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聖夜の黄昏  作者: ナオ
序章
4/56

二つの道、一つの願い

協会に戻った私の足取りは鉛のように重かった。胸の奥に広がるのは深い無力感。

まるで底なし沼に足を取られ、じわじわと沈んでいくような、抗いようのない絶望が私を飲み込もうとしていた。私の中の何かが音を立てて崩れ落ちていく。


私たちサンタクロース協会が、世界中の子供たちに届けている優しさ。それは確かに尊いものだと信じてきた。

けれど、その優しさはいったい何なのだろう?

不幸や恐怖を撒き散らす悪意の権化のような者たちの前では、私たちが信じてきたやり方はまるで砂の城のように脆く、儚い。

波が来れば一瞬で消え、跡形もなくなる。そんな無力なものでしかないのだ。


一人、雪がしんしんと降り積もる中庭に立ち尽くす。冷たい風が私の銀色の髪を容赦なくかき乱し、頬に触れた雪は一瞬で溶けて、涙のように伝い落ちる。

けれど、その冷たさすら、今の私には遠い世界の出来事のように感じられた。

心の奥底まで凍てついた私には、もう何も感じることができないのだ。


────


あれから季節は巡った。極夜が明け、太陽が雪原を照らし、短い夏が過ぎ、そしてまた長い冬が訪れようとしている。


あの日、戦火の中へサッカーボールを届けに行ってから、もうすぐ一年が経とうとしていた。


協会は今年もまたクリスマスに向けた準備で活気づいている。

工房からは楽しげな金槌の音が響き、広場ではトナカイたちが飛行訓練に励んでいる。

ノエルも去年よりずっと頼もしくなって、後輩たちの指導をしている。

何も変わらない、平和で、優しいサンタクロースの世界。


けれど、私の中の時間だけが、あの日から止まっていた。


郵便室には例年通り、世界中から山のような手紙が届く。

私はその一通一通に目を通すたびに、息ができなくなるような苦しさを感じていた。


『ゲーム機ください』

『本がほしい』

『でんしゃたくさん』


そんな平和なお願いの中に紛れる悲痛な叫びたち。


『パパとママが、けんかばかりしています。なかよくさせてください』

『お腹いっぱいのご飯がたべたいです』


手紙の向こうに、あの日救えなかった少年の姿が重なる。

あの子はもういない。でも、あの子と同じように泣いている子供たちが、今この瞬間も世界のどこかに無数にいる。


『ぼくがわるいこだから、ばくだんがとどいたんですか』


あの子の問いかけが、一年間、片時も頭から離れなかった。


違う。あなたは悪くない。


悪いのは、その爆弾を落とす者たち。

その爆弾を作らせる者たち。

子供たちの涙の上にあぐらをかき、富と権力を貪る者たちだ。


『サンタさんが、たすけてくれないなら、ぼくは、わるいやつらを、ゆるしません』


そうだ、許してはいけない。けれど、誰が彼らを裁くというの?


サンタクロース協会が世界中の子供たちに届けている優しさ。

それは、確かに尊いものだと信じてきた。暖炉の温もりや、甘いホットチョコレートのように心を温めるものだと。


でもそれは、嵐の前ではあまりにも無力だ。凍える夜に、毛布一枚でどれだけの寒さを凌げるというのだろう?

吹き荒れる暴力の嵐の前では、私たちの「優しさ」は、吹き飛ばされ、踏みにじられるだけではないのか。


ニコラス様は言った。

『いつかその子、その孫が優しい世界を作ってくれる』と。


…いつか?

そのいつかを待つ間に、どれだけの子供たちが涙を流し、命を落とせばいいの?


