ペルソナ
リリィのハーブティのおかげで翌日には船酔いから回復したノエルは、あれほど苦しんだ揺れにもすっかり慣れ、船内の生活を楽しめるようになっていた。オーロラ号は巨大な船で、レストランやカフェはもちろん、ショップ、図書室、プール、さらには小さな劇場まで備わっており、さながら海に浮かぶ一つの街のようだ。船内は暖房が効いており、外の寒さを忘れるほど快適だった。
甲板に出ると、吐く息は白く、空気は肌を刺すように冷たい。ノードハイムを出てからしばらく経ち、船は北海を西へと進んでいた。どこまでも続く水平線と、灰色の空の下に広がる波濤の景色は、ノエルにとって新鮮な驚きだった。
午後、ノエルは船内のインターネットラウンジで、カイトに連絡を取ってみようと思い立った。協会の外の通信機器を使うのは初めてだったが、リリィに教えてもらいながら、なんとかカイトの連絡先として教えられていたチャットアプリにメッセージを送ることができた。
『カイトさん、元気? 僕は船酔いで苦しんでいたけど、リリィのハーブティで元気になったよ』
打ち込む指が少し震える。すぐに既読のマークがつき、返信が来た。予想外の速さに少し驚く。
『よぉ、ノエル君か。こっちは相変わらずだよ。ハーブティねぇ、リリィのやつは妙なモン知ってるからな。まあ、元気になったなら何よりだ』
『イリスの件、何か進展はあった?』
ノエルは一番聞きたいことを尋ねた。
『いや、とくにはないな。相変わらず尻尾は掴ませねぇよ。まあ、引き続き情報は追ってるからよ』
返信には、少しの間があった気がした。何か隠しているのだろうか、とノエルは少し不安になったが、すぐに次のメッセージが届いた。
『あ、わりぃ、この後ちょっと立て込んでるから、また連絡する。なんか進展あったらこっちからも知らせるぜ』
カイトの相変わらずのぶっきらぼうな口調に、ノエルは少しだけ安心した。
『わかった。ありがとう、カイトさん』
そう返信してチャットを終えようとした時、ふとカイトが以前言っていた言葉を思い出した。
〈そういえば、カイトさん、Vtuberもやってるって言ってたな…〉
どんな配信をしているのだろう? 純粋な好奇心から、ノエルはリリィに教えてもらったカイトのチャンネル名を、動画共有サイトで検索してみた。サムネイルには、銀髪ロングヘアで、スタイル抜群の、まるでアニメから飛び出してきたかのような美少女キャラクターが表示されている。
「あれ? すごく美人な女性だ…? もしかして、間違った動画見ちゃったのかな?」
ノエルは首を傾げた。カイトのイメージとはあまりにもかけ離れている。
「ううん、カイトさんの配信チャンネルで合ってるわよ。」
隣でタブレットを覗き込んでいたリリィが、こともなげに言った。
「えっ!? これがカイトさんなの!?」
ノエルは目を丸くした。
「そうよ。本物の女性みたいに見えるけど、最新のAI技術で作ったアバターらしいわ。声だって、ボイスチェンジャーでいくらでも変えられるし、話し方や仕草も、全部プログラムで制御してるんだって」
ノエルは呆然としながら、チャンネルのトップページを見た。チャンネル名は『銀翼のミューズ・K』。登録者数は数百万人に達しており、アップロードされている動画の再生回数も軒並み高い。内容は、最新のニュースやゴシップに対する鋭く少し毒のあるコメント、ゲーム実況、時には歌ってみた動画まで多岐にわたる。コメント欄は、国内外からの熱狂的なファンの書き込みで溢れていた。
「カイトさん、こんなに人気者だったんだ……」
「これだけじゃないのよ」
リリィは別のチャンネルをいくつか検索して見せた。
「こっちは可愛い男の子のアバターで、主にゲーム実況をしてるチャンネル。こっちはアニメキャラになりきって雑談するチャンネル。こっちは…えっと、毒舌なペンギンのキャラクターで社会風刺をするチャンネルね。全部カイトさんが一人でやってるのよ」
「こ、こんなにたくさん!?」
「どれももの凄いフォロワー数だから、カイトさんの一言でネット上のトレンドが変わったり、特定の商品の売上が急増したりすることもあるみたい。すごい影響力よね。普段は口が悪くて皮肉屋で、ちょっと近寄りがたい雰囲気なのに」
リリィは少し考え込むように付け加えた。
「でも、こうやって違う『顔』…ペルソナっていうのかしら? それを使い分けることで、人を惹きつけたり、時には世の中を動かしたりもできる。なんだか、少し怖い気もするわね」
「ペルソナを変えれば、世界を動かせる……」
その言葉が、ノエルの心に重く響いた。イリスもまた、「黒き聖夜の審判」という仮面を被り、世界を動かそうとしている。彼女の行動は、ネット上で多くの賛同者と反対者を生み出し、現実世界にも大きな混乱を引き起こしている。カイトとは目的も方法も全く違うが、仮面を被って世界に働きかけるという点では、根底にある構造は似ているのかもしれない。
〈僕も……何か違う自分になれば、イリスを止められるのかな……? 例えば、もっと強くて、賢くて、誰からも信頼されるような〉
一瞬、そんな考えが頭をよぎる。だが、すぐにノエルは首を振った。ルドルフの温かい言葉が、心の中で蘇る。
『そんな不器用で、真っ直ぐなノエルの存在そのものが、きっと今のイリスを救う力になる』
〈そうだ……僕は、僕のままでいいんだ。嘘や仮面じゃなくて、僕自身の言葉で、僕自身の心で、イリスと向き合わなくちゃいけないんだ。たとえそれが、遠回りな道だったとしても〉
ノエルはタブレットの電源を切り、窓の外に広がる灰色の海を見つめた。決意を新たに、彼は小さく頷いた。道は遠く、険しいかもしれない。それでも、自分を偽らず、真っ直ぐに進んでいこう。それが、彼が見つけ出した答えだった。