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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蒼刻の魔術師ディランと白猫のジゼル

いつかこの身を捧げる日まで。魔物の花嫁として生まれたミルシュ姫

作者: 雪月花


 まん丸な月が優しく森の木々を照らす夜。


 こんな日は、私の(かぐわ)しい血の香りに誘われて、国境の向こうから魔物たちがフラフラとやってくるーー

 

 私は街へと続く森を見渡せる高台の上に立ち、夜空を仰いだ。

 月の光を一心に浴びると、次第に心地よくなり赤い瞳を閉じる。

 その様子をまるで狼のようだった。

 しばらくそうしていると、グルルルという獣の声が聞こえてきた。


 私を仲間と間違えた狼かしら?

 と、心の中で冗談を言いながら鳴き声の方へ顔を向けると、姿だけは狼に似た下級の魔物たちが私を見ていた。

 魔物特有の赤いつぶらな目を爛々(らんらん)と輝かせ、口からは涎を振りまいている。


 私は血で錆びついてきている剣を掲げた。

 刃が月の光を反射して、妖しく(きら)めく。


「街へは近付かせないよ」

 そう囁くように宣言すると、私は魔物目指して走り寄り、素早く剣を下ろした。




 夢中で魔物退治に(いそ)しんでいると、向こうの空が薄っすら明るくなってきた。

 その頃になって、ようやく私は住んでいる街へと帰路につく。

 そして、街の中でひときわ存在感を放つ大きな(やしろ)に入っていった。

 

 早朝にもかかわらず、中では女官たちが待ち構えていた。

 彼女たちに返り血で汚れた衣服を脱がされ、湯で身を清められた。

 それから塀に囲まれた広い中庭に出て、大きな泉に浸かる。

 毎日のように行われる、私だけに課された(みそぎ)の儀式だった。


「っうぅ……」

 泉の水が思ったより冷たく、さきほど負った右腕の傷に染みる。

 女官たちが手当てをしてくれたけれど、痛くて思わずうめき声が出た。


 すると、泉のほとりで待機している女官が、心配そうに声をかけてきた。

 妹のクシュだ。

「ミルシュお姉様……大丈夫ですか?」

「大丈夫よ。少し染みただけだから」

「……お姉様の美しい肌に、どんどん傷が出来ていくのが心苦しいです」

「魔物の国の王である〝イグリス様の花嫁〟だから、どんなに傷がついても大丈夫でしょ」

「でも……」


 私は泉から出ようと、クシュの元へと歩き出した。

 悲しそうな顔をした彼女は、タオルを広げて待ってくれている。

 水面から徐々に体が出ると、風を浴びて冷たくなった。

 思わず立ち止まり、ふるりと震えるながら自分自身を抱きしめる。

 その時ふいに、泉に映る自分の姿が目についた。


 ……ひどく傷だらけだ。

 

 魔物たちとの毎日の戦いで、こうなってしまった。

 顔だけは死守しているためか、幸い傷は無い。


「…………」

 私は自分の柔肌に刻まれた、いくつもの跡を数えるように目でなぞらえた。

 クシュが悲しそうにするから、私まで沈んだ気持ちになる。

 けれど顔を振ってそんな気持ちを追い払うと、再びクシュに向かって歩き始めた。




 私は小さな小さなムカレの国のお姫様。

 国境の一部が魔物の国と隣接しているけれど、なんとか共存しながら細々と暮らしている。

 その国境に最も近いヒエラの街のお(やしろ)で、私は大切に育てられた。


 赤い瞳を持って生まれてきてしまったから……


 ムカレの国では、昔からの伝承があった。

 王族の中に赤い瞳の女の子が生まれると、魔物の国の王、イグリス様に必ずその身を捧げなければいけないのだ。

 その代わりに、魔物たちがこの国の人々を襲わないという取り決めを、太古の昔に結んだらしい。


 私は〝イグリス様の花嫁〟として生まれた。

 そして赤い瞳の女の子は、何故かその身に特別な血が流れていた。

 私の血は……魔物たちを誘い、惑わす。

 魔物からしたら、どんな獲物より甘美な匂いを発しているらしい。

 

