私が死んだ日
その瞬間、爪が燃えるようなにおいがした。
遠い昔、その感覚を味わったような気がした。わたしはその時のことを思い出そうとして、やめた。
ひどく悪いことが起こる、予感だった。
それを思い出したからだ。
「ウィスキーは、水割り、ソーダ割り? 」
カウンター越しに男がきいた。
亜麻色の長い髪、緩いウェーブが揺れる。きれいな顔をしていた。男は佐伯と名乗った。
佐伯がわたしを見つめる。透き通った瞳が、印象的だった。
どっちでもよかったのだが、わたしは「ソーダ」と応えた。
本当はお酒も飲みたくなかった。
この部屋にも来たくはなかった。マンションのエレベータに乗った瞬間から、どうやって逃げ出すか、そればかりを考えていた。
友だちの大江園子に誘われるまま、わたしは居酒屋とホストクラブをハシゴして、このマンションまで来てしまった。ここは大江園子のお気に入りホスト、マサくんの部屋だった。
わたしと大江園子は閉店までいた。マサくんとは店の前で待ち合わせした。新宿歌舞伎町からタクシーに乗る。神楽坂の彼のマンションへ向かう。途中の大久保あたりで「先輩」だという佐伯が合流した。
最初、四人でビールを飲んでいたのだが、大江園子はマサくんの手を取って、奥の部屋へ消えた。
それからしばらくわたしは佐伯と、お互いがタレントの誰に似ているとか、つまらない会話をした。「ウィスキーで飲み直そう」ということになり、佐伯がカウンターキッチンへ立ったのだ。
女の声が聞こえた。大江園子の下品な声。
佐伯が手を止める。かすかに微笑んで見せた。
「お楽しみですね」
佐伯は両手にグラスを持ってくる。
グラスを軽く合わせる。
「あ、やっぱり似てる」
佐伯はある女性タレントの名前を口にした。
わたしは微笑んでみせた。
こころがざわめいた。
わさわさと、風がわたって行く。悪い風だ。
「悪い風には気をつけなきゃいけないよ」
歯のない老婆の顔が過ぎる。
祖母の顔だ。
幼いわたしをただひとり、愛してくれた人。
佐伯の顔が目の前にあった。
透明感のある瞳がわたしを見つめる。
「ぼくたちも、どう? 」
佐伯の手が、わたしの手に重なる。
その瞬間、わたしのこころを冷たい風が吹き抜けた。
わたしは佐伯の瞳を見つめる。
――そう、悪い風は、この男だ!
わたしは感じ取った。
すると、佐伯もわたしの目を覗き込んでくる。
息が止まった。
佐伯は、目を見るのではなく、目を通じてわたしの記憶を盗み見ている。そんな見かただった。
わたしは目をそらした。
佐伯が手を放す。
わたしはゆっくりと視線を戻した。
佐伯が、まるで奇妙は生き物を見るような表情で、わたしを見下ろしていた。
「――ちょっとマサくん、マサくん、マサくん! 」
奥の部屋から声がした。
大江園子だ。
佐伯がわたしから視線をはずす。
大江園子が奥の部屋から転がるように出て来た。
「どうしよう幸恵、マサくんが、マサくんが……」
呼吸のできない金魚のように二、三度口をぱくぱくさせると、ようやくそれだけを言って、両手で顔を覆った。
大江園子は、素っ裸だった。崩れるように、しゃがみ込んだ。
「――どうした」
佐伯が立ち上がる。
「死んじゃった」
佐伯は駆け出す。奥のベットルームへ向う。
「――マサ! 」
佐伯の叫ぶ声がした。わたしも佐伯の後を追う。
ダブルサイズのベット。その上に若い男が仰向けに倒れている。マサくんだった。白目を剥いて、開いた口からまるであとから詰め込まれたように、舌がだらりと延びていた。
「――クスリ、キメたのか! 」
大江園子がわたしの後ろに幽霊のように立っている。
