波間の洗礼
オーロラ号の甲板は、街の広場がひとつ、まるごと収まりそうな広さだった。
その手すりに張りつくようにして、ノエルは歓声を上げていた。
「うわぁぁぁ! すごい! 見て、リリィ、ルドルフ! 海がキラキラしてる! 鳥がいっぱい飛んでるよ!」
船はノードハイムの港を離れ、フィヨルドの静かな水路を滑るように進んでいた。両岸に迫っていた岩壁が少しずつ遠のいて、その先に、遮るもののない外洋の青が待っている。冬の低い陽射しを、海は細かく噛み砕いては、惜しげもなく波間に散らしていた。カモメの群れが船を追い越しては舞い戻り、新入りの巨体を値踏みするように旋回している。
冷たい潮風が、慣れない匂いごと頬を押してくる。ノエルは手すりから身を乗り出し、鼻の奥まで海の匂いで満たした。故郷の、雪と樅の木の匂いとはまるで違う。世界には、まだ知らない匂いがこんなにある。
「ノエル、危ないわよ、そんなに身を乗り出したら」
リリィの声が背中に届いた。振り返ると、彼女は手編みのショールを肩に掛け、落ち着いた足取りでこちらへ歩いてくるところだった。
「それに、あんまりはしゃぐと後で大変なことになるかもしれないわよ」
その隣には、ルドルフが佇んでいる。
豪華客船の甲板に、トナカイが一頭。すれ違う乗客はまず二度見をして、それからリリィの涼しい顔と、微動だにしないルドルフの佇まいとを見比べ、裕福な変わり者の連れた珍しい家畜、というあたりで自分を納得させていくらしかった。乗船手続きの際、リリィが「私の大切な荷物を運ぶための、特別な許可を得たパートナーです」と澄まし顔で通した口上は、今のところ一度も疑われていない。今朝など、すれ違いざまに帽子を軽く持ち上げていく老紳士までいた。彼が言葉を話すことは、今もノエルとリリィだけの秘密だ。
「大丈夫だって! こんなの全然平気だよ! ねぇ、ルドルフもそう思うだろ?」
「まあ、今はまだね」
ルドルフは穏やかに答えた。赤い鼻が、微かにひくつく。
「けれど、海の女神様は気まぐれだからね。あまりはしゃぎすぎると、後で本当に大変なことになるかもしれないよ」
忠告は、高揚しきったノエルの耳を、カモメの声と一緒に素通りしていった。
──フィヨルドを抜けた途端、波が変わった。
外洋に躍り出たオーロラ号を、北海のうねりが待ち構えていた。巨大な船体が、ゆっくりと、しかし確かに持ち上げられては、沈む。
最初にノエルが感じたのは、揺れではなかった。
床が、嘘をつき始めたのだ。
まっすぐ立っているつもりなのに、足の裏の感覚が答えと合わない。壁が傾き、水平線が斜めに滑る。胃のあたりに、覚えのない重さが溜まっていく。
「う……うぅ……なんだか、地面がずっと、ふわふわしてるみたいだ……」
ノエルは青白い顔で、手すりの根元にへたり込んだ。額にはじっとりと脂汗が滲んでいる。上下と左右、それに斜め。予測のつかない揺れが、平衡感覚を容赦なく掻き回していく。
「あらあら、言わんこっちゃない。大丈夫、ノエル?」
リリィが背中を優しくさすってくれる。同じ床に立っているのに、彼女の膝は少しも揺らいでいなかった。
「だ、大丈夫……じゃないかも……。うぅ、気持ち悪い……協会に帰りたい……」
「だから言っただろう?」
ルドルフがふん、と鼻を鳴らした。
「自然の力を甘く見てはいけないよ。まあ、これも良い経験だと思って、少し休むといい」
「そんなこと言われても……うぷっ……」
ノエルが口元を押さえたのを見て、リリィがポンと手を打った。
「そうだわ、いいものがあるのよ。ちょっと待ってて」
言うが早いか、彼女は船室へ駆けていった。しばらくして戻ってきた手には、湯気の立つ小さなカップ。爽やかで、どこか夜の空気に似た香りが漂ってくる。
「はい、これ飲んでみて。私の特製ハーブティよ」
「ハーブティ……?」
ノエルは疑わしげにカップを受け取った。
「『静寂の月光草』っていうハーブを使ったの。ちょっと飲みにくいかもしれないけど、船酔いにはよく効くはずよ」
