聖夜への想い
出航から数日後、オーロラ号は広大な北大西洋を西へと進んでいた。空は低く垂れ込め、灰色の海がどこまでも続いている。時折、遠くに氷山のような白い影が見えることもあった。デッキに出ると、身を切るように冷たい風が吹き付けてくる。12月も中旬に差し掛かり、クリスマスはもう間近だった。
デッキチェアに深く腰掛け、厚手のコートにくるまりながら海を眺めていたノエルは、遠い北極のサンタクロース協会に思いを馳せていた。
〈今頃、協会は一番忙しい時期だろうな……〉
妖精たちはおもちゃ作りの最終仕上げに追われ、見習いサンタたちはプレゼントの仕分けやソリの準備に奔走しているはずだ。聖ニコラス様は、世界中の子供たちのリストを最終確認しているだろう。工房からはシナモンクッキーの甘い香りが漂い、広場ではトナカイたちの力強い足音が響いている……。その光景を思い浮かべると、懐かしさと同時に、少しだけ寂しい気持ちが込み上げてきた。自分は今、その輪の中にいないのだ。
「ノエル、何を考えているの? なんだか、遠い目をしているわよ」
隣に座っていたリリィが、顔を覗き込んできた。
「ああ、リリィ。いや、もうすぐクリスマスだなって思って。協会のことを思い出してたんだ」
「サンタクロース協会…」
リリィは興味深そうに目を輝かせた。
「ねぇ、ノエル。前から聞きたかったんだけど、サンタクロース協会って、クリスマスには具体的に何をするの? やっぱり、絵本に出てくるみたいに、サンタさんがソリに乗って、一晩で世界中を回るの?」
「うん、そのイメージでだいたい合ってるよ」
ノエルは少し誇らしげに頷いた。
「クリスマスイブの夜、聖ニコラス様と、特に経験豊富なベテランのサンタクロースたちが、ルドルフみたいな特別な力を持ったトナカイが引く魔法のソリに乗って、世界中に出発するんだ」
「わぁ…! 本当なんだ!」
「僕たち見習いは、そのお手伝いをするのが主な役割かな。プレゼントを間違いなくソリに積み込んだり、最新の気象情報に合わせて飛行ルートを確認したり、各地にいる協力者の妖精さんたちと連絡を取り合ったり…イブの夜は、協会全体が不眠不休で動くんだ。すごく大変だけど、子供たちの笑顔を想像すると、疲れなんて吹き飛んじゃう」
「へぇ…本当に、おとぎ話の世界が実在するのね。なんだか感動しちゃうわ」
リリィは感嘆の声を漏らした。
「ノエルは、どうしてサンタクロースの見習いになったの? やっぱり、小さい頃からサンタさんに憧れて?」
リリィの純粋な問いかけに、ノエルは一瞬言葉を詰まらせた。そして、少し照れたように、でも正直に、自分の過去を語り始めた。
「僕……実は、サンタクロースに憧れて、っていうのとは少し違うのかもしれない。だって……サンタさんから直接プレゼントをもらったのは、たった一度だけなんだ」
「えっ? 一度だけ?」
リリィは意外そうな顔をした。
ノエルは少し俯き、ぽつりぽつりと話し始めた。
「僕の両親は……僕のことを、あまり良く思っていなかったみたいなんだ。僕が小さい頃から、二人はいつも喧嘩ばかりしていて、僕のことなんてほとんど見てくれなかった。クリスマスも、誕生日も、プレゼントをもらった記憶なんてほとんどない。サンタさんにお願いの手紙を書いたことも……その一度を除いては、なかったんだ」
ノエルの声は、少しだけ震えていた。話を聞いていたルドルフが、そっとノエルの傍に寄り添うように移動した。
「でもある年のクリスマス前、どこかでサンタさんの話を聞いて……その時は、どうしても手紙を書いてみたくなったんだ。本当にいるのかな、もしいるなら、僕のこと、見つけてくれるかなって……。それで、拙い字で手紙を書いたんだ。『サンタさんへ。僕はここにいます。もしよかったら、何か温かいものをください』って。もちろん、半分諦めてた。どうせ僕のことなんて、誰も見てないって思ってたから」