「――クスリキメたかって、訊いてんだよ! 」
佐伯はマサの身体に馬乗りになる。肋骨を両手で強く押す。心臓マッサージだ。
「イチ、ニッ、サン、イチ、ニッ、サン、帰ってこいマサ!」
ゆるいウエーブのかかった佐伯の髪が揺れる。端正な横顔が歪んだ。
「――だってマサくんが、キメで一緒にぶっ飛びたい
って言うから」
「何使ったんだ、バツかシャブか? 」
枕もとに何かを見つけたらしく、それを掴んで投げつけた。
小さな注射器だった。
「ポンプなんて持ち歩きやがって、恐ろしい女だな。マサはなあ、心臓が悪いんだよ」
予感は正しかった。
最悪だった。
佐伯はマサくんの痩せた胸に耳を押しあてる。
「畜生! 」
再び心臓マッサージ。
「イチ、ニッ、サン、イチ、ニッ、サン」
しかし、心臓は動かない。
何度繰り返しただろうか。
佐伯は、ベットに両腕を付いて、荒い息を吐いた。
「マサが死んじまった」
「いや―っ! 」
大江園子が叫ぶ。
わたしの脚に絡みつくように、その場へ崩れ落ちる。
大江園子の身体の重みを疎ましく感じながら、わたしは激しく後悔していた。
マサくんの身体を毛布で覆う。佐伯は大きく息を吐いた。立って、部屋を出ようとする。目顔で、うながす。わたしは大江園子の脱ぎ捨てた衣類を拾う。彼女に向ってほうり投げた。
「とにかく、服を着なよ」
リビングへ戻る。
佐伯は合成皮革のソファーに深々と腰を下ろす。タバコに火を点けた。
「まあ、座ったらどうだ」
ぞんざいな口調。佐伯の口調の変化が、わたしがはまりこんでしまった状況の悪さを物語っている。
わたしは佐伯に向かい会うように、腰を下ろした。
天井に向かって煙を吐く。
「死んじまったよ。どうする? 」
わたしの顔を覗き込むように、佐伯は言った。
「ケーサツ呼ぶか」
わたしは俯いた。
考える。警察が来たらどうなるのか?
指紋は採られるだろう……アウトだ。
考える。
答えはすぐに決まった。
「――あたしには関係ないじゃない。あのふたりが勝手にクスリをやって、ひとりが死んだ、それだけよ」
わたしは佐伯を見据える。
佐伯は、黙っている。が、どこか自信ありげに見えた。
ジャケットのポケットをまさぐる。
何かを取り出す。携帯電話だ。
佐伯は携帯をもてあそんでいる。
「あんただって、叩けばほこりの出る身体じゃないのか。警察が来ればションベンだって採られる。もし反応が出れば、今度は実刑はまぬがれないだろうよ」
わたしは佐伯を見る。
佐伯の目は自信に満ちていた。
わたしは、すべて理解した。
わたしには前科がある。
覚醒剤取り締まり法違反と傷害。栃木の刑務所で1年二カ月間服役した。
「警察には、知らせないで下さい」
わたしは、消え入りそうな声でそう言った。
大江園子が来た。
ブラウスが見つからなかったのか、インナーの上に白いジャケットを羽織っている。
ソファーには座らず、フロアに腰を下ろした。
「警察呼ぶか」
佐伯は同じ台詞を繰り返した。
「冗談言わないでよ。あの子が勝手に飲んで、勝手に死んだんじゃない」
その瞬間、佐伯は動いた。素早かった。大江園子が倒れた。ずんぐりした馬鹿でかいイモ虫みたいな肉体が転がった。
佐伯が平手で張ったのだ。
「――ふざけんなよ、こっちは被害者なんだ。立場をわきまえろ」
静かな、低い声だった。
それは大江園子ではなく、わたしに向けられた言葉なのだろう。
大江園子はゆっくりと、のろまなカバのように起き上がる。張られた頬を押さえている。佐伯を見上げる白目が、うらめしげに光っている。
わたしは大江園子を見ていた。
この女はいったい何者なのだろうか?