子供たちの涙は、今、流れている。

その涙を前にして、プレゼントを包み、優しい歌を歌い、ただ待つことなど、私にはできない。

物分かりの良い善人ではいられない。なれないのだ。きっと生まれた時から。


私のコンパスは、いつだって同じ方角を指している。

『目の前の子供の涙を絶対に放置するな』


優しさだけでは、涙は拭えない。笑顔だけでは、爆弾は止められない。


ならば、私は別の力を持つ。

涙を流させる『悪』を、根絶やしにするための力を。

それがどんなに禁忌の力であろうと、子供たちの涙の前では些細な問題だ。


足が勝手に動き出す。協会の奥深くへ。

暖かな暖炉の光も、妖精たちの楽しげな槌音も届かない、忘れられた回廊へ。


目指す場所はわかっていた。

ニコラス様と、彼が絶対の信頼を置くごく一部の上位者だけが知る、協会最大の禁忌。

禁断の部屋。


その存在を噂で聞いた時、私は恐ろしいと思った。

サンタクロース協会に、そんな「影」の部分があること自体が信じられなかった。

けれど、今の私には、その禁忌を犯すことへの恐れも、ためらいもなかった。

いや、正確には、恐れや罪悪感よりも、遥かに強い衝動が、私を突き動かしていた。

燃えるような使命感と、焼け付くような絶望が、私の心を支配していた。


回廊を進む。

壁には歴代のサンタクロースたちの肖像画が掛けられている。

皆、慈愛に満ちた穏やかな表情をしている。彼らの視線が、私を咎めているように感じた。


『おやめなさい、イリス』

『その道は、破滅へと続いている』


ノエルの顔が浮かぶ。

彼の屈託のない笑顔、私を信じてくれるまっすぐな瞳。


「ごめんね、ノエル…」


小さく呟いた声は、誰にも届かず、冷たい石の床に吸い込まれていった。


あなたと一緒に、子供たちに笑顔を届ける。それが私の夢だったはずなのに。

でも、もう、それだけでは足りない。

笑顔を奪う者たちを、止めなければ。


たどり着いたのは、古びた樫の扉の前だった。

装飾もなく、ただ重々しく存在するその扉は、協会の他のどの扉とも異質な空気を放っていた。


冷たい空気が隙間から漏れ出してくる。


震える手で、重い扉を押す。

軋むような音を立てて、扉はゆっくりと開いた。


中は想像していたよりもずっと狭く、そして暗かった。

窓はなく、壁一面が書架になっているが、そこに並ぶのは、使い古された記録簿や図面ばかり。


しかし、部屋の中央、石造りの簡素な台座の上に「それ」はあった。


一冊の、古びた書物。


分厚い表紙は黒い革で装丁され、タイトルも何も記されていない。

ただ、中央にかすかに刻まれた、奇妙な螺旋模様だけが、鈍い光を放っているように見えた。


私は蛇に睨まれた蛙のようにその場に縫い付けられた。

足がすくみ、呼吸が浅くなる。

これが協会最大の禁忌、触れてはならない力だ。


逃げ出せば、まだノエルの隣で、いつもの優しいイリスでいられるかもしれない。

ニコラス様の教えを守り、ささやかでも、子供たちの心に光を灯し続ける道を選べるかもしれない。


だが、脳裏にあの少年の言葉が再び響く。

『ぼくは、わるいやつらを、ゆるしません』


そして、遠い記憶――

私の「原風景」。

瓦礫の下で何もできなかった、あの日の私。


もう二度と、あんな思いはしたくない。

誰にもさせない!