 普通の魔物なら、私が〝イグリス様の花嫁〟だから不用意に手を出さない。

 けれど下級の魔物は、本能に(あらが)えず私を襲ってきた。


 今まで幾度となく魔物との危うい接触があった。

 それをなんとか乗り越えてきたけれど、1度だけイグリス様に助けてもらったことがある。

 幼い私が街の外れで下級の魔物に襲われてしまい、当時ついていた護衛たちもみな倒されてしまった時だった。


 どこからともなく黒い霧があたりを(ただよ)い、それがどんどん濃くなると、中から優しい顔をした黒髪の青年が現れた。

 私と同じ赤い瞳は下り目で、怯える私を穏やかに見つめる。

 突然、窮地に現れた彼が何者なのか分からない私は、困惑した表情を浮かべるしかなかった。


「どうしても魔物を引き寄せてしまうね。君たちも僕の花嫁に手を出しちゃダメだよ」

 イグリス様が、私を襲おうとしていた狐のような2匹の魔物に目を向ける。

 その途端、魔物に鋭い線が(えが)かれた。

 何かの力が働いて、深く斬られたのだった。

 その線がパックリと開き、黒く濁った血を噴き出したかと思うと、魔物たちがドサリと倒れる。


 私は呆然としたまま、ピクピクと痙攣している魔物を見つめていた。

 そんな私に、黒髪の青年が近づいて来てしゃがみ込む。

 先ほどの〝僕の花嫁〟という単語に、幼い私は『この人がイグリス様なんだ』と、何となく分かってはきていた。


 イグリス様が私としっかりと目を合わせてから、ゆっくり穏やかに喋った。

「今回の花嫁は、今までで一等綺麗だね。僕好みだよ」

 頬を染めた彼が優しく笑った。

 幼い私はその雰囲気に呑まれ、この青年に助けて貰えたと、ある種の喜びさえ感じ始めていた。

 けれど、彼にそっと頬を触れられた瞬間に「ひっ」と思わず息を吸い込む。


 イグリス様の手はーー


 驚くほどに冷たかった。




 それから年に一度ぐらい、イグリス様は気まぐれに私の前に現れた。

 その理由が初めは分からなかったけれど、成長していくにつれて、だんだんと理解していった。

 イグリス様は、花嫁である私が自分好みに成長しているのか、チェックしていたのだ。


「ミルシュはどんどん美しく成長するね。18歳になるのがとても楽しみだよ。本当に、本当に……」

 イグリス様はニッコリ優しい笑みを浮かべて続ける。

「美味しそうだ」


 ーー私はイグリス様への供物(くもつ)

 18歳になるとこの身を捧げる。

 彼に食べられ、彼の血肉となる運命。


 私は……生贄だった。

 



 成長するにつれて、血の効力も強くなっていった。

 美味しそうな私の血の匂いに誘われて、我を忘れた魔物が寄ってくる。

 ヒエラの街の人々は、そんな私をバケモノ扱いせずに、慈しみを込めて育ててくれた。

 襲ってくる魔物から、守ろうとしてくれる人もいた。

 けれど、そんな優しい街の人たちを、魔物は容赦なく襲う。


 ……私がいるから……


 街の人が魔物の餌食(えじき)になるたびに、自分を責める日々が続いた。

 

 私は剣を手に取った。

 姫として、みんなに大切に育ててもらった恩を返したい。

 そんな思いからだった。


 ……今、私は17歳。

 もう少しで、みんなが魔物に怯える生活も終わる。


 私はそう自分を(なぐさ)めるたびに、笑みを浮かべるようにしていた。




 **===========**


 数日経った夜。

 いつものように、私は街と国境の間の森に(ひそ)んでいた。

 今日はシトシト小雨が降っている。

 私の血の匂いが雨で広がりにくいのか、こんな日は魔物とあまり出くわさなかった。


 何となしに、いつもは行かない方へと歩いてみる。

 すると何やら騒がしい気配を感じた。


『そちらへ行ったぞ!』

『……ックソ! こいつらいきなり襲ってきやがった!』

『お前怪我してるじゃないか!? 引っ込んでろ!』


 他国の言葉で意味は分からなかったが、緊迫している様子が伝わってきた。

 どこかの国の兵士たちが、オオワシのような魔物3匹に悪戦苦闘していた。

 

 私は目を凝らして様子を(うかが)う。

 見たことのある紋章が描かれたマントを、兵士たちは揃って身につけていた。


 ……あの国は、ここから西へもっと行った所にある大国だ。

 ムカレの国に迷い込んでしまったのかな?


 私が冷静に分析していると、兵士たちの真ん中でひときわ輝きを放つ男性がいた。

 彼は的確に兵士たちに指示を出し、率先して魔物に立ち向かっている。

 雨に濡れて(ひたい)に張り付いていてもなお誰よりも綺麗な金髪に、明るく澄んだ水色の瞳。

 幼いころに妹のクシュとよく読んでいた、絵本に出てくる王子様そのものだった。


 いけない。

 あんな美しい人が怪我しちゃ。

 

 そう思ってしまった私は、気付くと剣を握りしめて駆け出していた。

 私がたどり着く前に、王子様の近くにいた兵が攻撃を受けて倒れ込んでしまう。

 王子様は迷うことなく、その兵を身を(てい)して庇うために前に立ち、魔物の攻撃を甘んじてうける覚悟を決めていた。


 私はそんな心根も美しい王子様を、どんなことをしてでも助けたくなった。

 構えていた剣を振り上げ、王子様に鋭い爪を立てようとしている魔物目掛けて走り込んでいく。

 そしてその勢いに力を乗せて、魔物の足を叩き斬った。


 私は王子様と魔物の間に割って入ると、背中越しに彼らに声をかける。

「もう大丈夫です」


 右足を失った魔物が、耳をつんざくような鳴き声を上げて空へと舞い上がった。

 その足から、ぼたぼたと血の雨が降る。

 入れ替わるようにあとの2匹の魔物が、私を目掛けて飛びかかってきた。


『君は……』

 私の背後から王子様の声がした。

 異国の言葉だから何と言ったか分からない。

 