「せいじゃくの、げっこうそう?」
ノエルは眉をひそめた。
「なんだか……すごい名前だね」
「ふふ、大げさな名前かしら? でも、効果は本物よ。高山の崖の、月の光がいちばん強く降り注ぐ場所にだけ、ひっそり咲くと言われているの。神経を鎮めて、乗り物酔いを和らげてくれるのよ。前に山岳地帯で食材探しをしていた時に偶然見つけて、少しだけ乾かして取っておいたの」
恐る恐る、一口。
微かな苦味の後から、清涼な香りが鼻に抜けた。高い山の夜は、きっとこんな味がするのだろう。胸の奥で暴れていたむかつきが、その香りに宥められて、少しずつ大人しくなっていく。
「……あれ? なんだか、少し楽になったかも」
「よかった。全部飲んだら、少し横になって休むといいわ。客室まで付き添ってあげる」
リリィに肩を借りて、ノエルはふらつく足取りで通路を進んだ。自分より小柄なはずの肩は、思いがけないほど、びくともしなかった。
「リリィ……ありがとう。助かったよ。……君はすごいね、何でも知ってるんだな」
「ふふ、まあね。食材探しのためなら、どんな場所へでも行くし、どんな情報でも集めるから」
少し得意げな、優しい声だった。
「さ、ゆっくりおやすみなさい」
ベッドに横たわり、カップに残ったハーブティを飲み干す。部屋にはまだ、月光草の香りがほのかに漂っていた。船の揺れは変わらないはずなのに、もう床は嘘をつかなかった。
ノエルはその香りを胸いっぱいに吸い込んで、目を閉じた。
眠りは、静かに訪れた。
────
翌朝、ノエルは自分の腹の虫の音で目を覚ました。
あれほど恨めしかった揺れは、一晩明けてみれば、ただの船の呼吸になっていた。朝食のテーブルで山盛りのパンを平らげるノエルに、リリィは「現金なものね」と笑った。
体が戻ってみると、オーロラ号という船の途方もなさが、あらためて見えてきた。レストランにカフェ、ショップ、図書室、温水のプール、それに小さな劇場まで。廊下を一本歩けば、通りを一本歩いたのと同じくらいの発見がある。海に浮かぶ、ひとつの街だった。
船内は暖房が効き、うっかり季節を忘れそうになる。けれど一歩甲板に出れば吐く息は白く、空気は肌を刺した。ノードハイムを発って数日、船は北海を西へと進んでいる。どこまでも続く水平線と、灰色の空の下にうねる波濤。その景色は毎日同じで、毎日違った。
午後、ノエルは船内のインターネットラウンジに座っていた。カイトに連絡を取ってみようと思い立ったのだ。
機械そのものは、見慣れている。協会の工房では、妖精たちが最新のゲーム機やコンピューターを手際よく組み上げては、プレゼントの山に加えていた。ただ、あれはあくまで、届けるための品物だ。自分の指で外の世界と繋がるのは、これが初めてだった。リリィに手ほどきを受けながら、教わっていたチャットアプリを、たどたどしく起動する。打ち込む指が、キーの上で何度も迷子になった。
『カイトさん、元気? 僕は船酔いで苦しんでいたけど、リリィのハーブティで元気になったよ』
送信してすぐ、メッセージの横に既読の印がついた。返事は、拍子抜けするほど速い。
『よぉ、ノエル君か。こっちは相変わらずだよ。ハーブティねぇ、リリィのやつは妙なモン知ってるからな。まあ、元気になったなら何よりだ』
『イリスの件、何か進展はあった?』
一番聞きたいことを、ノエルは真っ先に尋ねた。
『いや、とくにはないな。相変わらず尻尾は掴ませねぇよ。まあ、引き続き情報は追ってるからよ』
今度の返信までには、少しだけ間があった気がした。何か、隠しているのだろうか。小さな染みのような不安が広がりかけたところへ、次のメッセージが届く。
『あ、わりぃ、この後ちょっと立て込んでるから、また連絡する。なんか進展あったらこっちからも知らせるぜ』
文字になっても変わらない、ぶっきらぼうな調子。それが、かえってノエルを安心させた。
