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聖夜の黄昏  作者: 那王
5章 蝕まれる世界
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予期せぬ対話

アメリアの国防総省、ペンタゴン内で行われた緊急記者会見は、異様な緊張感に包まれていた。壇上に立ったアシュフォード国防長官は、無数のフラッシュと厳しい視線が注がれる中、用意された声明文に一度も目を落とすことなく、強い口調で告げた。


「先ほど、我が国は、スーリア国内におけるテロリスト拠点への第二次限定攻撃作戦を、実行直前に中止いたしました」


その一言が発せられた瞬間、会場は水を打ったように静まり返り、次の瞬間には大きな、そして困惑に満ちたどよめきが波のように広がった。詰めかけた記者たちは矢継ぎ早に質問を浴びせようとしたが、長官はそれ以上何も語らず、固い表情のまま足早に会見場を後にした。


発表はこの衝撃的な声明のみ。理由の説明は一切なく、国内外に様々な憶測が嵐のように飛び交った。テロ組織との裏取引があったのではないか、アメリア国内の政治的対立が表面化したのか、あるいはGOGのような巨大企業の影響力によるものか……真実は霧の中に隠されたままだった。


アメリア軍による第二次スーリア攻撃が、開始直前で不可解な中止命令によって阻止された――そのニュースは、再び戦火に焼かれるであろう村を守るため、そして自らが引き起こしたかもしれない更なる悲劇を止めるため、息を潜めて国境付近に潜んでいたイリスにとっても、全く予想外の報せだった。一体、何が起きたのか? 彼女の知らないところで、何かが大きく動き始めている予感がした。


――――


その夜、国防長官執務室の重厚なマホガニーのデスクで、ジェームズ・アシュフォードは深い疲労を滲ませた表情で椅子に身を沈めていた。一日の激務と、会見が引き起こしたであろう波紋を思い、深く長い溜息をつく。彼はデスクに置かれた一枚の写真立てを手に取り、そこに写る満面の笑みを浮かべた幼い孫娘の姿を、複雑な、そして慈愛に満ちた眼差しで見つめていた。この子の未来のために、自分は正しい選択をしたのだろうか。自問は終わらない。


執務室は静寂に包まれていた。外の喧騒も、この部屋までは届かない。

その、静寂を破るように。

音もなく、気配もなく、部屋の隅の、ランプの光が届かない深い影の中から、ふっと人影が現れた。


「!?」


アシュフォードは、長年の軍人としての経験からくる反射で、瞬時に身構えた。椅子から飛び上がり、全身の神経を研ぎ澄ます。驚きと最大限の警戒を露わに、鋭い視線をその影に向けた。


「誰だ!」


そこに立っていたのは、小柄な、おそらく女性と思われる人影だった。深くフードを目深に被っており、顔の造作はほとんど見えない。ただ、その存在が放つ異様なまでの静けさと、どこかこの世のものではないような不可思議な気配が、アシュフォードの背筋に冷たいものを走らせた。目の前の存在が、通常の暗殺者や侵入者とは全く異なる種類の、理解を超えた何かであると直感したからだ。彼は反射的にデスクの引き出しに手を伸ばし、冷たい拳銃のグリップを握りしめた。


「お前が……魔女か?」


GOGが執拗に追い求め、その存在を警告していた『魔法使い』。世迷い事だと一笑に付していた存在が、今、現実のものとして目の前にいる。アシュフォードはゴクリと唾を飲んだ。


フードの奥から、静かで、しかし凛とした、少女のものと思われる声が響いた。

「魔女? そう名乗った覚えはないけど……そうね。『黒き聖夜の審判』と名乗ったものよ」


その声は、彼の知るテロリストのイメージとはかけ離れて、あまりにも若く、澄んでいた。だが、その声に含まれる揺るぎない意志のようなものが、アシュフォードの警戒心を解かせることはなかった。


