなろうとも…」


一方、ノエルとルドルフは雪煙を上げながら空を駆けていた。ルドルフの赤い鼻は暗い夜空でもひときわ目立ち、彼らの行く先を照らしている。


「イリスは…一体どこへ…」

ノエルは不安を押し殺し、遠くを見つめた。彼の胸には、イリスへの心配と、彼女を信じる気持ちが入り混じっていた。


「心配しないで、ノエル。イリスならきっと大丈夫だよ。彼女は強い子だから」

ルドルフが優しく励ました。


ノエルはルドルフの言葉に少しだけ安心し、再び前を向いた。

「うん…そうだね。ありがとう、ルドルフ…」


こうして、イリスとノエル、それぞれの長く険しい旅が始まった。


イリスの心には、苦しむ人々を救いたいという強い意志が、ノエルの心には、大切な仲間を信じ、彼女を支えたいという揺るぎない友情があった。静かな雪の中、二つの足跡が、そして一つの蹄の跡が、それぞれの場所から遠くへと続いていく。その足跡はやがて雪に覆われ、見えなくなってしまうかもしれない。だが、彼らの歩んだ道は、確かにそこに刻まれ、世界は少しずつ変わろうとしていた。

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― 新着の感想 ―
イリスは純粋過ぎたのですね。 あまりに純粋が故にとった行動を責められません。 イリスを信じ、そしてノエルを信じます。 イリスに言葉を聞いてもらえるのはノエルだけです。 応援を込めて星をお送りいたします…
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