三か月前に短期派遣のアルバイト先で知り合った。昼食のお弁当を一緒に食べた。つまらぬお喋りをするうち、同じ長野県飯田市の出身だということが判った。
しかも同い年、同じ中学にいたことがあるという。
そして、大江園子はその時分のわたしをぼんやりだが、記憶していると言った。
わたしは、警戒した。
その後誘われるまま、大江園子を二度会った。今日が二度目だった。最初は安い居酒屋でビールを飲んだだけで別れたが、今日はそのあとホストクラブに付き合い、こうなった。
その警戒感が結局はあだとなってしまった。
「どうしろって言うのよ」
泣き声で、大江園子が言った。
佐伯はゆったりとソファーに座る。その態度には余裕すら感じさせる。
すべて、筋書き通りだからだろう。
知っている。わたしの前科を。
ならばわたしは佐伯に付き合うしかなかった。
「こちらは――」
佐伯はわたしを指さす。
「警察には知らせてくれるなとおっしゃる。そして――」
指先をゆったりとした仕草で動かして、佐伯は大江園子を指した。
「こちらは、どうしたらいいのか、とお聞きだ」
佐伯は両手を合わせ、重ねた人さし指で、まるで拳銃自殺をする人のように、自分の顎のあたりを指した。
「そしてこのおれだ。たしかに警察沙汰は面倒だ」
佐伯はわたしをじっと見た。
まさに、芝居はクライマックスを迎えたのだろう。
「あなたも――」
佐伯のしなやかな指先が延びて、わたしの顎に触れる。
「――お気づきのように、おれも闇の社会にどっぷり漬かっている人間だ。叩けばほこりが出るのは、あなただけではないってことだ」
佐伯は微笑んでみせる。緩いウェーブの髪の間から、白い歯がこぼれた。
「三人の利害が一致した訳だ。かわいそうだがマサには、行方不明になってもらうしかない。だがな、それにはカネがかかる」
佐伯は言葉を切った。
そう、わたしの番だ。
小さな声で、言った。
「……いくら、いくらあればいいの? 」
佐伯は満足そうに見えた。ゆっくりと口を開いた。
「一千万、ふたりで用意しろ。ひとりあたり五百万だ」
「そんな、五百万も」
大江園子だ。
「良心的だと思うがな。それだけあれば、死体きれいに始末して、あとくされなしだ」
五百万、どんなに裕福な女でも、そのあたりが夫に内緒で出せる額の限界だろう。もちろん五百万出したとして、すべてが終わる訳ではない。
地獄の始まりだ。
最後はすべてを吐き出させ、その身体までしゃぶり尽くすつもりだろう。
わたしの夫、早川幸徳は小さな貿易会社を経営している。家計を預かっている訳ではないが、毎月十分すぎる額を生活費として渡されている。
結婚して3年。子どもはなく、わたしも特に派手な生活を好む訳ではない。
残った生活費を預金している。そしてわたしが独身時代に稼いだ分も合わせれば、五百万は超えている。
払えない額ではなかった。
もちろん払うつもりはないが、この状況は抜け出さなければならない。
どうする?
わたしは考える。
目を閉じた。
抜け出すのは、そう難しくはない。銀行へ行くだろうから、そのときに逃げ出せばいい。人ごみに紛れてしまえば、佐伯も無理はできない。
問題はそのあとだ。
自宅にも押し掛けるだろう。
私は深く息を吸った。こころを決めた。
夫に、早川幸徳にすべてを打ち明けるしかない。
愚かな妻、幸恵として。
目を開けた。
――と!
目があった。
透明感のある瞳。
佐伯の瞳があった。
佐伯がわたしの目を覗き込んでいる。
まるで、わたしの目を通してわたしの記憶そのものを盗み見るように。
息が止まる。動けなかった。時間が止まってしまったように感じた。いや、止まったのはわたしの思考だろう。
かつて誰かに、同じように見られたような気がしたが、思い出せなかった。
背骨が痺れるような感じがした。
それは、恐怖だった。
急にわたしは呪縛を解かれた。
佐伯が視線を外した。
わたしは放り出されたように、片手をついた。そうしていないと、倒れそうだった。
息をついた。
佐伯がソファーに深々と座っている。ポケットをまさぐってタバコを取り出す。それを咥える。もう一方の手でさらにポケットを探る。ライターを探しているのだろう。
その仕草はいら立っているように見えた。
「なんか、面白くねえな」
佐伯は、火のついていないタバコを投げ捨てた。
わたしを見た。
「――誰なんだよ、オマエ! 」
わたしは、言葉を失った。
「――何者なんだよ」
大江園子が、口をぱっくり開いてわたしを見ている。
佐伯が飛びついて来る。わたしは身構える。
