後編
夏の間は薄着だった学生たちも、寒くなると、あたたかい上着を着て大学に通うようになる。毎日の通学で、その上着をコロコロ変えるようなお洒落さんは、俺の周りには一人もいなかった。
だから週三回のサークルの練習にも、皆それぞれ、いつも同じ上着で来ることになるのだが……。
黒髮眼鏡の彼女が着ていたのは、雪のように白いダッフルコート。前面に並んだ留め具は――ダッフルコートの場合ボタンではなくトグルと呼ぶそうだが――銀色をしており、遠目で見ると、全体が白一色に見えるようなコートだった。
そんな冬の、ある日のこと。
俺たちの大学は「夏暑く冬寒い」と言われる盆地状の市内に位置しており、その時も「そろそろ雪が降り出すのではないか」と思えるくらいの、寒さの厳しい夕方だった。
大学の授業が終わって、サークルの部室へ向かう。その日の最後の時限に俺が講義を受けていたのは、道路を隔てた別の敷地にある校舎だった。だから同じ大学の構内であっても、かなり歩くことになる。
そして、ようやく部室に入ると……。
まだ練習開始時刻ではなかったが、すでに、かなりの人数が集まっていた。皆、思い思いにワイワイ過ごしている。
そんな中、俺の好きな彼女は、ちょうど入口付近で、ちょこんと座っていた。近くにある掲示板を眺めていたらしい。
「やあ」
横を通り過ぎる時に声をかけると、彼女は立ち上がって、挨拶を返す。
「こんばんは、春日くん」
時間的には夕方だが、冬なので、もう外は暗い。確かに「こんにちは」よりも「こんばんは」が相応しい空気だった。
彼女も、着いてから少しの時間しか経っていないのだろうか。部室の中では上着を脱いでいる者たちが大部分だったのに、まだ彼女は、いつもの白いダッフルコートを着たままだった。ただし前は閉じておらず、そのため銀色の留め具は、ぶらんと垂れている。その垂れ具合が何となく可愛らしくて、またコートの下に見えるセーターもこの日は白かったので、いつも以上に『雪の妖精』感が強かった。
とはいえ、全身が白一色というわけではない。被ったままの毛糸帽は薄灰色だったし、手袋は爽やかな水色と柔らかい桃色の二色。いやツートンカラーのデザインではなく、右は水色の手袋を、左手には桃色をはめていたのだ。
どういうファッションセンスなのか、俺には理解できなかったし、もしも他の女の子が同じことをしていたら「奇抜だ」と感じたかもしれない。でも彼女がそうしていると「素敵だ」と思えてしまう。
少しの間、俺の視線は、色違いの手袋に固定されていたらしい。少しだけ不安げな顔で小首を傾げながら、彼女は呟く。
「これ……。ちょっと変に見える?」
「いや、そんなことないよ。とても……」
俺は即座に、否定の言葉を口にする。そこまでは良かったのだが、問題はその先だった。
「……あたたかそうだね」
残念ながら、素直に本心を続けることは出来なかった。「素敵だ」という一言を口にするには、照れがあったのだ。俺は一歩、心の中で引き下がってしまったのだろう。
そんな俺の言葉を、彼女は額面通りに受け取ったらしい。
「えへへ……。そうだよ。とっても私、あったかいの。春日くんは寒そうだけどね」
「そりゃあ仕方ないさ。外を歩いて来たばかりだし……」
「じゃあ……。はい! あったかさのお裾分け!」
微笑みと共に、彼女は腕を伸ばして……。
左右から挟み込むような形で、手袋をはめた手のひらを一つずつ、俺の頬にピタッとくっつけるのだった。
あの時、頬で受けた感触は、大げさに言うならば、今でも忘れられないくらいだ。
もちろん、手袋に包まれた彼女の手は、とてもあたたかいものだった。
物理的な暖かさだけではない。俺に「あったかさのお裾分け」をしてくれた、彼女の心の温かさも伝わっていた。
同時に、手袋越しに触れ合ったあの瞬間は、俺と彼女の物理的な距離が――肉体的な距離が――、最も近づいた一瞬だったとも言えるだろう。
だからこそ、あの手袋の思い出は、俺の心に深く刻まれたのだった。
こうして、その音楽サークルに所属している間、俺は彼女に淡い恋心を抱き続けていた。しかし、互いの心の距離を縮めるような出来事は発生しなかったので、大学から離れれば、自然と疎遠になってしまう。
彼女は大学院を修士課程で卒業し、その後、人に何かを教える仕事――ただし学校の教師ではなく塾の先生のような――に就いたらしい。そこまでは風の便りで聞いたのだが、それ以上は知らない。
でも、あれだけ素敵な彼女のことだ。きっと今ごろは、普通に結婚して、子供にも恵まれて、幸せな家庭を築いているのではないだろうか……。
――――――――――――
昔の想い人を思い浮かべる俺の前では、回想のきっかけとなったアニメ番組が、まだ続いていた。
相変わらず、主人公は片方の目から光線を発している。普通に黒い左目からではなく、金色に輝く右の瞳だけから。
その場面を見て、俺は独り言を口にする。
「これオッドアイって言うんだよな? あと、こういうのに憧れるのを中二病って……」
どちらも、大学時代の俺が知らなかった用語だ。
それらを口にしたことで、あの時の彼女の手袋が――オッドアイのように左右で色違いだった手袋が――、あらためて映像として頭に浮かんでくる。
「今にして思えば……。少し中二病っぽい部分があったのかもしれないな、彼女には」
しみじみと、俺は呟くのだった。
(「二色の手袋の思い出」完)