赤い髪-2
「おいおい、ぶつかっておいてそれはないだろ?なぁ、誠意ってもんがあるんじゃねえか?」
立ち去ろうとする小柄な男の肩を抱いて寄りかかる。
真っ黒で上等そうなローブには銀の刺繍で百合の花が縫い付けられている。そこそこ名家の出らしい。
「ひっ……その……悪かった。以後気をつける」
胸ぐらをつかみ壁に詰め寄ってくる俺に、両手を前に出して小さな抵抗をする眼鏡の男は頭を深く下げて泣きそうな声を出した。
「……おう。気をつけてくれよな」
じっと見つめたあと、わざとらしくニコニコと表情を変えると、わかりやすいくらいホッとした表情を浮かべた。
もう行けと手で合図をすると、眼鏡の男は脱兎の如く走って校舎の中へ駆け込んでいった。
どうやら育ちがいいらしい。多少不自然に体に触れたってのに自分のものがすられてるなんて想像すらしないんだろう。
「まぁ、これくらいもらってもいいだろ。ちょっとは値がついてくれりゃあいいんだがな」
肩を抱いたときに拝借したのは、黒く塗られた手のひら大の木箱だった。
やけに光沢のあるその箱の蓋は、血のように赤い紐で十字に留められている。
調べてみたけど特に盗難防止のための魔術の気配はしない。臨時収入もアテも出来たし、今日はサボって街の方へ出てみるか。
不思議な木箱をローブの内側にしまった俺は、さっさと学園からおさらばすべくひと目のない校舎裏へ急いだ。
さっきの小柄な男が無くし物に気がつくと面倒だ。
校舎裏には、懐かせているクレマチスの隣人がひとりいる。こいつに頼めば一瞬で学園の外に俺を運んでくれるだろう。
教師や他のやつらにはこいつらが視えないし、視えたとしても話そうとしないんだからおめでたい。小さな隣人たちは願い方さえ間違えなきゃ便利に使えるってのに「そんなことは魔術書には書いていない。隣人《妖精》たちの力を借りるには段階があり、彼らの気まぐれに頼ることは魔術師として云々」といちいち出来ない言い訳を吐き出してきやがる。
これは師匠から教わったことだ。隣人《妖精》たちは与えたものには多くもなく少なくもない相応の対価を渡すものだって。
「gwallt coch hardd Dynol Rhowch y trysor i mi」
こいつらは何を言っているのかはわからない。でもこうすれば大体言うことを聞いてくれるのは知ってる。
俺は、師匠みたいに隣人《妖精》と言葉を交わせるわけじゃないからうまくいかないことも多いけど。
ローブの内側に忍ばせておいた自分の髪を編んで作った紐を薄紫色のロングドレスを身にまとったクレマチスの隣人《妖精》の小さな小さな手に乗せる。
「Byddai'n braf. Os gwelwch yn dda yn dymuno」
手渡した髪を見つめたクレマチスの隣人《妖精》は、いつもどおり、聞き取りにくい言葉を発しながら大きく頷き、得意げに胸を張った。
準備ができたらしいので、さっそく両手を組んで校舎の外に出してくれと念じながら目を閉じる。
ふわっと浮く感覚がして、頭の中がぐにゃっとし終わったら移動完了の合図だ。行きたい場所を思い浮かべても髪を多めに渡しても出る先は校舎の外なので髪の毛と引き換えにできるのはここまでということなのだろう。
「この頭のせいで俺は怠惰で出来損ないで手癖も悪いんだ。これくらい役得があったっていいだろ」
今日はやたら移動の時間が長いな。
目を開けたくなるのを耐えながら師匠に「ぐにゃぐにゃーってしてるときに目を開いたら空を飛べるかな?」と聞いたときのことを思い出す。
空を飛ぶ約束はしていないから……と前置きをした師匠は、隣人《妖精》との約束を破ったり、相手を疑うと、怒った彼らにガマガエルにされたり、カタツムリにされるって、珍しく真面目な顔をして言ってたっけ。
そんな子供だましをこの年になってまで信じているわけじゃないけど、得にならない実験なんてしたくない。
――Dyma ble wyt ti?
いつもなら数秒もすれば変な感覚は終わる。でも今回はそれがやけに長く感じる。
それに変な声も聞こえてきた気がする。空耳か?クレマチスの隣人《妖精》が話す言葉と似ているけれど声が違う。
――Aut ubi sum?
なんだ?これは目を開けたほうがいいのか?女の声に呼びかけられてるってことはわかる。
今度も聞き慣れない言葉だ。何を言ってる?すぐ近くから聞こえてるのはわかる。
それになんだかさっきいただいた木箱がやけにガタガタ揺れて熱い。
声もだんだん大きくなっていて、苛ついているように思える。
子供騙しを信じているわけじゃない。きっと目を開いたところで大したことにはならないさ……と思うけど、とりあえずこの声の主に話しかけてみることにする。
こいつに俺の言葉が通じれば、無駄に隣人《妖精》を怒らせずに済むわけだし。
「なぁ、さっきからなんなんだ?俺を呼んでるのか?」
――Arhoswch ychydig
よくわからない声にかぶせて、分かる言葉が微かに聞こえた気がして不安でぐるぐるしていた気持ちが少しだけ和らぐ。
ただでさえ足場はふわふわして踏ん張れないし、頭の中も体の中もぐるぐるかき混ぜられているような変な気分なんだ。
早く面倒なことなら終わってくれ……そう思っていると、さっきまでガタガタ揺れていた木箱の気配がない。
確かにローブの袖口に忍ばせていたはずだったし、今の今まで俺の腕に触れていたはずなのに。