 けれど彼は声まで美しく、耳に心地よく響いた。

 神様はこの人に、何でも最上の物を与えてしまったに違いない。


 私は王子様を肩越しに見ると、安心させるためにニッコリ笑いかけた。

「私が引き受けます」


 私はそう言うと、左手の甲を魔物に見せつけるように、顔の前に腕を掲げた。

 剣を持った右手で、その腕をヴァイオリンを弾くように横に切りつける。

 溢れ出した血が腕を濡らし、肘からポタポタと地面に落ちていった。


『何をしてるんだ!?』

 背後から焦った声が聞こえて、私の肩が掴まれた。

 おそらく優しい王子様は、私の気が狂ったと勘違いしているんだろう。


 ……ううん、もうずっと前から狂ってるのかも。

 

 私の脳裏に、イグリス様に頭をかじられた血まみれの自分が浮かぶ。

 近い将来の自分の姿だ。

 供物(くもつ)の状態で生かされる私は、とっくに狂っているのかもしれない。


 私はまた王子様に向けてニッコリ笑った。

 そして肩を掴む彼の手からヒラリと逃げ出し、遠くへ向かって走りだす。

 すると、私の血に()()()()()魔物たちもついてきた。


 走って走って……王子様たちから離れるように、森の中を全速力で駆け抜けた。

 雨でぬかるんだ地面も、顔にまとわりつく髪も、気にしている余裕はない。

 私に追いついた魔物の爪が、背中を切り裂く痛みでようやく立ち止まり、彼らと向き合う。

 そして錆びついた剣を振り上げた。




「はぁ、はぁ、はぁ……」

 私は握っている剣の先を地面につけ、体を使って大きく息をしていた。

 そばには、切り刻まれて動かなくなった魔物が3匹転がっている。

 ふと自分の姿を見下ろすと、いつものように魔物か自分の物か分からない血で汚れていた。

 シトシト降り続く雨が、幾分か洗い流していく。


『見事なものだな……』

 いつの間にか近くに来ていた王子様が、惨状を見て目を見張った。

 彼の後ろにはついて来た兵士たちが控えており、驚きのあまり固まっていた。


 いつもは魔物を倒すと誇らしい気持ちになるのに、この時ばかりは妙に恥ずかしかった。

 あんな綺麗な人に、血で汚れた姿を見せるべきじゃないとさえ思った。

 

 どうしたものかと私が身を縮こませていると、肩にそっと何かがかけられた。

 見ると、王子様が着ていた黒いコートで私を包んでくれていた。

『背中に傷を負ってる。さっき切りつけた腕も……私の率いる隊に治療魔法が使える者がいるから、そこで治そう』

「??」

『言葉が通じないか……』


 一生懸命話しかけてくれる彼が、困っているのを感じた。

 王子様が途方に暮れて、雨空を一瞬だけ見上げる。


 ……雨が降っているから、困っているのかしら?

 

 私は王子様が、負傷した兵士たちを休ませる場所を探しているのだと思った。

 それで、街がある方角を指し示す。

 腕を上げるとコートがずり落ちそうになるので、胸元で合わさった部分をギュッと握る。


「ヒエラという街があるの。ついて来て」

 王子様に喋りかけたあと、私は背中を向けてゆっくり歩き出した。

「…………」

 しばらくすると、王子様が兵士たちに何か指示を出し、私の後をついてきてくれた。

 そうして私と王子様の一行は、降り続ける雨の中、ヒエラの街へと向かった。




 街に到着するころには雨が上がっていた。

 私は外国語に精通した者を呼び寄せ、王子様を持てなすように依頼した。

 そのあとに、いつも通り身を清めるため(やしろ)にこもる。

 手慣れた女官たちが湯で血をぬぐい、傷の手当てをほどこしていった。

 