佐伯はわたしのハンドバッグをひったくった。
口を開けて、中身をテーブルにぶちまけた。
化粧品や、財布や小物が散らばる。
「オマエはおれ達を恐れていない。普通は、びびりまくるさ。小便漏らして、泣きわめいて、許しを乞うんだ」
佐伯は財布に手にする。
札を抜き、小銭をテーブルに撒く。カードを一枚ずつ抜いて確かめるように見ていく。
運転免許証。写真と、わたしの顔を何度も見比べた。
「ところがオマエはどうだ。落ちついたもんじゃないか。あり得ないよ」
財布は空になった。佐伯はさらに透かしたり、ひねったりして執拗に調べている。
いち番奥のカード差し込みの下から何かを見つけて、小指を指し込んで引きずり出した。手にとって見ている。わたしの顔と何度も見比べた。
テーブルに放った。
「何だ、これは」
それは、一枚の写真だった。
手札サイズの写真を小さく切り取って、財布に入れていた。映っているのは、ふたりの若い女性。ひとりは、わたしだ。
「誰だ」
佐伯はわたしのとなりに映る女性の顔を爪の先でコツコツ叩いた。
「マリア、わたしの親友」
「マリア? 本名か」
わたしは首を振る。
「関係ないでしょう、あなたに」
佐伯の身体が吹っ飛んで来た。左顔面に大きな衝撃が走る。目の前に閃光が走り、次の瞬間わたしの身体はカーペットの床に転がっていた。
ゆっくりと上体を起こす。
左顔面の感覚がなく、ようやく頬を張られたことが判った。
「訊かれたことに答えろ。オマエには質問する権利はない。この状況を、まだ判っていないようだな」
佐伯の透明感のある瞳が、わたしを見据えている。
この目には、感情がない。
「次は、殺す。わかってるな」
わたしは頷いた。
この男は、人を殺したことがある。
「カンヤーニイ・タンファイ、タイ人」
「タイ人だと? 日本人に見えるが」
「山岳民族、タイの奥地、ミャンマーに近いあたりに住む人たちは、肌が白くて日本人に似てるのよ」
「……待てよ」
佐伯は片手をあげる。考えるような仕草をした。
「そうだ、聞いたことがある。タイの山岳民族だ、そこの子どもは高く売れるんだ。日本人の変態野郎が喜ぶからな」
佐伯は嘲るように口を歪めた。
笑ったのだ。
「自分の国では犯罪になるからおとなしくしているが、人の国の子どもは平気で強姦しやがる。この国の奴らは、百年も前からまったくおんなじことをしてるんだよ」
その口調が、わたしにある思いを懐かせた。
そう、この男は日本人ではない。
「そのタイ人とどうして親友になった? 」
「同じクラブで働いていたのよ」
「ホステスか、どこで働いていた? 」
「高崎、群馬県の」
佐伯は視線を大江園子に向けた。
大江園子は従順な犬のように、主を見上げた。
「チェン・メイフォン! 」
佐伯は何ごとかを早口で命じた。その内容は判らなかったが、その言語は判った。
中国語だった。耳にしたことがある。北京語ではなく、南の広東か福建あたりの言葉に思えた。
大江園子は、いやチェン・メイフォンという名なのだろう、その女は弾かれたように立って、奥の部屋に消えた。
佐伯はわたしを見る。話を続けろといように。
「わたしたちは共通点が多かった。同じ年で誕生日も一日違いで、身長も体重もほぼ同じだった。そしてもうひとつ、マリアは実の父親に売られた。父親はマリアを売ったおカネでテレビと電気冷蔵庫を買ったそうよ」
「オマエはどうした? 」
「実の父親に強姦されたわ。中学生のころ」
佐伯は片手で口のあたりを覆い、人差し指で眉間を押さえている。表情はわからない。眼だけが光っている。わたしを見つめている。
男が入ってくる。
マサくんだった。
「ワン・ラオシエン」
佐伯は素早く立って彼の前に立つ。佐伯はマサくんよりアタマひとつ小さい。
佐伯はくるりと回転する。
足蹴りを食らったマサくんはひっくり返り、壁に身体を打ちつけた。
佐伯は何事かを言った。早口。中国語だ。
佐伯はゆっくりした動作で、ソファーに戻った。
わたしを見る。
わたしは見返した。「どうするの?」と言うように。
「何を話せばいいの? 」
佐伯はどこか優雅さを感じさせる動作で、わたしを指さした。
「オマエのことだ。続けろ」
マサくん、いやこの若者はいったい何という名のだろうか、彼はゆるゆると起き上がって、床に座り込んだ。
彼も、大江園子という名でわたしに近づいた女、チェン・メイフォンという女も、この男を畏れている。
そしてこの男は、ワンという名だ。
もちろんそんなことなど何の意味もない。中国人にワンという名の男が何億人いるのか知らないが。