『わかった。ありがとう、カイトさん』
そう返してチャットを閉じようとした時、ふと思い出した。
(そういえばカイトさん、Vtuberもやってるって言ってたな……)
どんな配信をしているんだろう。純粋な好奇心から、ノエルは教わっていたチャンネル名を、動画共有サイトで検索してみた。
サムネイルの並んだ画面を開いて、ノエルは指を止めた。
どの画像にも、同じ少女がいた。腰まで流れる銀の髪。笑っていたり、澄ましていたり、口の悪そうな流し目を寄越していたり──どの顔も、作りものめいて整っているのに、生きて表情が動いている。
「あれ? ……間違えて、別の人のチャンネルを開いちゃったのかな」
「ううん、カイトのチャンネルで合ってるわよ」
隣からタブレットを覗き込んだリリィが、こともなげに言った。
「えっ!? この銀髪の女の子が、カイトさんなの!?」
「そうよ。最新のAI技術で作ったアバターなんですって。声も、話し方も、仕草も、全部向こう側で作り込んでいるの。……本人に聞いたら、面倒くさそうに、でもちょっとだけ自慢げに教えてくれたわ」
呆気に取られたまま、チャンネルのトップページを開く。
チャンネル名は『銀翼のミューズ・K』。登録者は数百万人。最新のニュースやゴシップを、少し毒を効かせて斬るコメンタリーから、ゲーム実況、歌ってみたまで。並んだ動画は、どれも桁違いの再生数を積み上げていた。コメント欄は、国内外のファンの熱っぽい書き込みで溢れ返っている。
「カイトさん、こんなに人気者だったんだ……」
「これだけじゃないのよ」
リリィは慣れた手つきで、別のチャンネルを次々と呼び出してみせた。
「こっちは可愛い男の子のアバターで、主にゲーム実況をしているチャンネル。こっちはアニメキャラになりきって雑談するチャンネル。それからこっちは……ええと、毒舌なペンギンが社会風刺をするチャンネルね。全部、カイトが一人でやってるのよ」
「こ、こんなにたくさん!?」
「どれもすごいフォロワー数でしょう。カイトの一言でネットの流行が変わったり、商品の売上が跳ね上がったりすることもあるみたい。……普段は口が悪くて皮肉屋で、ちょっと近寄りがたい人なのにね」
リリィはそこで少しだけ言葉を切り、考え込むように画面を見つめた。
「こうやって違う『顔』……ペルソナって言うのかしら。それを使い分けることで人を惹きつけたり、時には世の中を動かしたりもできる。なんだか、少し怖い気もするわね」
ペルソナを変えれば、世界を動かせる──。
相槌の代わりに、ノエルは画面を『銀翼のミューズ・K』のチャンネルへ戻した。並んだサムネイルを、あてもなく指でなぞっていく。
その指が、一枚の上で止まった。
『【徹底解説】黒き聖夜の審判とは何者なのか』
再生数は、並んだどの動画よりも多い。数字は、今この瞬間も伸び続けているのだろう。
親指は、浮いたまま動かなかった。……結局、押せなかった。
あれもまた、仮面の名だ。その名の下で放たれる告発は、ネットの海に賛同と反発の渦を巻き起こし、現実の世界まで揺さぶり始めている。カイトとは目的も方法もまるで違う。それでも、素顔を隠した誰かが、画面の向こうから世界を動かしている──その一点だけは、同じだった。
そして仮面の下の素顔を、ノエルは知っている。
(僕も……何か違う自分になれたら、イリスを止められるのかな。もっと強くて、賢くて、誰からも信頼されるような、そんな誰かに)
一瞬だけ、その考えに寄りかかりそうになる。
ノエルは首を振った。
耳の奥で、ルドルフの温かい声が蘇る。
『そんな不器用で、真っ直ぐなノエルの存在そのものが、きっと今のイリスを救う力になる』
(そうだ。……僕は、僕のままでいいんだ。嘘や仮面じゃなくて、僕自身の言葉で、僕自身の心で、イリスと向き合うんだ。たとえそれが、遠回りな道だとしても)
ノエルはタブレットの電源を落とした。
暗くなった画面に、見慣れた自分の顔が映っていた。