 次に泉で(みそぎ)をしていると、そばで待機しているクシュから、弾んだ声が上がった。

「この街を訪れる人なんて珍しいですね」

「……森に迷い込んだ大国の王子様よ。友好国だから、失礼の無いようにしないとね」

「そうなんですね。噂ではとっても美しい王子様らしいですね」

 クシュがいつに増してニコニコしていた。

 だから私もつい彼女をからかう。

「昔絵本で読んだ王子様みたいだったわよ。ほら、あのクシュがポーッと、いつまでも眺めていた絵本よ」

 私はクスクス笑いながら、泉から上がるために歩き出した。


「…………絵本みたいに、その王子様もお姫様を助け出してくれるんでしょうか?」

 クシュが眉を下げて首をかしげた。

 私は彼女に濡れた体を拭いてもらいながら答える。

「困っている人がいたら、助けてくれそうね。外見だけでなく、内面も王族らしい立派な人だったわ」

「……だったら……」

 クシュが(うつむ)きながら、秘め事のように囁いた。


〝ミルシュお姉様も助け出してもらいましょうよ〟


「…………」

 私は聞こえていないフリをした。




 クシュは可愛い妹だ。

 私にとても懐いてくれて、私のお世話役の女官になることも、進んで名乗り出たほどだった。

 本当なら、お父様たちが住んでいる首都で暮らせばいいものを、こんな辺境までついて来てくれた。

 そんな大事な妹を守るためにも、私は毎夜剣を振るう。


 食べられることは怖いけれど、それが私の役目であり生まれた理由……

 そのことをいつも自分に言い聞かせていた。

 私がイグリス様への生贄になることで、ムカレの国の人々の幸せが守れるのなら、それでいいんだって……考えるようにしていた。




 (みそぎ)を終えて美しく磨き上げられた私は、この国の伝統的なドレスに身を包んだ。

 白い長袖のドレスの上に、紫のガウンのような前開きの服を合わせる。

 その(ふち)には美しい植物の模様が銀の糸でほどこされており、袖口にかけて広がる袖にも同じく優美な模様があしらわれていた。

 ウエスト部分で前を留めて、胸元とスカート部分は開いて下の白いドレスをのぞかせるとーー

 ムカレの国のきちんとしたお姫様が完成した。


 長袖に長いスカートのドレスは、身体中の傷を上手に隠してくれる。

 なんとか綺麗に取り繕うことができ、ホッと胸を撫で下ろした。

 実は大国の王子様に呼ばれていたのだ。

 

 準備が出来た私は、小隊が傷を癒すために提供した宿屋を訪ねることにした。

 クシュを(ともな)って宿屋の前まで行くと、ちょうど中から王子様とお供の兵士が出て来て、はちあわせする。


『!? 君は……さっきの?』

 王子様が目を見開いて、私を見つめた。

「??」

 私は思わず首をかしげる。

 

 森で会った時と違いすぎて、驚いているのかしら?

 綺麗に猫を被ったなと、思われてでもいるのだろう。


 そんなことを考えていると、手配した通訳係の男性が、一足遅れて宿屋から出て来た。

 私はその男性に目配せをしてから、ゆっくり口を開く。


「私はムカレの国の姫、ミルシュです。こんな辺境の地へようこそ。どうぞ兵士たちの傷が癒えるまでゆっくりして下さい」

 私はそう言って深々と頭を下げた。

 通訳係が大国の言葉で王子様に伝える。


 それを聴き終わった王子様が、通訳係に喋りかけ、ムカレの言葉で私に返ってくる。

「グランディ国の……エル王子だそうです。傷が治るまで休ませてくれて……ありがとう……と」

 通訳の男性が、汗をかきながら伝えてくれた。

 

 おそらく、全ての言葉を拾うのは難しいのだろう。

 いくら精通しているからって、厄介なお願いをしたと理解している私は、通訳係を(とが)める気持ちは全くなかった。


 代わりに、感謝を込めた笑みを浮かべてゆっくりうなずいた。

 そしてもう挨拶は終わったのだからと、(きびす)を返そうとしたその時に、王子様から呼び止められた。


『ミルシュ姫にぜひお礼がしたい……君の血について聞きたい』

 エル王子がきょとんとしている私を指差してから、自分の左腕を掲げて、右手で横に切るジェスチャーをする。

 そのあとに彼は、チラリと通訳の男性を見た。

 すると弾かれたように、男性が王子様の言葉を私に伝える。


「……分かりました」

 私は少し困惑しながらうなずいた。

 

 ……別に、秘密にしなきゃいけないわけでも無いし。


「お姉様!? これは私がいてもいいんでしょうかー? ウフフッ」

「もちろんよ」

 何故かはしゃいでいるクシュを連れて、私は王子様の案内する先へとついていった。




 宿屋の裏手にある広めの庭に、簡単なお茶会のセットが準備されていた。

 

 さすが大国の王子様。

 遠征か何かなのに、お茶会の準備を持ってきているとは……

 

 私は変な所で感心していた。


 私とクシュと王子様が席につくと、大国の兵士の1人が何やら本を彼に手渡した。

 エル王子がパラパラと本をめくって目を通す。

 

 チラリと背表紙を盗み見ると、この国の言葉を大国の言葉で説明している簡単な指南書だった。


「……ミルシュ……姫、ありがとう」

 エル王子が辿々(たどたど)しくこの国の言葉を発した。

 私とクシュは思わず顔を見合わせて、クスッと笑みをこぼす。

 彼の一生懸命さが嬉しかったからだ。


 私たち姉妹は揃って王子様の方へ向き直り、ペコリとお辞儀をした。

 ちょうどその時に、お茶と茶菓子が給仕によって配られる。

 あたりに香ばしい紅茶の匂いが広がった。


 エル王子がニッコリ笑いながら、テーブルの上を手のひらで指した。

「お茶、飲む……女の子」

 喋り終わった後に、クシュの方をじっと見る。

 