「その『黒き聖夜の審判』殿が何の用だね。私を暗殺でもしに来たのか? それとも、攻撃中止の礼でも言いに来たか?」

彼はゆっくりと引き出しから拳銃を取り出し、相手に向けはしなかったが、いつでも撃てる体勢を維持した。


「ただ、理由を知りたかっただけよ」

イリスの声は平坦だった。

「なぜ、土壇場で攻撃を中止したのか」


「ほう…」アシュフォードは片方の眉を上げた。「テロリストが、国防長官の執務室にまで、のこのこと理由を聞きに出向いてくるとはな。随分と大胆じゃないか」

彼は構えていた拳銃を、しかし、自嘲するようにふっと息をつくと、カチャリと音を立ててデスクの上に投げ出した。


「……!」

今度はイリスがわずかに身構えた。彼の意図が読めなかった。


「『魔法』とやらが使えるのだろう?」アシュフォードは投げ出した銃には目もくれず、続けた。「GOGの世迷い事、眉唾物と思っていたが、何の痕跡も残さずこの国防総省の最深部にまで侵入できる時点で、通常の物理法則を超えていることは明らかだ。こんな鉄の塊は、君には無駄だろう」


イリスは少し驚いた。自分の能力が『魔法』であると断定されている。これまでの報道された情報では、ヘリオス社の工場爆破や情報ハッキングなど、最先端の科学技術でも説明が不可能ではない範囲に留めていたはずだった。中東での治癒魔法や転送魔法は、人目に付く場所では使っておらず、報道されてはいないはずだ。だが、この男は、まるで魔法の存在を当然のこととして受け入れているように見える。GOGという名前も口にした。彼らはどこまで知っているのか。


「…急に攻撃をやめた理由を聞きに来たつもりだったけど」

イリスの声に、わずかに探るような響きが混じる。「なんだか、他にも色々と聞くことがありそうね」

イリスの右手が、フードの下でほのかに淡い光を帯びた。相手の心に直接問いかける魔法。それが最も確実で早い。


アシュフォードは、その光に気づいたのか、あるいはイリスの意図を察したのか、しかし動じる様子は見せず、部屋の隅にある革張りのソファセットを顎で示した。

「まあ、立ち話もなんだろう。一旦座って、話でもしないかね、『黒き聖夜の審判』殿」


彼の落ち着き払った態度に、イリスは一瞬躊躇した。しかし、彼が敵意を隠しているようには見えなかった。むしろ、何かを諦めたような、あるいは覚悟を決めたような静けさがあった。イリスは右手の光を収め、無言でソファに向かった。アシュフォードもゆっくりとそれに続く。


「急な来訪だったもので、なんの茶菓子も用意できていないが」

ソファに腰掛けたアシュフォードは、疲れたように深く息をついた。「さて、まずは何から聞きたい?」


「そうね。じゃあまずは、攻撃中止の理由を聞かせてもらえるかしら」

イリスはフードの奥から、真っ直ぐにアシュフォードを見据えた。


「……今回の攻撃には、大義がない。それだけのことだ」

アシュフォードは静かに答えた。


「大義?」イリスの声に皮肉が混じる。「じゃあ、第一次攻撃は? あれには大義があったと? 『砂漠の鷹』がヘリオス社を攻撃したわけではないと、あなたたちも薄々気づいていたはずよ。彼らをスケープゴートにしただけでしょう?」


「……」アシュフォードは反論しなかった。


「まあいいわ」イリスは続けた。「元からあなたと話し合いに来たわけではないの。納得できる答えが得られないなら、直接あなたの心に聞くだけよ」

再び、イリスの右手が淡い光を帯び始めた。


アシュフォードはわずかに目を細めたが、やはり抵抗する様子は見せなかった。

「なるほど、記憶を読むこともできるのか。まあ、構わんが……一つ頼みがある。私がサンタのふりをして、孫娘にケーキを届けたことは、あの子には秘密にしておいてもらえるとありがたい」


