August Day2
神田さんにDMを送ってからはしばらく動画鑑賞を続けていたが、明け方になったら仕事をしなければならない。
フライヤーを揚げたり、店内を清掃したり。
「っ〜♪」
【山本さん】
「お?それさっき聞いてたやつ?」
「あ、すいません……めちゃくちゃいい曲だったんで、つい口ずさんじゃいました」
【山本さん】
「いや、鼻歌くらい別にいいけどさ。お前も鼻歌とか歌うんだな?」
鼻歌を歌うと嫌がる人も多いが、山本さんは違ったようだ。
「そういえば、歌なんてずいぶん久しぶりですね。音楽関係は遠ざけてましたから……」
モップ掛けの足を止めて、俺は考え込んだ。
学生時代はとにかく音を奏でることが好きで、他人の音を聞くことが好きで、そのたびに胸を高鳴らせていたが、その感覚もいつしか忘れてしまっていた。
焦燥感や不安を抜きに、今ほど純粋な気持ちで音楽を楽しめたのは随分久しぶりだった。
【山本さん】
「まぁ、お前にも何か好きなものが出来て俺は安心だよ」
山本さんは、憑物が落ちたというような顔で俺を見ながら言った。
【山本さん】
「なんてったって、今までのお前は感情を失った廃人って感じだったもんな」
「……そんなに酷かったですか?」
【山本さん】
「自覚なかったのか? 常に目に生気がないし、話を振っても相槌は返すが表情はほとんど変わらない。たまーに変わったかと思えば、迷惑そうに顔をしかめるくらいだ。心配するに決まってるだろ?」
たしかに、あのときは露骨に嫌がってたかもしれない。
でも感情がないわけじゃなかったんだけど。
「迷惑だったのは山本さんがしつこく俺のこと聞いてくるからじゃないですか!」
【山本さん】
「ははは! そんな憎まれ口が叩けるならもう大丈夫だな」
少し尖った口調で言い返してみると、山本さんは大きな声で笑った。
【山本さん】
「一時期はこいつ自殺するんじゃないかって本気で思ってたんだからな?」
「う。し……しませんよ。自殺なんて」
図星をつかれて、俺は目を泳がせた。
口では否定していたが、ここ最近は本気で自殺も考えていた。
俺には自分で命を経つ勇気がなかったから、こうして生き長らえてはいるが、一歩間違えたら死んでいたかもしれない。
それこそ、ひと押しの勇気があったら取り返しのつかないことになっていた可能性もあるのだ。
もっとも、神田さんとの繋がりや新しい趣味という未練が出来てしまった以上、それらは全て過去の考えなのだが。
にしても、まさか山本さんが俺のことを気にかけてくれていたとは。
やたら俺の過去を聞いてきたのは、本当はネタのためではなく俺を案じてのことだった?
そう思って山本さんをみると。
【山本さん】
「人生がうまくいかず、絶望していたところに突如現れた幼馴染みの女の子。彼女と話すことでほんのわずかに生きる気力を取り戻した主人公」
【山本さん】
彼女に勧められて歌い手の動画をあさり、ある一人の歌い手にハマる」
【山本さん】
「その歌い手の正体が実はその少女で……これは行けそうだ!」
レジに立って何やらぶつぶつと呟きながら、捨てられたレシートの裏にメモを取っていた。
……うん。
少なくとも純度100%の善意というわけではなさそうだ。
「……掃除に戻りますね」
【山本さん】
「おう。よろしく頼むわ」
俺は無表情で掃除に戻った。
朝の6時ごろになれば、客も徐々に増え始める。
7時から8時の間には、朝ごはんを買っていく学生やサラリーマンで忙しくなってくる。
9時になったら交代になるため、ここが夜勤の最後の山だから俺もレジに入っていたのだが……
「ありがとうござ──」
【???】
「…………フン」
やや上機嫌で接客していると、おにぎりとコンビニ弁当を投げるように置かれた。
驚いて客の顔を見ると。
【???】
「あ?何見とるんだ?とっととやれ」
七部刈りくらいの坊主頭に黒縁の眼鏡をかけた、ゴマのような顔のおっさんだった。
このおっさんは……嫌なほど見覚えがある。
ある日、お釣りの返し方に納得がいかないと喚き散らしたおっさんだ。
それ以来、時々俺をイビリに来る性根の腐ったような性格の客だ。
「す、すいません!」
こういう輩は絶対に神経を逆撫せず、穏便にやり過ごすのが一番なのだ。
俺は慌てて謝りながら、会計のために商品を手に取ろうとする。
しかし、その直前でおっさんは逆に商品を奪い取ってきた。
ヤバイ。と思ったらもう遅かった。
【おっさん】
「おい?お前、言葉遣いがなっとらんなぁ?なぁ!?」
おっさんは意地の悪い笑みを浮かべながら、グッと身を乗り出して顔を寄せてくる。
「す……すいません」
【おっさん】
「だーかーら! すいませんじゃなくてすみませんだろ!そんなこともわからんのか?」
頼むからやめてくれ……と思うけど、そんな願いを聞き入れてくれるわけがない。
後ろの客も驚いて、怒鳴り出すおっさんを見ている。
そんな周りの迷惑など考えず、おっさんはグダグダと管を巻いていた。
……さっき山本さんが言っていたことは本当かもしれない。
前までの俺は、確かに感情を失っていた。
だって、前までは似たような状況になっても、俯いて耐えていられたが……流石に苛立ってきた。
【山本さん】