〝お茶をどうぞ。そちらの彼女も〟

 と言っているらしい。


 私は手のひらで妹を指し示し、ゆっくり喋った。

「妹……クシュ」

 王子がペラペラと本をめくる。

 私は名前を単語と思って調べても意味がないので、慌てて伝えた。

「ミルシュ……クシュ」

 私と妹を交互に指差して、名前だよと説明する。


『ミルシュ姫と妹のクシュ姫なんだ。どおりで似ているわけだ』

 王子が私の意図を汲み取ってくれたようで、ほほ笑んでいた。

 私も釣られて頬が緩む。


 この少しずつ単語を交わすお喋りは、和やかで楽しかった。

 要領が分かってきたクシュも、なるべく簡単な単語で返事をしている。

 もどかしさを感じてもいいはずなのに、いつまでもこうして喋っていたいとさえ思えるような、優しい時間が流れていた。


 その途中で、王子様が気になっていた私の血の話にもなった。

 魔物が寄ってくる作用があることを説明すると、彼は眉をひそめた。

 エル王子が本をペラペラめくりながら、単語を連ねる。

「理由……ミルシュ姫……戦う……」

 それまで本と睨めっこしていた王子様が、澄んだ水色の瞳を真っ直ぐ私に向けた。

「……1人……?」

「…………」


 彼はこう聞いているのだ。

〝血に魔物が寄ってくるから、ミルシュ姫は()()()戦っているのか?〟と。


 私はゆっくりとうなずいてから返事をした。

「……無くす……嫌」

 首を振りながら、思わず隣のクシュを見る。




 そのあとは、エル王子たちが何故こんな所に来ているのかの話にもなった。

 彼は魔物がたまに出現する事象を、自ら調べに来たらしい。

 ムカレの国のように、国境が少しだけ魔物の国と隣接している地域があり、その近くに住む国民からの要望だそう。


 本当に正義感の強い、高貴な王子様だ。

 私も同じ王族として見習わなくては。


 エル王子に尊敬を込めた眼差しを向けながら、私はお喋りを続けた。


 あっという間に、終わりの時間が訪れた。

 名残惜しい気持ちになりながらも、私とクシュは(やしろ)に帰ることにした。


 その帰り道、私の隣を楽しそうにニコニコしながらクシュが歩いている。

「エル王子、カッコよかったね!」

 女官の仕事中ではなくなったので、クシュが普段の口調で喋りながら続ける。

「優しいし、絶対エル王子はお姉様のことを意識してるよ」

「そーお? 一応ムカレの第一王女だから、丁寧に対応してくれているんでしょ」

 私は苦笑しながら答えた。


 クシュが不服そうに口を尖らせる。

「お姉様は? 王子様のこといいなって思わないの?」

 彼女が首をかしげながら「あんなにカッコいいのに」と続けた。

 私は(うつむ)きながら笑みを浮かべた。


「……私は〝イグリス様の花嫁〟だから。イグリス様一筋だよ」

「…………」

 クシュの表情が一気に曇る。


 それから(やしろ)に帰り着くまで、私たちの間には重い沈黙が流れていた。




 **===========**


 その日の夜、私はいつものように街と国境の間の森にいた。

 街へと続く森を見渡せる高台の上に立ち、夜空を仰ぎ見て月光浴をする。

 優しい月明かりに包まれると、何故かほんわりと暖かくなる気がした。


『そうしていると、月の使者みたいだな』

 いつの間にか近くにエル王子が来ており、不意に話しかけられた。

 彼は気配を消すのが得意なのかもしれない。

 

 私はビクッと驚きながらエル王子を見ると、彼は剣を腰に携えて戦う格好をしていた。

 なのに手にも剣を持っており、不思議に思っている私の目の前に差し出す。


「あげる」

 ムカレの国の言葉で言われた。

 有能な王子様は、簡単な単語を覚えたようだった。

 私が固唾(かたず)を飲んでいると、更に続けて言われた。

「よく切れる」

 エル王子は真剣な眼差しで私を見つめ、深くうなずいた。


 私が使っている年季の入った剣では、切れ味が悪いことを心配されているのだろう。


「……ありがとう」

 私はおずおずと手を伸ばして、新しそうな大国の剣を受け取った。

 鞘から出して、刀身を確認するように眺める。

 剣は月明かりを反射して、キラリと美しい輝きを発した。

 そして2、3度軽く素振りをしてから鞘へと戻すと、私はエル王子に笑顔を向けた。

「いい剣だね。扱いやすい」

 

 これで魔物が倒しやすくなるから嬉しかった。

 それだけみんなを守れる確実性が上がる。


『すごく喜んでる。もしかして渡す順番を間違えたか?』

 ニコニコしている私を見て、王子様は何故か苦笑していた。

 それから彼は、ポケットからベルト付きの鞘に入ったナイフを取り出した。

 全体に美しい彫り模様がほどこされており、グリップの端には赤い宝石が埋め込まれている。

 それも私に差し出してきた。


「ミルシュ姫の瞳、同じ」

 エル王子がニッと爽やかに笑いながら、その赤い宝石を指差した。

「赤いから?」

 私が尋ねると、彼はうなずきながら答えた。

「赤い瞳、すごく綺麗」 

「っ!!」

 急に目の奥が熱くなった。

 

 この忌まわしい赤い瞳が、綺麗だなんて言われたこともなかったし、思ったことも一度もない。

「あげる。プレゼント」

 エル王子がほほ笑みながら、そのナイフをズイッと近付けてきた。

 自然とその赤い宝石に目がいってしまう。

 

 確かに綺麗だった。

 ……赤い宝石があるとは聞いていたけど、この目で見るのは初めてだった。

 ムカレの国は赤い物を嫌う。

 どうしても、身近な存在である魔物の目を思い起こすからだ。

 

 エル王子には、私の瞳がこんなにも綺麗な物に見えてるのかな?

