夢の終わり
事務所につき、簡単な仕切りで区切られた応接スペースに向かった。
美緒、どうしたんだろうと思いつつ、はやる気持ちで足を応接スペースに入った。
「美緒………のお父さん」
俺がそう言うと、美緒のお父さんは立ち上がって会釈した。
「すまないね職場に」
「あ、いえ」
そう言いながら俺と美緒のお父さんは向かい合って座った。
「妻が美緒から君の勤務先を聞いていたようで、伺わせてもらったんだ」
「そ、そうですか…」
「勤務時間がわからなかったから遅めの時間に来たのだが、大丈夫だったかい?」
「あ、はい、丁度終わりの時間でしたので。それでどうされましたか?」
「美緒のことで相談があってきたんだ」
相談? なんだろう?
「な、なんでしょう…?」
「美緒は君のことが好きなようだ。ただ、君しか見えていない」
「は、はい」
「それはそれでいいことなのかもしれないが、今後何が起こるかわからない」
「はい」
「若いうちは許されても、歳を取ってから大きな過ちをおかしては取り返しがつかなくなる」
「はい」
「だから、今のうちに色んな人を見て欲しいと思っている」
「そ、そうですね…」
「しかし君と一緒にいて君しか見ていない状況だとそれは変わらない。美緒にそれを伝えたいんだが、美緒は最近私の話を聞いてくれないんだよ…」
「そうだったんですか…」
「だから、何も別れろとは言わないが、君の方から少し距離を置いてもらうみたいなことはできないかな?」
俺は衝撃的な内容に絶句した。
「これも美緒の為だからお願いできないかい?」
「え、あ、いや、難しいです…俺距離をとるとか、そういう器用なことができる気がしません」
「そうか…」
「で、でも、何か問題が起こっても俺も一緒に解決します!」
「しかしなぁ…今後君もどうなるかもわからんだろ? ちゅ、中卒なんだし、寝ずに仕事をしなきゃいけないような状況になるかもしれない」
と親父さんは言いにくそうに言った。
ああ。
そういうことか。
ついにその時が来たのか。
やっぱり中卒の壁は厚いか。
そう思うと、さっきまでの動揺が嘘のように急に冷静になった。
「そうかもしれませんが、器用なことはできないのもそうなので、距離を置くということは俺にはできません」
「そうか…でも、どうにかして今の若いうちに色んな人を見て欲しいのだが…」
「どうしてそこまで。現状でも少しずつ美緒の見識は広がっていると思います」
「そうかもしれないが、君と一緒にいる限り、美緒の視界の中には君しかいない。それだと、君が今後どうなるかわからない以上、どうにかなってからじゃ遅いからだよ」
「なるほど」
「美緒はこれまであまり人に触れてきていないから、折角の今の機会に色んな人を知って欲しいんだよ」
「そうですね」
「美緒を前に向けてくれたことは本当に感謝している。ありがとう。ただ、やっぱり美緒の今後の長い人生、人に触れ合わないということはないから、今のうちにどうしても経験させておきたいんだよ」
「そうですか」
「それに丁度小さい頃仲良かった友達が美緒にもいてね。ただ、その子だけに限らず、美緒は男性は誰も相手にしないんだよ」
「そう聞いてます」
「それだと将来変な男に捕まってしまうかもしれない、美緒もあんなに美人なんだから」
「そうかもしれませんね」
「それに信頼のできる人の息子さんが折角美緒に色々教えてくれようとしているから、その機会を通して、男性も女性も大人も色んな人を学んでくれたらと思ってるんだよ」
「そうですか」
「だから、ほんの少しでもいいんだが距離を置いてもらえないだろうか…」
俺の答えは決まった。
遠回りに色々話しているがそういうことなんだろう。
「条件があります」
「条件?」
「その信頼のできる人の息子さんて、前の美緒になる原因を作った人ですよね?」
「…そ、そうだが」
「正直一切信頼できる気がしません。かけらほども」
「な、なんだと! 彼は慶都大に入ったほどの子だぞ?! 中卒なんかとはわけが違うんだよ!」
「学歴と信頼は関係しないと思いますが? そもそも、今まで悪気がなかったとしても謝罪もしてないのに、信頼なんてできるわけなくないですか?」
「ふん、学歴がないからそういうだろうが、慶都大ってだけで就職も決まるんだぞ?」
「いつの時代の話ですかそれ。動画配信やベンチャー企業が増えた今、学歴の重要度はないとは言いませんが以前に比べ下がっていると認識しています」
「偉そうに、知ったように言って…。確かに昔に比べたらそうだが、慶都大と中卒じゃ雲泥の差があるんだよ」
「それはそうでしょうね。ですから、そこに関しては何も言いません。僕の出す条件は、その人と美緒が接点を持つのであれば、ちゃんと事前に美緒の意思を確認してほしいということ。そして嫌がった場合無理強いしないことです」
