予期せぬ対話
アメリアの国防総省、ペンタゴン内で行われた緊急記者会見は、異様な緊張感に包まれていた。
壇上に立ったアシュフォード国防長官は、無数のフラッシュと厳しい視線が注がれる中、用意された声明文に一度も目を落とすことなく、強い口調で告げた。
「先ほど、我が国は、スーリア国内におけるテロリスト拠点への第二次限定攻撃作戦を、実行直前に中止した。中止は、国防長官たる私の権限において、私が命じたものである」
一瞬、会見場から音が消えた。記者たちのペンが止まり、キーボードを叩く音が途絶える。次の瞬間、四方から一斉に質問の声が立ち上がり、フラッシュの明滅が長官の顔を白く塗り潰した。
だが長官は、それ以上一言も語らなかった。固い表情のまま演台を離れ、浴びせられる質問を背中で受け流し、足早に会見場を後にした。
発表は、この声明のみ。統合参謀本部が追って出した公式文書も、『状況の変化に伴う再検討』という、何も言っていないに等しい一行だけだった。空白は、憶測で埋まっていく。テロ組織との裏取引があったのではないか。政権内の対立が表面化したのか。あるいは、GOGのような巨大企業の影響力によるものか……。どの仮説にも、それを裏付ける事実は一つもなかった。
――――
同じ頃、スーリア国境の難民キャンプにも、その報せは届いていた。
配給の列の先頭近く、古びたラジオを囲んだ人垣から、どよめきが起きる。中止、という一語が、いくつもの言語に訳されながら、列の後ろへと伝わっていく。空を見上げる者。隣の者と抱き合う者。膝をつき、祈りを捧げる者。だが、あの母親は、足元の小さな包みを解こうとはしなかった。中止と延期の区別を、この土地の人々はもう知っている。
人混みの外れ、テントの陰に、深くスカーフを巻いた小柄な影があった。
「第二次限定攻撃」の報せがこの村に届いた日から、その右手は、スカーフの下で一度も開かれていなかった。握り込んだ拳の中には、編み上げて圧し固めた魔力が、黒い熾火のように眠っている。空の彼方で切り離される鉄の塊を、この村に届くより先に、まとめて虚空へ呑ませるための一手。反動は、また体のどこかを噛むだろう。構わなかった。二度も、この空に火の雨を降らせはしない。
ラジオの声が、中止を告げた。
イリスは、右手を開いた。行き場を失った黒い熾火が、指の間で解けて、砂の上の影に溶けていく。何日ぶりかに伸ばした指の関節が、ぎこちなく軋んだ。
(一体、何が起きたの……?)
爆撃なら、止めるつもりだった。支度は、この手の中で終わっていた。けれど彼らは、届く前に、自分から止まった。
彼女の知らないところで、何かが大きく動き始めている。その予感が、妙に確かだった。
――――
その夜、国防長官執務室。重厚なマホガニーのデスクの上には、決裁を待つ書類が手つかずのまま積まれていた。その山とは別に、一通だけ、宛名を書き終えた封筒が置かれている。ジェームズ・アシュフォードは緩めたネクタイもそのままに、椅子に深く身を沈めていた。
会見が引き起こしたであろう波紋を思い、深く長い息を吐く。
それから、デスクの写真立てを手に取った。満面の笑みを浮かべた、幼い孫娘。彼は親指の腹で、写真を覆うガラスをそっと拭った。埃など、ついてはいないのに。
この子の未来のために、自分は正しい選択をしたのだろうか。自問は、終わらない。
執務室は静寂に包まれていた。外の喧騒も、この部屋までは届かない。暖炉の上の古い置時計が、規則正しく秒を刻んでいる。
その、静寂を破るように。
――いや、破りはしなかった。時計の音も、空気の流れも、何一つ乱さぬまま。部屋の隅の、ランプの光が届かない深い影の中に、ふっと人の輪郭が滲み出た。
アシュフォードは動いた。
写真立てを置き、引き出しを引き、拳銃のグリップを握る。一連の動作に、一秒とかかっていない。四十年、体に刻み込んできた反射だった。
「誰だ!」
そこに立っていたのは、小柄な、おそらく女性と思われる人影だった。
深くフードを被り、顔の造作はほとんど見えない。