 

 そう思うと、とても嬉しくて心がじんわりと暖かくなった。


「ありがとう。嬉しい」

 私は素直に受け取った。

 その時、エル王子の手に少しだけ触れてしまい、彼の体温を感じて何故か切なくなった。

 (うつむ)く私に、ナイフを熱心に見ているだけと思った王子が喋りかける。

「ごめん。アクセサリー、プレゼント、持ってない。今度あげる」

 彼がバツの悪そうな表情を浮かべた。

 

 エル王子は〝本当ならアクセサリーをプレゼントしたかったけど、こんな遠征中で持ってないから今度贈らせて〟と言っているのだろう。

 さすがにそこまで言われると照れてしまい、私は頬を赤く染めた。


 ーーガサガサッ。

 近くで物音と魔物の気配がした。

 2人して同じ方向へ瞬時に顔を向ける。

 そして剣を鞘から出して各自構えた。


 やっぱり王子様は、1人で戦う私を手伝いに来てくれたのだ。

 チラリと高台の下を見ると、彼の護衛らしき人が待機しているのが見えた。

 ……しかも私に気を遣って、エル王子が単独で動いているように見せかけてくれている。


『来るぞ!』

 魔物に集中していない私に向けて、エル王子が叫ぶ。

 急いで意識を目の前の敵に戻し、私も彼に叫び返した。

「怪我しないでね!」

 

 

 

 それから私たちは共闘して魔物を倒していった。

 王子様は強かった。

 やられはしないかとヒヤヒヤしていたけど、彼は私より断然強かった。

 

 さすが大国の王子様。

 強くて勇敢で優しくて……

 本当に絵本の中の理想の王子様みたいだ。

 

 私はそんな彼に甘えさせてもらった。

 エル王子がヒエラの街にいるあいだ、夜の魔物退治を手伝ってもらった。


 ……誰かに甘えるなんて初めてかもしれない。

 それだけエル王子は立派で、誰もが憧れてしまう王子様だった。

 そして何より……彼と会える時間が楽しかった。


 


 そんな束の間の幸せも(またた)く間に過ぎ、ついに王子様たちがここを立ち去る日が明日へと迫っていた。

 

 ーー月明かりの中、エル王子と毎夜落ち合っていた高台の上で、私は静かに(たたず)んでいた。

 そうして王子様を待っていると、こちらに向かってくる彼の姿が見えた。

 律儀な王子様は、お別れの挨拶をしに来てくれるだろうなと思っていた私は、クスリと笑みをこぼす。

「明日だね。今までありがとう」

 エル王子が目の前に立つと、私は心の底から感謝を伝えた。


 すると突然、彼に抱きしめられた。

 私の耳元でエル王子が告げる。

「……国へ帰るから、ついて来て?」


 この国の言葉をすらすら話せるようになった王子様に、告白された。

「…………」

「ミルシュ、愛してる」

「…………ごめんなさい」

 私はエル王子の体を押し除けるようにして、抱き合っていた体を離した。

 泣かないように気を引き締めながら、笑顔を浮かべる。

「……私は〝イグリス様の花嫁〟なの」

「…………」

 結婚相手がいると勘違いしたエル王子が、眉をひそめた。


 そう。

 そのまま勘違いしておいて。

 優しい王子様。


 私はニッコリ笑った。

 

 無理して笑うことが得意で良かったーー

 

