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聖夜の黄昏  作者: 那王
3章 揺れる水平線
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波間の洗礼

オーロラ号の広々とした甲板で、ノエルは子供のようにはしゃぎ回っていた。

「うわぁぁぁ! すごい! 見て、リリィ! ルドルフ! 海がキラキラしてる! 鳥がたくさん飛んでるよ!」


ノードハイムの港を離れ、フィヨルドの雄大な景色を抜けて外洋へと進む巨大な客船。初めて体験する船旅は、彼の心を躍らせるのに十分すぎるほど刺激的だった。冷たい潮風が頬を撫で、カモメの鳴き声が遠ざかる故郷の景色に響き渡る。デッキの手すりに身を乗り出し、どこまでも続く青い水平線を眺めるノエルの瞳は、冒険への期待で輝いていた。


「ノエル、危ないわよ、そんなに身を乗り出したら。それに、はしゃぎすぎると後で大変なことになるかもしれないわよ」

リリィは少し呆れたように、しかし優しく微笑みながらノエルに声をかけた。彼女は手編みの温かなショールを肩にかけ、落ち着いた様子で海を眺めている。その隣では、ルドルフが静かに佇んでいた。トナカイが豪華客船に乗っている姿は異様だが、リリィが「私の大切な荷物を運ぶための、特別な許可を得たパートナーです」と乗船手続きの際に説明したこと、そしてルドルフ自身の物静かで威厳のある佇まいもあってか、他の乗客も次第に「裕福な変わり者の連れている、珍しいペットか家畜」といった具合に受け入れ始めているようだった。もちろん、彼が言葉を話すことは、ノエルとリリィだけの秘密だ。


「大丈夫だって! こんなの全然平気だよ! ねぇ、ルドルフもそう思うだろ?」

ノエルは興奮冷めやらぬ様子で、自慢の相棒に同意を求める。


「まあ、今はまだね」

ルドルフは穏やかに答えたが、その赤い鼻が微かにひくついた。

「けれど、海の女神様は気まぐれだからね。あまりはしゃぎすぎると、後で本当に大変なことになるかもしれないよ」

その声には、どこか含みがあるようにノエルには聞こえたが、高揚した気分の彼は深く気に留めなかった。


ルドルフの予言めいた忠告は、残念ながらすぐに的中することになる。オーロラ号はノードハイムのフィヨルドを抜け、広大な北海へと躍り出ると、次第に揺れを大きくし始めた。北欧の冬の海は穏やかなばかりではない。最初は興奮で気づかなかったノエルも、次第に顔色が悪くなり、額にはじっとりと脂汗が滲み始めていた。


「う…うぅ……なんだか、地面がずっと…ふわふわしてるみたいだ……」

さっきまでのはしゃぎっぷりはどこへやら、ノエルは青白い顔で手すりにへたり込んでしまった。上下左右、予測不能な揺れが、彼の平衡感覚を容赦なく狂わせる。胃のあたりがむかむかし、視界がぐらぐらと歪む。これが、船乗りたちが恐れる「船酔い」というものかと、ノエルは身をもって体験していた。


「あらあら、言わんこっちゃない。大丈夫、ノエル?」

リリィは苦笑しながら、ノエルの背中を優しくさすった。彼女は船旅には慣れているのか、全く平気な様子だ。


「だ、だいじょうぶ……じゃないかも……。うぅ、気持ち悪い……協会に帰りたい……」

情けない声を出すノエルに、ルドルフはふん、と鼻を鳴らした。


「だから言っただろう? 自然の力を甘く見てはいけないよ。まあ、これも良い経験だと思って、少し休むといい」


「そんなこと言われても……うぷっ……」

ノエルは今にも吐きそうな顔で口元を押さえた。その様子を見かねて、リリィはポンと手を打った。


「そうだわ! いいものがあるのよ。ちょっと待ってて」

リリィはそう言うと、船室へと戻っていった。しばらくして、彼女は小さなカップを持って戻ってきた。湯気を立てるカップからは、爽やかで、どこか神秘的な香りが漂ってくる。

「はい、これ飲んでみて。私の特製ハーブティよ」


「ハーブティ……?」

ノエルは疑わしげにカップを受け取った。


「『静寂の月光草』っていうハーブを使ったの。ちょっと飲みにくいかもしれないけど、船酔いにはよく効くはずよ」


「せいじゃくの……げっこうそう?」

ノエルは眉をひそめた。「なんだか……すごい名前だね」


「ふふ、ちょっと大げさな名前かしら? でも、効果は本物よ。高山の崖、月光が最も強く降り注ぐ場所にだけ密かに咲くと言われているハーブなの。神経を鎮めて、乗り物酔いを和らげる効果があるのよ。以前、山岳地帯で食材探しをしていた時に偶然見つけて、少しだけ乾燥させて保存しておいたの」

リリィの説明を聞きながら、ノエルは恐る恐るハーブティを一口飲んでみた。少し苦味があるが、清涼感のある香りが鼻腔を抜け、不思議と胸のむかつきが和らいでいくような気がする。


「…あれ? なんだか、少し楽になったかも…」


「よかったわ。全部飲んだら、少し横になって休むといいわ。客室まで付き添ってあげる」

リリィに肩を支えられながら、ノエルはふらつく足取りで客室へと向かった。自分より小柄なはずのリリィが、しっかりとノエルの体を支えてくれる。その頼もしさに、ノエルは素直に感謝の気持ちを抱いた。カップに残ったハーブティをゆっくりと飲み干すと、さっきまでの不快感が嘘のように引いていき、穏やかな眠気が訪れてきた。


「リリィ…ありがとう……。助かったよ。 君はすごいね、何でも知ってるんだな……」


「ふふ、まあね。食材探しのためなら、どんな場所へでも行くし、どんな情報でも集めるから」

リリィは少し得意げに、そして優しく微笑んだ。その笑顔に、ノエルの強張っていた心も少し和らいだ。

「さ、ゆっくりおやすみなさい」


部屋には、ハーブティの独特な香りと、リリィの優しい残り香が漂っている気がした。ベッドに横たわったノエルは、船の穏やかな揺れを感じながら、すぐに深い眠りに落ちていった。窓の外では、北海の灰色の波が単調なリズムを刻んでいた。

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