ノエルは、まるでその時の気持ちを思い出すように、ぎゅっと拳を握った。
「でもね、クリスマスの朝、目が覚めたら、枕元に、古びてたけど、すごく温かい手編みのマフラーが置いてあったんだ」
「えっ……!」
リリィは息を飲んだ。
「誰が置いてくれたのか、今も分からない。でも、僕は、サンタさんが届けてくれたんだって、そう信じたかった。あのマフラーの温かさが、ずっと一人ぼっちで寒かった僕の心に、初めて灯った光みたいだったんだ。サンタさんって、本当にいるのかもしれない、僕みたいな子のことも、見ててくれたのかもしれないって……あの時、初めて、誰かからの温もりを感じた気がしたんだ」
一瞬、彼の表情が和らぐ。それは、彼の人生における数少ない、温かな記憶だったのだろう。しかし、すぐにまた影が差した。
「でも……次の年のクリスマスイブは、最悪だった。両親がまた大喧嘩して……僕がいるから喧嘩になるんだ、なんて言われて……『うるさい!邪魔だ!あっちへ行け!』って、真冬の夜に、家から追い出されちゃったんだ」
「そんな……ひどい……」
リリィは絶句した。
「行く当てもなくて、雪が降る街の隅で、ただ震えてた。寒くて、お腹が空いて、怖くて……。もうダメだって、このまま凍え死んじゃうんだって思った時……」
ノエルは隣のルドルフを見上げ、その首筋を優しく撫でた。
「ルドルフが、現れたんだ。どこから来たのか分からなかったけど、その大きな体で僕を覆うようにして、温めてくれた。あの時のルドルフの体温と、優しい目は、一生忘れられない」
ルドルフは静かに頷いた。
「あの時のノエルは、本当に小さくて、凍えていた。サンタクロース協会の一員として、見過ごすことはできなかったんだ」
「ルドルフは、僕を協会に連れて行ってくれた。当時の聖ニコラス様…今のニコラス様の先代が僕を見て、『この子にはサンタクロースの素質がある』って言ってくれて、協会に置いてくれることになったんだ」
「協会に引き取られてからも、すぐには心を開けなかった。またいつか、いらないって言われるんじゃないかって怖かったから。でも、妖精さんたちや、他の見習いのみんな……特にイリスが、根気強く僕に話しかけてくれたんだ。『一緒に遊ぼう』『一緒に勉強しよう』って。彼女の真っ直ぐな優しさに、少しずつ、ここが僕の居場所なんだって思えるようになったんだ」
ノエルはリリィに向き直り、その瞳には先ほどまでの翳りはなく、強い意志の光が宿っていた。
「僕は、両親から愛情をもらえなかった。自分が望まれていないっていう気持ちは、すごく寂しくて、つらかった。だから……他の子供たちには、絶対にそんな思いをしてほしくないんだ。クリスマスくらい、世界中の子供たちが、自分は誰かに大切に思われているんだって感じてほしい。あのマフラーみたいに、温かい気持ちになって、笑顔になってほしいんだ」
「僕が知らなかった温かさを、ニコラス様やルドルフ、協会のみんな、そしてイリスが教えてくれた。だから今度は、僕がサンタクロースになって、その温かさを、世界中の子供たちに届けたい。それが、僕がサンタクロースを目指している、一番の理由だよ」
真っ直ぐな瞳で語るノエルの言葉に、リリィは胸を打たれた。彼の明るさの裏にある深い痛み、そしてそれを乗り越えようとする強い優しさ。彼女はかける言葉を見つけられず、ただノエルの手をそっと握った。その手の温かさが、今度はノエルの心にじんわりと伝わる。
「ノエルは、本当に優しい子だよ」
ルドルフが静かに言った。その赤い鼻が、夕陽を受けて一層輝いて見えた。
夕暮れの海は、空と溶け合うように茜色に染まっていた。ノエルは、サンタクロースになるという自分の夢を改めて心に刻み、そして、その夢を共有したはずの親友、イリスのことを強く思った。
彼の誓いは、静かな決意となって、暮れなずむ北大西洋の水平線へと吸い込まれていった。