 心の中でじぶんを卑下(ひげ)しながら、エル王子へと最後の愛の言葉を贈る。


「さようなら」




 次の日の午後、王子たちは予定通りヒエラの街を去っていった。

 私は早朝まで戦ったから疲れて眠気に勝てないという理由で、見送りを辞退させてもらっていた。


 (やしろ)の中にある自分の部屋で、何をするわけでもなくぼんやり過ごす。

「あ……」

 私はあることを思い出して、部屋のクローゼットを開けた。

 数ある服の中に、明らかに系統の違う男物の黒いコートがかかっていた。

 初めてエル王子に会った時に、肩にかけてくれたあのコートだ。


「返しそびれちゃった」

 私はコートを手に取った。

 無意識にそれを抱きしめる。

「もらっていいかな?」

 そんな独り言と共に、涙がポロポロ落ちていく。


 誰かを好きになるんじゃなかった。

 今はもう……食べられるのが、ただただ怖い。


 私はコートをかき抱いて、声を殺して泣いた。

 その様子を見送りから帰ってきたクシュに、見られているとも知らずに。

 …………




 姉であるミルシュが人知れず泣いている場面を見てしまったクシュは、一冊の本を手に取って(やしろ)を飛び出した。

 そしてそのまま街の外の森へと入っていった。


「王子ー! エル王子ー!!」

 クシュは声の限りに叫んだ。

 自国に帰る王子様を呼び止めるために。


 しばらく走ると、さっき見送ったばかりの兵士たちの後ろ姿が見えてきた。

 ざわついた彼らの中心で、光り輝く王子様が振り返るのも見えた。

 クシュの瞳に自然と涙が溢れだし、目の前の光景が歪む。

 それでも、エル王子の前にたどり着くまで、クシュは必死に足を動かした。


「クシュ姫? どうした?」

 エル王子が心配そうに眉を下げて、駆け寄ったクシュに声をかける。

 立ち止まったクシュは荒々しい息をつきながらも、手に持っていた本を広げた。

 それはミルシュと幼いころによく読んでいた、王子様が出てくるあの絵本だった。


 クシュが開いたのは、お姫様が魔王に捕えられており、王子様がその魔王と戦って助け出そうとしているページだった。

 その王子様とお姫様を指差しながら、クシュが訴える。


「ミルシュお姉様を助けて!」

 クシュの目から涙がポロポロ流れ落ちた。

「?? 助ける?」

 エル王子は首をかしげた。

 クシュは次に魔王を指差した。

「イグリス! 魔物の王様なの!」

「!? ミルシュに聞いた。イグリスの花嫁だと……」

 エル王子も懸命にムカレの国の言葉で話す。

「そうだけど……イグリス様はミルシュお姉様を食べちゃうの」


 クシュは感極まって「うわーん!」と泣き叫んだ。

 エル王子が更に困惑して聞く。

「食べる? ……ミルシュ姫?」

「うん……お姉様はイグリス様にとって〝姫〟じゃない……〝(にえ)〟なの!!」

 クシュがそこまで言うと、エル王子はヒエラの街に向かって走り出していた。

 



 **===========**


 エル王子のコートを抱きしめながら、ひっそり泣いた私は、顔を洗って気持ちを切り替えた。

 今は(やしろ)の広間で静かに座り、ゆっくりと呼吸をして心を落ち着かせている。

 視線の先にある窓は開け放たれ、外に面した廊下が見えていた。

 その奥では、(みそぎ)をしている泉が陽の光を受けて優しく輝いている。


 シンとした静寂の中、突然(やしろ)の入り口が騒がしくなり、ドタドタとした足音が私のいる広間まで続いた。

 そしてそのまま背後の扉が開き、中に入ってきた人物に名前を呼ばれる。

「ミルシュ!」

 慌てて戻って来たエル王子だった。

 

 私はゆっくりと背中を向けたまま立ち上がった。

「……この(やしろ)は男子禁制ですよ」

 そしてエル王子を振り返り、何も表情を乗せていない顔で対面する。

「クシュに聞く。ミルシュは(にえ)だと。だから助けたい!」

 私とは対照的に、気持ちが(たかぶ)っているエル王子が叫ぶ。


 私はゆっくりと首を振ってから告げた。

「……私は全てをイグリス様に捧げます。私の命で国民を守れる。それが赤い瞳を持って生まれた姫である私の宿命……」

 淡々と説明する私に、彼はなおも食い下がる。


「ミルシュが好きだから、一緒に生きたい! 容易(たやす)く死ぬな!」

『ミルシュが自分を大事にしないのは、生贄になるからって(あきら)めていたんだな!?』

 興奮した王子は、自国の言葉でも喋りだしていた。


 私は目の奥から涙が込み上げてきそうになるのを、ぐっと我慢する。

 するとその時、外に面した廊下から足音がした。

 私はギクリとしながらも、素早く目線を滑らせる。

 

 やっぱり、まだいたんだ……


「僕の花嫁を(たぶら)かそうとしているのは誰かな?」

 イグリス様がいつものように優しく笑いながら姿を現した。

 先程たまたま現れた彼は、私に忠告しに来ていた。

〝王子について行かなかったから、街の人を惨殺するのはやめとくね〟と。


 イグリス様は、恐怖ですくみ上がる私の頭を満足そうに撫でると、廊下の奥へと去って行った。

 それを見届けた後に、エル王子が来てしまったから……ずっと聞かれていたのだ。

 私たちの会話をーー


 部屋の空気が一瞬張り詰めたかと思うと、ハッとしたエル王子が身を引いた。

 そんな彼の胸に斜めの線が(えが)かれる。

 次の瞬間、斬りつけられたその線がパックリ開いて鮮血が吹き出した。


「エル王子!?」

 彼が血を流しながら倒れていく。

 私はその場に立ち尽くして、ただ見ていることしか出来なかった。

 幼いころに、イグリス様が私を守るために魔物を始末した光景と重なる。


 心臓が痛いほど速く波打った。

 私の特別な血が体中を駆け巡っている。

 なのに、体の先は急激に冷えていった。


 その時、クシュとエル王子の護衛の兵たちも広間に乗り込んできた。

 私とイグリス様にギョッとしながらも、倒れている王子を見つけ、慌てて治療にあたる。

『王子!?』

『治療班を呼べ!』

 兵士たちが口々に叫び、クシュはそこらにあった布で急いで傷口を押さえ、止血していた。

 斬られる前に咄嗟に身を引いたエル王子は、どうにか致命傷を(まぬが)れたらしい。

 ざわめきに、目をうっすら開いた。

 