「……!」

思いがけない言葉、そして予想もしなかった『サンタクロース』という単語に、イリスは右手の光を思わず消し、動きを止めた。


「……お孫さんがいるのね」


「ああ」アシュフォードの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。「先日のクリスマス、久しぶりに西海岸まで会いに行ってきた。ワシントンからでは遠くてな、なかなか会えんのだが……。本当に、子供の成長というのは嬉しいものだな。この国の未来だ。何物にも代え難い」

彼はデスクの上の写真立てに目をやった。

「そして改めて思った……今回の攻撃には、やはり大義がない、と」


彼はソファに深くもたれかかり、天井を仰いだ。

「今回の攻撃は、対外的にはテロリスト討伐、予防攻撃という建前になっている。だが、その実態は違う。アメリア軍主導の作戦などではない。巨大複合企業、グローバル・オムニ・グループ…GOGが主導した作戦だ。目的はただ一つ、君…『黒き聖夜の審判』をおびき出し、捕獲すること。そんな、世迷い事のような作戦だ」


彼は、ふう、と自嘲するように長い息を吐いた。

「そんなものの為に、部下や、ましてや他国の罪のない人々を危険に晒し、命を奪うことなどできん。そんなことをして、どうしてあの孫娘に、胸を張って会えるというのだ」

「な、そんな大それた理由ではないだろう? 私の極めて個人的な、感傷的な主張を、国防長官という立場を利用して無理矢理通した。ただそれだけのことだ。その結果、私は多くの敵を作っただろうし、この地位も長くはないだろう」

彼は再びイリスに向き直り、皮肉な笑みを浮かべた。

「まあ、目の前に本物の魔女…いや、魔法使いがこうして現れた今となっては、GOGの言い分の方が正しかったのかもしれんな。私の判断は、結果的にこの国を危険に晒しただけだったのかもしれない」


イリスは、フードの奥で静かにアシュフォードを見つめていた。彼の言葉は、彼女が予想していたものとは全く違っていた。権力者の冷徹な計算や陰謀ではなく、一人の人間としての、極めて個人的な葛藤と良心。そして、孫娘への深い愛情。それは、イリスが「裁こう」としていた世界の支配者たちのイメージとは、あまりにもかけ離れていた。

彼もまた、この歪んだ世界の構造の中で、苦悩する一人の人間に過ぎないのかもしれない。


「そう……わかったわ」

イリスはただ静かに彼の言葉を聞いていた。彼の言葉を100%信じたわけではない。この老獪な軍人が、何かを隠している可能性もある。だが、魔法で彼の心を探るつもりは、もうなくなっていた。


「もう一つ、教えてもらえる?」イリスは問いかけた。「『魔法』についてはどこで知ったの? GOGが執心していると言ったわね」


「ああ。GOGはその存在を確信し、研究しているようだった。私や大統領を含め、政府高官の多くは、そんなものはおとぎ話だと思っていたよ。だが、GOGは様々な手段で、その『研究』への協力を政府に求めてきていた」


「そんなおとぎ話のために、軍を動かしたの?」


「彼らのような大口の支援者は、政府の奥深くまで食い込んでいる。いや、食い込んでいるというよりは、共生している、と言った方が正確かもしれんな」アシュフォードは苦々しげに言った。「金、情報、技術…様々な形で、彼らは政府に影響力を行使する。時には、我々軍部でさえも、彼らの意向を無視できないことがあるのだよ」


GOGが魔法を手に入れようとしている。イリスはその事実に、改めて危機感を覚えた。もし、Dr.神室のような人物の手に、協会の禁書のような力が渡れば、それが悪用されることは明らかだった。それは、世界にとって計り知れない脅威となるだろう。


アシュフォードは、目の前のフードの少女を改めて観察した。声や雰囲気から察するに、まだ十代半ばといったところか。こんな子供が、世界を揺るがすほどの力を持っているというのか。そして、その重すぎる宿命を一人で背負っているように見える。彼は心中で深くため息をついた。