おかしい、と彼の戦場勘が告げていた。ドアは施錠されたまま。窓の掛け金も下りている。この部屋に至るまでには三重の警備と生体認証。侵入経路が、どこにもない。それなのに目の前の影は、最初からそこに立っていたかのように、あまりにも静かだった。
「貴様が……魔女か?」
GOGが執拗に追い求め、その存在を警告し続けていた『魔法使い』。世迷い事だと一笑に付してきた存在が、今、現実のものとして目の前にいる。知らぬ間に、奥歯を強く噛みしめていた。
フードの奥から、静かで、しかし凛とした声が響いた。少女の声だった。
「魔女? そう名乗った覚えはないけど……そうね。『黒き聖夜の審判』と名乗ったものよ」
その声は、彼の知るテロリストのイメージから、あまりにもかけ離れていた。若く、澄んでいて――だが、その芯にある揺るぎないものが、警戒を緩めることを許さなかった。
「その『黒き聖夜の審判』殿が何の用だね。私を暗殺でもしに来たのか? それとも、攻撃中止の礼でも言いに来たか?」
彼はゆっくりと引き出しから拳銃を取り出した。銃口は向けない。だが、いつでも撃てる。
「ただ、理由を知りたかっただけよ」
イリスの声は平坦だった。
「なぜ、土壇場で攻撃を中止したのか」
「ほう……」
アシュフォードは片方の眉を上げた。
「テロリストが、国防長官の執務室にまで、のこのこと理由を聞きに出向いてくるとはな。随分と大胆じゃないか」
そして彼は、ふっと自嘲するように息をつくと、構えていた拳銃を、カチャリと音を立ててデスクの上に投げ出した。
「……!」
今度はイリスが、わずかに身構えた。彼の意図が読めなかった。
「『魔法』とやらが使えるのだろう?」
アシュフォードは投げ出した銃には目もくれず、続けた。
「GOGの世迷い事、眉唾物と思っていたが、何の痕跡も残さずこの国防総省の最深部にまで侵入できる時点で、通常の物理法則を超えていることは明らかだ。こんな鉄の塊は、貴様には無駄だろう」
イリスは少し驚いた。
自分の能力が『魔法』であると断定されている。
これまで報道された情報では、ヘリオス社の工場爆破や情報ハッキングなど、最先端の科学技術でも説明が不可能ではない範囲に留めていたはずだった。中東での治癒魔法や転送魔法は、人目に付く場所では使っておらず、報道もされていない。
だが、この男は、魔法の存在を当然のこととして受け入れているように見える。
GOGという名前も口にした。彼らは、どこまで知っているのか。
「……急に攻撃をやめた理由を聞きに来たつもりだったけど」
イリスの声に、わずかに探るような響きが混じる。
「なんだか、他にも色々と聞くことがありそうね」
イリスの右手が、フードの下でほのかに淡い光を帯びた。
相手の心に直接問いかける魔法。それが最も確実で早い。
アシュフォードはその光に気づいたのか、あるいはイリスの意図を察したのか、動じる様子も見せず、部屋の隅の革張りのソファセットを顎で示した。
「まあ、立ち話もなんだろう。一旦座って、話でもしないかね、『黒き聖夜の審判』殿」
その落ち着き払った態度に、イリスは一瞬躊躇した。
敵意は感じられない。あるのはむしろ、何かの覚悟を済ませた者の静けさだった。
イリスは右手の光を収め、無言でソファに向かった。アシュフォードもそれに続く。
「急な来訪だったもので、なんの茶菓子も用意できていないが」
ソファに腰掛けたアシュフォードは、疲れたように深く息をついた。
「さて、まずは何から聞きたい?」
「そうね。じゃあまずは、攻撃中止の理由を聞かせてもらえるかしら」
イリスはフードの奥から、真っ直ぐにアシュフォードを見据えた。
「……今回の攻撃には、大義がない。それだけのことだ」
アシュフォードは答えた。
「大義?」
イリスの声に皮肉が混じる。
「じゃあ、第一次攻撃は? あれには大義があったと? 『砂漠の鷹』がヘリオス社を攻撃したわけではないと、あなたたちも薄々気づいていたはずよ。彼らをスケープゴートにしただけでしょう?」
