氷の国のクリスマス
マグナス逮捕の騒動も落ち着き、スネーランドには静かで穏やかなクリスマスの時期が訪れていた。街はささやかなイルミネーションで飾られ、家々の窓からは暖かな光が漏れている。12月23日、クリスマスイブイブ。オラフル一家は、ノエルとリリィを誘って、レイカヴィクのクリスマスマーケットへ出かけた。
マーケットは、規模は小さいながらも地元の人々で賑わい、手作りの工芸品やクリスマスの飾り、そして温かい飲み物や食べ物の屋台が並んでいた。子供たちは目を輝かせ、ビャルキは木彫りの動物のおもちゃに、ソーラは毛糸で編まれた人形に夢中になっている。フロキも、リードを引かれながら楽しそうに尻尾を振っていた。
そんな中、ノエルはある屋台に並ぶ商品に気づいた。缶詰、チョコレート、インスタントスープ、さらには子供向けの絵本や衣料品まで、様々な商品に「Helios」のロゴが入っているのだ。
「ヘリオスって、軍需企業じゃなかったの?」
ノエルは隣を歩くリリィに尋ねた。
「そうよ。でも、ヘリオス社は軍事部門だけじゃなくて、食品、化学、出版、アパレル…本当に色々な分野に進出している、巨大な複合企業なの。ここスネーランドでも、ヘリオス製品は生活の隅々にまで入り込んでいるわ」
リリィは少し複雑な表情で説明した。「グローバル・オムニ・グループと世界市場を二分する大企業ね」
屋台の店主が、客との会話で「ヘリオスの工場が爆破された影響で、一部の輸入品の入荷が遅れているらしい」と話しているのが聞こえてきた。
別の屋台では、インガが伝統的な模様が編み込まれた美しいセーターを手に取っていた。
「見て、この模様、素敵でしょう? 私の祖母がよく、この模様のセーターを編んでくれたのよ」
インガはノエルたちに見せながら、少しだけ寂しそうに続けた。
「昔はね、この国の羊毛はもっと質が良くて、編み物も盛んだったのよ。でも、気候が変わって羊の毛質も変わってしまって…今では、安価な輸入品に押されて、伝統技術を受け継ぐ人も減ってしまったわ」
気候変動、グローバル経済、様々な要因が複雑に絡み合い、この美しい島の自然や、人々の暮らし、そして伝統文化にまで影響を与えている。その現実に、リリィは複雑な気持ちになった。
自然の恵みを探し求める彼女にとって、その恵みそのものが脅かされているという事実は、他人事ではなかった。
ノエルも、サンタクロース協会が守ろうとしている子供たちの未来が、こうした環境の変化によっても脅かされていることを改めて感じ、胸が痛んだ。
「イリスさんの気持ちも、分からないではないのだけど……」
リリィは呟いた。「彼女が戦おうとしている相手は、あまりにも大きくて、複雑すぎるのかもしれないわね。一つの行動が、意図しない形で、たくさんの人々の生活に影響を与えてしまう……」
彼女の言葉に、ノエルも頷くしかなかった。
────
そして、クリスマスイブ。オラフル家では、特別なパーティーが開かれるわけではなかった。リリィが市場で仕入れてきた、今では貴重になった地元の魚介類と野菜、そしてノエルが手伝ってインガと一緒に焼いたライ麦パン、デザートにはリリィが腕を振るったベリーのタルトが並んだ。もちろん、味付けの決め手には、あの火山で採取した特別な「ヒータサルター」が使われている。
「スコゥル!(乾杯!)」
オラフルが陽気にグラスを掲げる。食卓には、暖炉の火とキャンドルの灯りが温かく揺らめき、家族と、大切な仲間たちの笑顔があった。
豪華ではないけれど、心のこもった料理を、信頼できる人たちと分かち合う。まさに、リリィが語っていた理想の「食」の形が、そこにはあった。ノエルは、この温かい食卓の一員でいられることに、深い幸福を感じていた。
夜が更け、子供たちがサンタクロースへの期待を胸に眠りについた後、ノエルは一人、家の外に出て夜空を見上げていた。凍てつくような空気の中、星々は一層強く輝き、オーロラが巨大な緑色のヴェールのように空全体を優雅に舞っている。
〈今頃、協会では……みんな、世界中の空を飛び回っているんだろうな……〉
ノエルは遠い故郷に思いを馳せた。その時、夜空の高い場所、オーロラの輝きの中を、星とは違う、微かな赤い光点がスーッと動いていくのが見えた。一瞬で視界から消えたが、ノエルにはそれがサンタクロースのソリの光だと、はっきりと分かった。サンタクロースは、本当にこの国にも来ているのだ。
そっと家の中を覗くと、リビングの暖炉のそばに、見慣れた赤い服の人物が立っていた。プレゼントの袋を肩にかけ、子供たちが吊るした大きな靴下を覗き込んでいる。背格好からしてニコラスではない。もう少し若く、精悍な体つきの、中年から初老くらいの男性サンタだ。
ノエルは息を潜めて、ドアの隙間からそっと様子を窺った。そのサンタは、ノエルの視線に気づくと、驚いたように振り返り、そしてすぐに優しい笑顔を見せた。
「おや? ノエルじゃないか。こんなところでどうしたんだね?」
「……グスタフさん!」
ノエルは驚いて、思わず声を上げた。グスタフは、サンタクロース協会の中でも特にソリの操縦技術に長けた、ベテランのサンタクロースの一人だった。ノエルやイリスも、見習い時代に彼からソリの扱い方を教わったことがある、いわば恩師のような存在だ。
「ニコラス様から話は聞いているよ。イリスを追って、協会を出たんだってね」