「ともあれ」アシュフォードは口調を改め、国防長官としての厳しい表情に戻った。

「『魔法』が本当に存在し、『魔女』…いや、『黒き聖夜の審判』が実在することは、この目で確認できた」


彼はイリスを真っ直ぐに見据え、低い声で告げた。

「今回は攻撃を中止したが、次にアメリア国内で、あるいはアメリアの国益を著しく損なうようなテロ活動を君が行ったならば、その時は容赦しない。いかなる手段を用いても、君を排除する。もっとも、その時には、私はもう国防長官という立場ではないかもしれんがな」


その言葉は、明確な警告だった。イリスは何も答えず、ただ静かにアシュフォードを見つめ返した。二人の間には、見えない火花が散っているような、張り詰めた空気が流れていた。夜はまだ、深く静かだった。


しばしの沈黙の後、イリスはフードの奥で小さく息を吐いた。その声は、先ほどよりも少しだけ、感情の揺らぎを含んでいるように聞こえた。


「……あなたにも守りたい未来がいるのね。その写真のお孫さんの笑顔が、あなたの『大義』を支えている」

イリスの視線が、デスクの上の写真立てに向けられる。


「私にも……」イリスは続けた。その声には、遠い日の痛みが滲む。「守りたかった未来があった。あなたたちの国の、その『国益』や『正義』が生み出した炎の中で、声も上げられずに消えていった、たくさんの子供たちの未来が」

フードの奥で、彼女の拳が強く握り締められるのが、微かな衣擦れの音で伝わってきた。


イリスは静かに立ち上がり、アシュフォードに向き直った。

「あなたがその子の笑顔を守りたいと願うなら、他の子供たちが流す涙にも、目を向けなければならないはずよ。あなたたちの力が、その笑顔を奪っているかもしれないのだから」


アシュフォードは、目の前の少女の言葉に、息を詰めた。彼女の言葉は、若さゆえの理想論かもしれない。だが、その瞳の奥にあるのは、個人的な復讐心や破壊衝動だけではない。経験に裏打ちされた、歪んでいるかもしれないが、あまりにも切実な正義感と使命感。彼はそれを悟らざるを得なかった。この少女は、単なるテロリストという枠では到底測れない存在なのだと。


「だから、私は止まらない」イリスは宣言した。「あなたたちアメリアの力が、世界のどこかで子供たちを苦しめ続ける限り、私は何度でも立ち向かう。この力で、偽りの平和を終わらせるために」


「……それは許されない」アシュフォードは、国防長官としての立場を思い出すように、厳しい声で応じた。「国には国の秩序があり、国際社会にはルールがある。君のやり方は、新たな混乱と憎しみを生むだけだ」


「今の秩序が、憎しみを生み続けているのでしょう?」イリスは静かに問い返す。


イリスは、それ以上言葉を続けることなく、何もない空間に向かって歩き出した。そして、ふと足を止め、アシュフォードの方を振り返った。


「もし、この国の為政者たちが皆、あなたのように……個人的な良心と、その痛みに向き合うことができるなら」

フードの奥から、ほんのわずかに、諦観とも皮肉ともつかない、複雑な響きを含んだ声が漏れた。

「世界は、もう少しだけ、ましになるのかもしれないわね」


彼女は付け加えた。

「また、話す機会があればいいけれど」


その言葉が何を意味するのか、アシュフォードが問い返す間もなかった。

イリスが空間にそっと手をかざすと、まるで水面に波紋が広がるように、彼女の周囲の空気が静かに歪み始めた。そして次の瞬間、彼女の姿は音もなく、淡い光の粒子となって霧散し、執務室から完全に消え去っていた。後に残されたのは、微かな冬の夜の空気と、満たされなかった問いだけだった。


アシュフォードは、しばらくの間、イリスが消えた空間を呆然と見つめていた。現実とは思えない出来事。しかし、肌に残る異様な感覚は、それが現実だったことを告げている。

彼は力なくソファに座り込み、再びデスクの上の孫娘の写真に目をやった。そして、深い、深い溜息をついた。

彼女が次に何をするのか、そして自分は、この国は、どう対峙していくべきなのか。答えの出ない問いが、重く彼の肩にのしかかっていた。

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