私は、その書物に近づいた。一歩、また一歩と。

台座に近づくにつれ、空気がさらに冷たく重くなっていくのを感じる。


書物から低い唸りが漏れ出ていた。

それは警告か、あるいは誘惑か。


見慣れぬ文字で記されたその書物には、一体何が書かれているのか。今の私にはまだ理解することはできない。


けれど、この力を使えばきっと世界を変えることができる。

この力があれば、子供たちの悲しみを終わらせることができる。

そして、あの手紙をくれた少年のような子供たちを、二度と苦しませない世界を、必ず作り出すことができる。


私は震える手でその書物に触れた。

それを手に取った瞬間、古びた本の重みと共に、今まで感じたことのない強大な力が私の奥底へと流れ込んできた。


「私は…」


声が自分のものではないように響いた。

低く、冷たく、そして揺るぎない響き。


「私は…黒のサンタクロースとなる。この力で、偽りの平和を終わらせ、真実の夜明けをもたらす。」


その言葉を口にした瞬間、私の決意は固く揺るぎないものとなった。

もう、迷いはない。


雪が激しく降りしきる夜、私は協会を後にした。

吹雪が私の視界を奪おうとするけれど、不思議と足取りはしっかりしていた。

後ろを振り返ることは、しなかった。


待っていて、今度こそ、必ず救ってみせる。今度こそ、絶対に。

かつて戦争で失ったもう二度と会えない家族の面影と、手紙をくれた名前も知らない少年への想いが、私の心の中で激しく渦巻いていた。

彼らのために、私はこの力を使うのだ。


「子供たちが、もう二度と涙を流さない世界を…この手で、創り変えてみせる」


そう誓った私の胸には、ただ優しいだけの光ではない、もっと強い、何か別の力が宿っているのを感じた。

それが何なのか、私にはまだわからない。けれど、それが私を導いてくれる。

今は、ただそれを信じて進むしかないのだ。


────


僕はイリスの姿が見当たらないことに気づき、胸がザワザワと騒がしくなっていた。

嫌な予感が、背筋を伝って駆け上がってくる。


「イリス、一体どこに行ったんだ……?」


僕は、協会中を走り回った。

彼女の部屋、訓練場、食堂、妖精たちの工房…

どこにも、イリスの姿はない。


彼女がいつも大切に身に着けていた、見習いサンタクロースのバッジも見当たらない。

彼女の部屋の机の上には、僕宛の手紙と、古びた家族写真だけが、ぽつんと残されていた。


「まさか……!」


僕は、息を切らしながらニコラス様の部屋へと駆け込んだ。


「聖ニコラス様! 大変です! イリスが、イリスがいなくなりました! もしかしたら、禁断の部屋の禁書を…!」


「やはり、彼女はそちらの道を選んでしまったか……」


ニコラス様は、深く、重いため息をつく。

その表情は、深い悲しみと、諦めに似た感情に満ちていた。


「僕は…イリスを信じています。だから…必ず連れ戻します。そして、彼女の心を必ず救ってみせます」


気づけば僕はそう口にしていた。

自分でも驚くほど力強い声だった。


「ノエル……」


ニコラス様は心配そうな、それでいて優しい眼差しで僕を見つめる。


「儂は、彼女の深い悲しみを、癒してやることができなかった……。じゃが、儂も彼女を信じておる」


その言葉は、静かな部屋に、重く響いた。


「もし彼女が道を違えてしまった時は…その時は儂が責任を取ろう……」


僕は、ニコラス様に深く一礼し部屋を後にした。

廊下を歩きながら、どうしようもなく胸が締め付けられる。


イリスは、本当に間違った道に進もうとしているのだろうか?


すぐに旅立ちの準備を整えた。

と言っても、着替えを少しと、保存食をリュックに詰めるくらいだ。


他にはイリスと過ごした日々を、ぎゅっと詰め込んだ。


一緒に笑ったこと

一緒に頑張ったこと

一緒に見たオーロラの輝き


…その全てが、僕の力になってくれるはずだ。


「待っててくれ、イリス。必ず、君を連れ戻すから」


「ノエル、何かあったのかい? ひどく慌てているようだけど…」

僕の隣で、トナカイのルドルフが、心配そうに僕の顔を覗き込む。


「ルドルフ、実は……」

僕は、これまでの出来事を、一つ一つ丁寧に説明した。


そして、ルドルフに助けを求めた。

「イリスを探しに行くんだ。君の力を貸してほしい」


ルドルフは力強く頷き、足踏みをした。

「もちろんだよ! イリスは大切な仲間だ。僕たちで、必ず見つけ出そう!」


頼もしい相棒だ。


「ありがとう、ルドルフ。君がいてくれて本当によかった。一緒に行こう」


僕はもう一度イリスの部屋に戻り、彼女が残していった家族写真を大切に懐にしまった。

そして、僕宛の手紙をもう一度読み返した。


そこには僕への感謝の言葉と、短い一文が、彼女らしい文字で綴られていた。


『ごめんね。でも、私、見て見ぬふりはできないの』


「…知ってるよ、イリス」

僕は、手紙をぎゅっと握りしめた。


「君は、昔からずっとそうだ。だから…僕は君を信じる。君が自分の信じる道を行くというのなら…僕はそれを…最後まで見届ける。そして…もし、君のコンパスが本当に壊れてしまった時は…僕が、必ず君を正しい道に連れ戻すから…」


たとえどんな困難が待ち受けていようとも、僕は絶対に諦めない。

イリスは、僕にとって、誰よりも大切な存在なのだから。


────


雪の降りしきる大地を、イリスはひたすらに進んでいた。

冷たい風が彼女の頬を刺したが、彼女は微動だにしなかった。


その先に待つのは、彼女自身も知らない新たな運命。

しかし、彼女は立ち止まることなく歩み続けた。

彼女の瞳には、手紙の少年の姿と、焼け落ちた故郷の村の光景が焼き付いていた。


「私は、この手で何かを変える。たとえ、この身がどうなろうとも…」


一方、ノエルとルドルフは、深い雪を踏みしめながら、一歩ずつ、静かに歩みを進めていた。

暗い夜道でも、ルドルフの赤い鼻が灯火のように輝き、二人の行く先を優しく照らしている。


ノエルは不安を押し殺し遠くを見つめた。

彼の胸には、イリスへの心配と、彼女を信じる気持ちが入り混じっていた。


「心配しないで、ノエル。イリスならきっと大丈夫だよ。彼女は強い子だから」

ルドルフが優しく励ました。


ノエルはルドルフの言葉に少しだけ安心し、再び前を向いた。

「うん…そうだね。ありがとう、ルドルフ」


イリスの心には苦しむ人々を救いたいという強い意志が、ノエルの心には大切な仲間を信じ支えたいという揺るぎない友情があった。

こうして、イリスとノエル、それぞれの長く険しい旅が始まった。

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― 新着の感想 ―
イリスは純粋過ぎたのですね。 あまりに純粋が故にとった行動を責められません。 イリスを信じ、そしてノエルを信じます。 イリスに言葉を聞いてもらえるのはノエルだけです。 応援を込めて星をお送りいたします…
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