「……」
アシュフォードは反論しなかった。置時計の秒針の音が、いくつか数えられるだけの沈黙があった。
「まあいいわ」
イリスは続けた。
「元からあなたと話し合いに来たわけではないの。納得できる答えが得られないなら、直接あなたの心に聞くだけよ」
再び、イリスの右手が淡い光を帯び始めた。
アシュフォードはわずかに目を細めた。が、やはり抵抗する様子は見せなかった。
「なるほど、記憶を読むこともできるのか。まあ、構わんが……一つ頼みがある。私がサンタのふりをして、孫娘にケーキを届けたことは、あの子には秘密にしておいてもらえるとありがたい」
「……!」
思いがけない言葉。そして、予想もしなかった『サンタクロース』という単語。
イリスの右手から、光が消えた。消したのではない。消えてしまったのだ。
「……お孫さんがいるのね」
「ああ。先日のクリスマス、久しぶりに西海岸まで会いに行ってきた。ワシンテルからでは遠くてな、なかなか会えんのだが……。本当に、子供の成長というのは嬉しいものだな」
彼はデスクの上の写真立てに目をやった。
厳しい軍人の顔が、ほんの少しだけ和らぐ。
だが、すぐに元の硬質な表情に戻った。
「笑うだろう。軍のトップが、おとぎ話の真似事とはな。だが……あの笑顔を守るためなら、私は泥も啜るし、血で手も汚す。国家の利益や政治的な取引のために、数え切れぬほどの『恥ずべき妥協』を重ねて、清濁を併せ呑んでこの席に座り続けてきた」
アシュフォードは深く息を吐き、イリスを真っ直ぐに見据えた。
「だがな。今回のGOGのやり方は、私が許容できる『汚れ仕事』の範疇を超えていた。あれには、軍事行動としての『大義』が致命的に欠落していたのだ」
「どういうこと?」
「奴らは何年も前から、政府に対して奇妙なアプローチを続けていた。『魔法』なる非科学的なエネルギーの研究への協力要請だ。我々はずっと、それを一部の狂信的な科学者の世迷い言だと一笑に付してきたが……まさか、それが真実だったとはな」
アシュフォードは自嘲気味に鼻を鳴らした。
「今回、GOGは正規のプロセスをねじ曲げ、猛烈なロビー活動で、この空爆を大統領へ直接売り込んだ。折しも、時の大統領は『強いアメリア』を旗印に選ばれた御仁だ。テロの殲滅は公約であり、従わぬ国への介入は、票になる看板ときている。……奴らは帆を張る手間さえ惜しんだ。吹いている風に、自分の荷物を載せただけだ」
「作戦計画に添えられていた『観測要領』とやらも読んだよ。爆弾が花に変わらぬか監視しろ、と書いてある。軍の公文書に、だ。挙句、肝心の捕獲手順の頁は白紙同然。……軍事の素人が書いた作文だ。だが、書いた人間が素人でも、飛ぶミサイルは本物でな」
「……テロリストを殲滅するためではない。貴様をおびき寄せるための、巨大な『撒き餌』。あの空爆の正体は、それだ」
「私を……?」
「貴様は甘い。罪のない人々が焼かれるのを黙って見てはいられないだろう? ヘリオス社の工場を跡形もなく吹き飛ばす力があるなら、爆撃を阻止しに戦場へ現れるはずだ――奴らはそう踏んで、貴様を『生け捕り』にするために軍を動かしたのだ」
指先が、冷えていくのが分かった。
敵は、単なる「死の商人」ではなかった。
禁忌の力を狙い、それを手に入れるためなら国さえ操り、戦争さえ演出する。何百、何千という人の命を、獲物を誘き出すためだけの餌として秤にかける者たち。
「そんな狂信的な宝探しのために、神聖なる軍隊を猟犬として使わせるわけにはいかん。ましてや、部下と、他国の罪もない人々の命を、餌代として帳簿につけるなど論外だ」
アシュフォードの声に、軍人としての冷徹な怒りが滲んだ。
「組織の論理に従い、妥協を重ねてきた私にも、どうしても呑み込めん一口があった。合衆国の軍が、一企業の狩りの犬に成り下がる――それだけは、私の当直の間には許さん。そんな作戦書に判を捺して、どの面を下げて、あの孫娘に会えというのだ。……だから、止めた。国防長官という立場を行使してな」