 私はその様子に安堵しつつ、イグリス様に抱きついた。

 これ以上みんなを攻撃させない為だった。

「イグリス様!」

「フフッ。どうしたの? 可愛いミルシュ」

 イグリス様は優しくほほ笑みながら、私を抱きしめ返した。

 彼の凍えるほど冷たい体に、恐怖も合間(あいま)って震えそうになるのを必死で我慢する。

 そしてエル王子たちに背中を向けたまま私は叫んだ。

「帰って! 私とイグリス様をこれ以上邪魔しないで!!」

「……ミルシュお姉様……」

 クシュの弱々しい声が聞こえた。


 私はクシュを振り返り、彼女を睨むように真っ直ぐ見つめた。

「クシュも、わざわざ他国の王子を率いて私を連れ去ろうとするなんて、反逆罪にあたるわ。罰としてこの国から追放します!」

 私はそう言いながら、目線で彼女への愛情を伝える。

〝イグリス様の怒りに触れる前に逃げて〟と。


 私の言葉と気持ちを受け取ったクシュは、床に泣き崩れた。

 それを見たイグリス様が、嬉しそうに私の頭をまた撫でながら、優しい声色(こわいろ)で語る。


「ミルシュは今までで一等、気高くて美しい。その高貴な魂を内に宿し、日に日に輝きを放っていく。本当に、本当に…………」

 イグリス様はニヤリと笑みを浮かべて続ける。

「美味しそうだ」

 彼の赤い瞳の奥に、どこまでも黒い欲望が見えた気がした。




 **===========**


 あれからエル王子たちは、無事に国へと帰っていった。


 エル王子の傷は、すぐさま駆けつけた治療班に回復魔法をかけてもらい、ただちに塞がった。

 けれど大量の血を失ったことで貧血を起こしており、兵士に肩を支えられながら外へと運ばれていく。


 その途中で、エル王子が泣き喚くクシュに、言葉を落とすようにして何かを告げた。

 クシュは顔をぱっと上げて、王子を穴が開くほど見つめると、大きく頷く。


 優しいエル王子が、追放されたクシュを、自分の国においでと誘ってくれたのだろう。

 その証拠に、クシュは私を切なげに一度だけ見ると、王子を追って足早に部屋を出て行った。


 私はその慌ただしいやりとりを、イグリス様の腕の中から横目で眺めていた。

 イグリス様が緩く体を離して、私の顔を覗き込む。

「誕生日が楽しみだね」

 彼は()()()のことで頭がいっぱいらしく、他のことはもう気にしていないようだった。


「…………」

 私はイグリス様に応えようと、ぎこちなくニコリと笑う。

「フフフッ……」

 全てお見通しの彼は、それでもうっとりと笑った。


 


 美しい蒼い月がのぞく夜ーー

 私は(やしろ)の広間の中央に座っていた。

 

 今日は18歳の誕生日。

 陽のある内に、優しい街のみんなが盛大にお祝いしてくれた。


 お世話になった女官たちが、泣きながら「最後だから」と言って、いつもより丁寧に磨き上げてくれた。

 彼女たちが用意した晴れ舞台の衣装は、美しい絹で出来た白いシンプルなドレス。

 髪にはお花が飾られ、供物(くもつ)らしい姿になったと他人事のように思った。


 準備も済んであとは食べられるだけの私は、さっきからずっと大人しくイグリス様を待っている。

 すると私を包むように、黒い霧が部屋に満ち始めた。

 私の目の前でその霧が濃くなったかと思うと、真っ暗な空間からイグリス様が現れた。


「18歳おめでとう」

 彼が片膝をついてしゃがみ込む。

 座っている私に目線を合わせると、いつもの優しい笑顔を浮かべた。


「ありがとうございます」

 私も笑みを浮かべて、彼の赤い瞳を見つめた。

 イグリス様が一層表情を崩しながら、私を抱きしめる。

「やっとこの時が来たね。愛しいミルシュ」

 彼は私の首筋に頬を擦り付けた。

 そして静かに(おごそ)かに呟く。


「ーーいただきます」


 私の首筋に痛みが走った。

 それと同時に、忍ばせていたナイフをイグリス様の胸に突き立てる。

「!?」

 驚いたイグリス様が私から身を離した。


 彼の唇が赤く濡れているのを見ながら、私はニヤリと笑った。

「私をそんなに好いているなら、一緒に死んでくれますよね?」

 私はナイフを握る手に力を込めた。


 イグリス様の胸に深々と沈んだそれを、ためらいもなく押し込んでいく。

 黒く濁った血が彼の胸から噴き出す。

 グリップに埋め込まれた赤い宝石が、月明かりを受けて(きら)めいていた。


 イグリス様はうっとりすると、口元についた血をペロリと舐めた。

「……フフッ。かじっただけでこれかぁ。美味しすぎて、食べるのがもったいないなぁ」

 イグリス様に噛み破られた首筋から、暖かい血がとめどなく流れ出す。

 ドレスの肩は、ぐっしょりと重くなっていた。

 私の血を取り込んだ彼は酔いしれており、もはや胸のナイフなんて気にも留めていない様子だった。

 

 そんなイグリス様が光悦の表情を浮かべたまま、ゆっくりと顔を近付けてきた。

 目を閉じながら口を開ける彼を見て、私も合わせるように目を閉じる。


容易(たやす)く死ぬな!〟

 エル王子のセリフが頭の中に響いた。


 そう。

 容易(たやす)く死んであげない。

 

 私は、私の命を持ってして、イグリス様と共に生き絶えよう。

 悲しみの連鎖をここで断ち切ろう。


 私は力を振り絞ってナイフを動かした。



 どうか。

 いつかエル王子が、姫として正しいことをしたと褒めてくれますようにーー





最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

この物語が、あなたに届いたことを嬉しく思います。

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繋がっていく作品の紹介

『人から向けられた願いを叶えます』蒼刻の魔術師ディランと一途な白猫のジゼル

リンクしているお話
☾ 53話〜64話

続きのお話
☾ 57話から

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