「わ、わかった」
「絶対ですよ? 美緒絶対嫌がると思いますが、無理強いしたりしないでくださいね? 元に戻っちゃいますよ?」
「わ、わかっている。それに美緒ももう子供じゃないんだ」
「そうですか、わかりました」
「そ、そうか…」
「約束忘れないでくださいね?」
「もちろんだ、大人に向かって失礼な」
「本当だったら本件は美緒に先に話すのが礼儀だと思うのですが」
「…」
「最後に、俺は距離を取るなんて器用なことはできないので、俺なりの解決法になります。ただ、これからも美緒のことを愛してますから。美緒になにかあったら、例えお父さんであったとしても容赦しないですからね」
「わ、わかった…」
「ではお話はこれですよね?」
「そうだ、失礼するよ」
そう言ってお父さんは席を立ち応接スペースから出ていった。
ついに来てしまった。
付き合うと決まった時から覚悟していたはずだ。
中卒が美緒の足かせになるときは身を引こうと。
お父さんの言うことは一理ある。
確かに美緒は俺のことをよく見てくれていて、他の人にはほとんど興味がない。
大学でも女の人何人かとは連絡先を交換しているらしいが、特に仲がいいという感じもない。
男の人は一切拒否らしい。
確かにそれだと、今後変な人にひっかかってしまう可能性があると言えなくもない。
失敗するなら若いうちにと言うが、それもそうなんだろうと思う。
それに俺のこの先が大変になる可能性だって、中卒なんだから低くない確率でもちろんある。
体を動かす仕事になるのだろうから、何か事故で突然みたいなこともあるかもしれない。
そうすると今の美緒は、きっと再び一人の世界に戻ってしまう。
だから今のうちに人の見識を広げるということは悪いことではないと思う。
それに美緒がお父さんの話を聞かないと言っていた。
もしかしたら大分前に「家族で色々あって」と言っていた時に、実は美緒が庇ってくれただけで、俺のことで揉めていたのかもしれない。
俺は家族にいい感情はあまり持っていないけど、あの優しい美緒に家族と険悪になって欲しいとは思わない。
家族で揉めてしまっているとなると、俺にできることは1つしかない。
俺は落ち着いて退勤処理をして、自転車置き場に向かい、公園で本を読む美緒を遠くから見ていた上り坂に向かった。
そして俺は美緒を眺めていた定位置につくと、自転車を止めて公園を眺めた。
あぁ…俺の夢は今日までか…。
本当に幸せだった。
美緒が優しく笑ってくれた顔が、今でも脳裏に焼き付いている。
美緒が美味しいと言ってくれた、その瞬間を思い出せる。
美緒が好きだと言ってくれた、その光景が遠くに見える公園に広がる。
覚悟はしていたはずなのに。
中卒だからそんな簡単なことじゃないってわかっていたはずなのに。
美緒だって大学まで行ってるんだから、やはり中卒の俺とじゃ今は良くてもこれから大変になるかもしれない。
お父さんは、要は中卒には未来がないし信用できないし不安だから、学歴の良い人と一緒にいさせたいと言っていたようなものだ。
約束もしたし、正直その人は美緒が絶対嫌がると思うが、別に他にも優秀な人はいっぱいいる。
中卒なんてやっぱりそういうものなのかもしれない。
社会のはみ出し者で存在してはいけない人種。
クソッ!
クソッ…!
クソックソッ…………………!
わかってたんだけどなぁ。
覚悟もしてたはずなんだけどなぁ。
どうしてだろう、涙が止まらないや…。
そうして俺は1時間ほど、公園の誰も座っていないベンチを眺めつつ静かに泣いた。
そして1週間後、美緒の試験が終わるタイミングで美緒といつもの公園で会った。
「律君!」
いつものベンチに先について座っていた俺のところへ、小走りで近づいてくる美緒。
そしてベンチに座るのを待って、
「み、美緒…」
「どうしたの?」
「美緒、大事な話があるんだ」
「なーに?」
「俺さ」
「うん」
「好きな人ができたので別れましょう」
俺は美緒を見て言った。
美緒は「え?」みたいな顔になり、しばらくすると俺に背を向けた。
「ど、どうして」
「俺に美緒じゃない好きな人ができたの。美緒は何も悪くない」
「…」
「こんなに優しくて、こんなに可愛い美緒なのに、俺が悪いんだ。だからごめん」
「…」
「美緒にはいいところしかない。髪を切ってからも切る前も、本当に優しくて暖かくて、俺の支えだった。でも俺はそんな美緒を裏切ってしまった。本当にごめん」
「…で、でも……」
「だから別れよう」
俺はそう言うとベンチを立って、自転車の方に向かい、一度も振り向かずに公園をあとにした。
1年経ってないけどこの1年本当に楽しかった。