イリスは、フードの奥で男を見つめていた。
「だが、勘違いしてもらっては困る」
アシュフォードは身を起こし、その視線を正面から受け止めた。
「私は、貴様の味方でも、平和の使徒でもない。あれが議会の承認を経た、大義ある正規の軍事行動であったなら――私は眉ひとつ動かさず、攻撃を続行させていた。貴様が、あの村ごと焼かれることになろうともだ。国家の敵を排除するのが、私の職務だからな」
イリスは、何も言わなかった。フードの奥の視線だけが、わずかに硬くなった。
「そして、もう一つ」
彼の目が、デスクの上の一通の封筒へ動いた。
「この国の軍の最高司令官は、大統領だ。選挙で選ばれた、文民のな。四十年、私はその背骨の上で生きてきた。命令とあらば、間違っていると知りながら押したボタンもある。それが、この国が自らに課した仕組みだ。そして、アメリアの仕組みに忠実であることを、私は己の芯としてきた」
「今日、私はその大統領が承認した作戦を、独断で握り潰した。文民統制への反逆だ。軍服を着てきた者として、これに勝る罪はない」
「明朝、辞表を出す。罪には支払いが要る。それだけのことだ」
淡々とした声だった。誇るでもなく、嘆くでもなく、明日の天気でも告げるような。
「その結果、GOGは大手を振って次の長官を据えるだろう。それでも、私の判断に後悔はない」
権力者の冷徹な計算でも、陰謀でもない。かといって、正義の反乱でもなかった。組織の泥を呑み込み続けてきた一人の人間が、どうしても呑み込めなかった最後の一口。
彼もまた、この歪んだ世界の構造の中に立つ、一人の人間なのかもしれなかった。
「……敵の正体を知れたことには、感謝するわ」
イリスの声は、先ほどよりも低く、鋭くなっていた。
「勘違いするな」
アシュフォードの冷徹な声が、感謝の言葉を切り裂いた。
「貴様に情報を与えたのは、情けではない。合衆国の軍が、一企業の私兵に成り下がろうとしていた事実――その汚点を雪ぐため、私が今回の作戦を中止した『正当性』を伝えたに過ぎん」
彼は立ち上がり、デスクの上の拳銃に、再び手を掛けた。
その目は、孫娘を語る老人のものではなく、冷酷な指揮官のものだった。
「今回は、大義なき作戦ゆえに見逃した。だが、貴様が国家の法と秩序を脅かす敵である事実に変わりはない」
銃口こそ向けない。それでも、部屋の空気が張り詰めるほどの重圧が、イリスを射抜いた。
「次にアメリア国内で派手な動きを見せてみろ。GOGだけではない。軍も、私も、全力で貴様を潰しにかかる。その時は、手続きと大義を整えた上で、この国は容赦なくミサイルを撃ち込むぞ。そしてその作戦命令書に、もう私の署名は要らん。……消えろ」
イリスは、その言葉を最後通告として受け取った。
馴れ合いはない。あるのは、互いに譲れない一線だけ。
「……忠告、覚えておくわ」
イリスは、アシュフォードから視線を外した。
「さようなら、国防長官閣下。あなたのその『一線』が、いつまでも守られることを祈っているわ」
イリスの姿が、陽炎のように揺らぐ。
次の瞬きの間に、そこには誰もいなくなっていた。
残された執務室。
アシュフォードは、誰もいない空間を、しばらくの間、鋭い視線で睨み続けていた。
置時計が、変わらぬ調子で秒を刻んでいる。あの影が現れる前と、何一つ変わらぬ部屋。ただ、肌に残る異様な感覚が、あれが現実だったことを告げていた。
やがて、彼は銃を引き出しに戻し、デスクの上の孫娘の写真に目を落とした。
表情は崩さない。
彼女が次に何をするのか。そして自分は、この国は、どう対峙していくべきなのか。
ふと、デスクの端の通信端末が目に入った。官給品の、艶消しの黒い筐体。その隅に刻まれた小さな製造元の刻印は――GOGグループ企業のものだった。
この国の血管の、いったいどこまでに、あの企業の血が流れ込んでいるのか。
彼はブランデーをグラスに注ぎ、一気に呷った。
「……誰であれ、この国の法と秩序を乱す者は許さん」
GOGであろうと、魔女であろうと。