「お、お次でお待ちのお客様こちらにどうぞ!」
隣のレジから山本さんの声が飛ぶ。
後ろに並んでいた客は皆、驚いたり恐れたり、苛立ったような表情を浮かべながら、山本さんのレジの方に流れていった。
【ガタイの良い青年】
「……あの。そういうのは迷惑なので、やめてくれませんか?」
ほとんどの客はそっと離れていったが、唯一近づいてきた青年が苦言を呈してくれる。
ガタイの良い青年で、鍛えているのが丸わかりな体つきだった。
正直、救われた。
このままだと俺は、辞職覚悟で怒鳴り返してしまいそうだったから。
【真っ白な少女】
「来人……あんたはどうして、いつも揉め事に首突っ込んでくのよ」
青年の背後から、髪から肌まで文字通り全身真っ白な女の子が出てくる。
青年の彼女だろうか。
もし本当なら、正直羨ましいほどの美人だった。
もちろん神田さんも可愛かったが……目の前の少女はどこか人間離れした神秘的な美しさを持っている。
綺麗のタイプが違いすぎて、比べることはできなかった。
【来人】
「悪い……梓。なんならお前は先帰ってても良いぞ?」
外人かと思っていたのだが、少女は完全に日本名で呼ばれていた。
【梓】
「そうさせてもらうわ。めんどくさいけど、朝ごはんは冷蔵庫にあるもので作っとくから」
【来人】
「悪いな。頼むわ」
【梓】
「とっとと帰ってきてよね」
少女は気怠そうにため息を吐くと、さっさと帰ってしまった。
残されたおっさんと、青年が睨み合う。
【来人】
「で、朝からそういうことされると迷惑ですし、気分悪くなるのでやめてくれませんか?」
ほんの少し、青年が目つきを鋭くする。
ただ不快感をあらわにしただけだが、凄まじい威圧感があった。
【おっさん】
「お、俺はただ会計しとっただけだぞ!それで、こいつの言葉遣いがなっとらんから教えてやっとっただけで……」
【来人】
「店員さんは関係ねえんだよ。そもそも言葉遣い以前に常識もなってないやつが偉そうに説教垂れんな」
【おっさん】
「っのガキ!それが年上に対する言葉遣いか!」
散々煽られたおっさんは、今度は青年に食ってかかる。
「いま年齢関係ないだろ。冷静に、自分がどれだけヤバイことしてるかわからないのか?」
【おっさん】
「知らんわ!」
吐き捨てるように言って、おっさんは青年の胸ぐらにつかみかかった。
心臓がどきりとはねる。
このまま喧嘩になってしまったらまずい。
しかし、俺の心配は杞憂だった。
【おっさん】
「グッ!?」
おっさんが苦悶の声を上げる。
青年の胸ぐらを掴むはずだったその手は、青年によって逆に抑えられていた。
【来人】
「そうやってすぐ暴力に訴えてくる奴は楽だよ。ある意味な」
【おっさん】
「い、いだだだだ!!!!」
ぼそっと呟くと、青年は手に力を入れた。
それだけでおっさんは苦痛に顔を歪め、激しい悲鳴を上げ始めた。
この様子だと、どこか痛みのツボを突かれているのかもしれない。
おっさんは全身でもがいていたが、筋力に差がありすぎるのか微塵も振りほどける気配がない。
……まるで格闘漫画のワンシーンのような光景だった。
【来人】
「すみません。お騒がせしました」
青年は小さく頭を下げた。
「あ……い、いえ。別に」
さっきのシーンに驚いていた俺は、接客中であることも忘れて素で返してしまった。
【おっさん】
「は、離さんか!こ、この……ッ!」
【来人】
「うるせえ」
【おっさん】
「あだっ!?」
青年はおっさんを引きずるようにして外へ出ていく。
入店音が虚しく響き渡った。
「あ、ありがとうございました……?」
俺は蚊の鳴くような声で言った。
【山本さん】
「ーー。災難だったな」
ようやく退勤時間になり、ほっと一息吐いたところで山本さんが声をかけてきた。
「ですね」
俺はうなずく。
本当にあの青年がいなかったら今頃どうなってたか。
ただでさえギリギリな状況なのに、客とのトラブルで職も失っていたら。
考えるだけで気が滅入ってくる。
【山本さん】
「まぁ、俺としてはまた新しいネタ頂いてご馳走様って感じなんだが」
その冗談、今は笑えない。
【山本さん】
「神田さんの件もそうだけど、お前ってもしかしてネタを引き寄せる体質なのか?」
シラけた目で見ていると、真面目なトーンで山本さんは聞いてくる。
「さぁ……どうせなら嬉しいことだけ引き寄せてくれたら嬉しいんですけどね」
俺は冗談混じりに笑った。
【山本さん】
「はは!確かにその通りだが、運は収束するとも言うからな。神田さんと出会えた幸運の分、悪運が跳ね返ってきたのかもな」
「もう不幸は勘弁してほしいです……」
そんなやりとりを経て、俺と山本さんは声を出して笑う。
徹夜明けと仕事終わりでテンションが上がっていて、少しハイになってたのかもしれない。
【山本さん】
「さて。じゃ、俺は帰るわ。じゃあな」
「あ、お疲れ様でした!」
【山本さん】
「おう。お疲れさん。お前もほどほどにして帰れよ〜」
廃棄の弁当を食べ終えると、山本さんは荷物を持って出ていく。
それからしばらくして、時計を見ると終業からすでに1時間が経過しそうになっていた。
……長居しすぎたな。そろそろ帰るか。
俺は今開いていた動画を見終えると、スマホを閉じて事務所を出た。