忘却の悪夢
「リリィ、君は知りすぎた」
静かで、しかし有無を言わさぬ冷たい響きが、リリィの鼓膜を震わせた。目の前に立つのはノエル。いつもの頼りなげな笑顔はなく、感情の読めない無表情な顔で、彼はリリィを見下ろしていた。隣にはルドルフが、氷のように冷たい視線で彼女を射抜いている。赤く光るはずの鼻も、今は鈍い色を放っているように見えた。
「サンタクロース協会の秘密…喋るトナカイ、魔法の存在…。残念だけど、君の記憶を少しだけ、調整させてもらうよ」
ノエルはゆっくりとポケットに手を入れる。取り出したのは、あの、見覚えのある小さな革袋。中には、キラキラと輝く金色の砂…『忘却の砂』が入っている。
「いやっ! やめて、ノエル!」
リリィは反射的に後ずさった。背中に冷たい壁が当たる。もう逃げ場はない。「私たちは仲間でしょう!? 信じてって言ったじゃない!」
声が震える。恐怖と、裏切られたような悲しみが込み上げてくる。しかし、ノエルは表情一つ変えない。まるで、心を失ってしまったかのように。
「仕方ないんだ、リリィ。これは、子供たちの夢を守るためなんだ。聖なる使命のためには、時に非情な決断も必要になる。君だって、守りたいものがあるだろう? 食材へのこだわり、料理への情熱…それと同じだよ。僕たちにとっては、それがサンタクロースの秘密なんだ」
言いながら、ノエルはゆっくりとリリィに近づいてくる。一歩、また一歩と。その足音だけが、静まり返った空間に不気味に響く。ルドルフは動かない。ただ、その威圧的な存在感で、リリィの逃げ道を塞いでいる。
ノエルの手が伸びてくる。その指先が、リリィの額に触れようとした瞬間。金色の砂が、革袋の口から流れ出そうになった、まさにその時――。
「あれ? えっ? あーーっ!!」
突然、ノエルが素っ頓狂な声を上げた。さっきまでの冷徹な雰囲気は一瞬で霧散し、いつもの慌てふためくノエルに戻っている。
「ど、どうしよう、リリィ! 間違って、砂、全部かけちゃった! うわぁぁ、袋の口、締め忘れてたんだ! これじゃあ、僕たちのことだけじゃなくて、自分の名前とか、料理の作り方とか、全部忘れちゃうかもしれない! ごめーん!! 本当にごめんよー!!」
ノエルは革袋を逆さまにして振りながら、情けない顔で半泣きになっている。その様子はあまりにも間抜けで、先ほどまでの恐怖が嘘のようだ。
隣のルドルフは、がっくりと肩を落とし、大きなため息をついていた。
「だから言ったのに…加減を知らないんだから…。君はいつもそうだ、ノエル。大事なところで詰めが甘い…」
彼は前脚で額を押さえ、呆れ果てたように首を振っている。
「……へ? えーーっ!?」
────
そこで、リリィははっと目を覚ました。
心臓が、まだドキドキと激しく脈打っている。額にはびっしょりと冷たい汗が浮かんでいた。
「……ゆ、夢……?」
恐る恐る周囲を見回す。そこはオラフル家の、温かい客間だった。窓の外はまだ白み始めたばかりで、部屋の中は薄暗い。
「……はぁ……もう、びっくりさせないでよ……ノエルのバカ……」
リリィは大きく息をつき、まだ少し震える手で額の汗を拭った。夢の中のノエルの冷徹な表情と、最後のマヌケな結末のギャップを思い出し複雑な苦笑いが漏れた。
しかし、安堵しきれない自分がいることにも気づいていた。あの『忘却の砂』。マグナスに使った時の、ノエルとルドルフの躊躇いのなさ。それは、彼らにとって「当たり前」のことなのだろうか。
〈誰にだって守りたいものがある。それは良い人、悪い人、関係ないのかもしれない〉
リリィは、毛布を握りしめながら考えた。
〈そのために武器を取る人がいる。イリスのように、力で世界を変えようとする人がいる。カイトさんのように、情報で相手を追い詰める人がいる。そして、ノエルたちのように、魔法で記憶を消すという選択をする人も……〉
守りたいもののために、どこまで許されるのか。その境界線は、一体どこにあるのだろう。
〈私だって、そう。この手で探し出した、かけがえのない食材を守りたい。その恵みを、無神経に踏みにじるような行為は許せない。だから、マグナスさんのことは……少しだけ、スカッとした気持ちもあったのは事実よ。でも……〉
でも、自分は『忘却の砂』のような力を持たない。もし持っていたら、使っていただろうか? リリィは自身に問いかけるが、答えは出なかった。
ノエルたちを信じたい気持ちと、彼らの持つ「常識」へのわずかな恐れ。その二つの感情が、リリィの心の中で静かに揺れていた。