グスタフの声は穏やかで、ノエルを咎める響きはなかった。
「は、はい……ごめんなさい、勝手なことをしてしまって……」
ノエルは申し訳なさそうに俯いた。
「いや、君の気持ちは痛いほど分かるよ」グスタフは静かに言った。「ニコラス様も、協会の皆も、心配はしている。だが、君と、そしてイリスのことを信じてもいる。我々には直接手を出せない世界の歪みに、君たちがどう向き合おうとしているのかを、な」
グスタフはそう言うと、肩の袋から二つのプレゼントを取り出した。
「さて、私も仕事の途中だ。この家のビャルキ君とソーラちゃんにも、プレゼントを届けないとな。二人とも、今年はとっても良い子にしていたと聞いているからね」
「はい! 二人とも、本当に良い子たちです!」
ノエルは力強く頷いた。
グスタフは、子供たちが暖炉のそばに吊るしておいた大きな靴下に、そっとプレゼントを入れた。そして、暖炉の上に置かれていた、子供たちがサンタさんのために用意したであろうクッキーとミルクに目を留め、にっこりと微笑んだ。
「おっと、これはありがたい。長旅には甘いものと温かい飲み物が一番だからな」
彼はクッキーを一枚つまみ、ミルクをありがたく一口飲んだ。
「グスタフさん、協会の皆さんは元気ですか?」
ノエルが尋ねる。
「ああ、皆、元気にやっているさ」グスタフは少しおどけたように言った。「もっとも、君たち見習いエースコンビと、トナカイ部隊の切り札であるルドルフがいなくなったせいで、現場は大わらわだよ。特に今年は異常気象も多くてな、昔のデータが当てにならないんだ。気流は乱れるし、予期せぬ吹雪に見舞われることもある。飛行ルートの確保も一苦労だ。私も駆り出されて、普段は担当しないこのスネーランドの配達に四苦八苦しているところさ」
彼は冗談めかして肩をすくめたが、その目にはノエルとルドルフへの変わらぬ信頼が窺えた。温暖化の影響は、サンタクロースの仕事にまで及んでいるようだった。
「本当に、すみません……僕たちのせいで……」
「まあ、気にすることはない」グスタフはノエルの肩を力強く叩いた。「君たちには、君たちにしかできない、大切な使命があるんだろう? それを、信念を持ってやり遂げることだ。ただし、無茶だけはするなよ。生きて帰ってこなければ、何も始まらんからな」
彼の言葉は、厳しくも温かかった。
「ニコラス様も、妖精たちも、グレン爺さんたち古株も、皆、君たちの無事を祈っている。それを決して忘れるな」
「はい……! ありがとうございます!」
ノエルの胸に、熱いものが込み上げてきた。
「さて、私は次の家へ行かねばならん。子供たちの夢を、届けにな」
グスタフは袋を担ぎ直し、ノエルと、そばで静かに聞いていたルドルフに視線を送った。
「メリークリスマス、ノエル、ルドルフ。そして、イリスによろしく伝えてくれ。『君の帰りを待っている者がいる』と」
そう言い残すと、グスタフは暖炉の煙突から、音もなく外へと消えていった。おそらく、屋根に待機させているソリに乗って、次の目的地へと飛び立っていったのだろう。
ノエルはしばらく、グスタフが消えた暖炉を見つめていた。協会との繋がりを再確認し、そして託された言葉の重みを感じていた。世界が抱える問題の大きさと、それでも守りたいものの尊さを、改めて胸に刻んだ。
────
翌朝、クリスマス当日。リビングでは、ビャルキとソーラが靴下に入っていたプレゼントを見つけ、大喜びではしゃぎ回っていた。ビャルキは精巧な作りの船の模型、ソーラは美しい刺繍が施されたドレスを着た人形。どちらも、二人が欲しがっていたものだった。その笑顔は、昨日までの不安や葛藤を忘れさせてくれるほど、純粋で輝いていた。
スネーランドのクリスマスは、穏やかで、平和に満ちていた。
翌朝、クリスマス当日。リビングでは、ビャルキとソーラが靴下に入っていたプレゼントを見つけ、大喜びではしゃぎ回っていた。ビャルキは精巧な作りの船の模型、ソーラは美しい刺繍が施されたドレスを着た人形。どちらも、二人が欲しがっていたものだった。その笑顔は、昨日までの不安や葛藤を忘れさせてくれるほど、純粋で輝いていた。
スネーランドのクリスマスは、穏やかで、平和に満ちていた。
その頃、遠く離れたアメリアでは、不穏な空気が再び漂い始めていた。アメリア政府が、中東のスーリアに対する新たな軍事行動を検討しているというニュースが、断片的に流れ始めていたのだ。
「──速報です。アメリア政府は、国際テロ組織『砂漠の鷹』による新たなテロ計画を未然に阻止しするため、中東のスーリアに対する第二次限定攻撃を決定したと発表しました。国防総省は、『これは自衛のための正当な措置である』と強調しています──」
そのニュースを、アメリア国内の隠れ家で見ていたイリスの瞳に、強い光が宿った。
「また……!」
彼女は固く拳を握りしめた。窓の外では、平和なクリスマスの飾りが虚しく輝いている。
「もう二度と、あんな悲劇は起こさせない……! 子供たちの涙は……私が、終わらせる!」
イリスの決意は、冷たく燃える炎のように、彼女自身を突き動かそうとしていた。静かな聖夜とは裏腹に、世界は再び、きな臭い煙に包まれようとしていた。ノエルたちの知らないところで、新たな戦いの火蓋が切られようとしていたのだ。