マサという彼は、わたしの前で不用意に名前を言ったので怒りを買ったのだろう。
わたしは続けた。
「中学三年の時にわたしは家を出た。いちばん近い都会、名古屋に出た。そこでわたしはいろんな仕事をしたわ。ネットカフェを泊まり歩いて、単発のバイトをして、行きずりの男と寝た。でも結局ホステスに落ち着いた。割がいいからね。客と同棲していたこともある」
ワンが手をひらひらさせる。話しを遮った。
「待て、大江園子とは、どこでつながる? 」
「中学よ」
わたしは、わたしが卒業した中学の名を言った。
「オマエは大江園子を知っていたのか? 」
わたしはワンの考えを理解した。この大江園子は偽物だ。偽物を知っている早川幸恵も偽物だ。
わたしは軽く微笑んで見せた。
「大江園子は、知らないわ」
「じゃあなぜ、ふたりは友だちになった? 」
「わたしは友だちが少ない。それに大江園子は中二で転校してきたんでしょう。クラスが違えば知らないのは当然よ」
ワンは笑って見せた。
それは正しい答えだった。わたしを偽の早川幸恵だと疑っているワンにとって。
「なぜ家を出た? 」
「父親との関係はそのあとも続いたから。わたしは両親や家族、その家族が暮らす田舎街が嫌いだった」
「父親を憎んでいるか? 」
わたしは首を振った。
「わたしは父親との関係を母親に知られるのを恐れていたわ。母親に殺されると思った。母親が父を深く愛しているのを知っていたから」
ワンがわたしを見ている。
わたしが嘘を言っているか、迷っているように思えた。
唐突に、わたしの脳裏にある言葉が蘇った。
(違うねユキエ。もしわたしがユキエのお母さんだったら、お父さんを殺すね)
……マリア……マリアはそう言った。
父親に家電製品と引き換えに売られたマリア。
父親の性欲の餌食とされた幸恵。
わたしたちは、似たもの同士だった。わたしたちは一緒に暮らした。いろんな話しをした。
タイの山奥の貧しい村で生まれたマリア。日本の田舎町で生まれた幸恵。何の関係もなかったわたしたちふたりの人生は、日本で交差した。そしてわたしたちは語り合った。互いの人生を交換できるほどに。
お互いにとって、初めての親友だった。
そして、最後の。
わたしはマリアの人生を思った。
最初に売られた売春宿で、白人の男に犯された。8歳だった。
そこでマリアはタムと出会う。
タムはマリアより一歳上の少年だった。マリアとタムはペアとなって、白人や日本人や中国人の金持ちの男女に買われた。まずマリアとタムがセックスをする。幼い子供同士のさまざまな交わりを見て興奮した男女は、まず自分たちで交わり、そしてその後マリアとタムにそれぞれ奴隷として奉仕させる。
しばしばタムはペニスにホルモン剤を注射された。
そうすることによってタムのちいさなペニスは大人のそれのように怒長するのだ。しかしホルモン剤はタムの心臓を蝕んでいく。
タムはマリアに優しくしてくれた。
マリアをかばい、主人に逆らっては殴られた。主人は子どもたちを生かすも殺すも自由自在だった。タイの裏社会は警察をも取り込んでいて、売春宿に暮らす子どもたちには人権はない。
命は、ゴミより軽い。
そんな極限の中で、タムはマリアを慈しんだ。
やがてタムは、ホルモン剤を注射して白人と交わっている最中に死んでしまった。まるで不気味なゴム人形のように顔が腫れあがり、手足を震わせて硬直していく様を、マリアは見詰めていた。
タムの死体は、主人がばらばらに切断し黒いゴミ袋に分けて詰められた。そしてマリアたち子どもたちにゴミ捨て場に捨てるよう命じた。
子どもたちはゴミ袋を引きずるようにして、ゴミ捨て場へ向かう。ゴミ捨て場は巨大で、悪臭に満ちていた。
マリアは袋を開けた。マリアは袋を選んで持ったのだ。タムの頭部が入っていることを知っていた。
マリアはタムの頭部を取り出した。その唇にマリアは口付けた。
「それからどうした? 」
ワンの低い声がわたしを現実に引き戻す。
「名古屋でホステスになってからだ」
わたしはソーダ割りを口に含んだ。口内がからからに乾いていた。
「十七の年に東京へ出た。池袋、歌舞伎町、六本木、いろんな街のキャバクラとかクラブで働いた。二十歳のときに客のチンピラと同棲した。クスリを覚えたのもそのころ。二十一で、チンピラを包丁で刺して重傷を負わせた。覚醒剤と傷害で懲役一年二カ月。身元引受人もいないから仮釈放なしできっちり勤め上げて、出所。わたしはやっぱりホステスとなって、大宮、高崎と流れた。高崎でマリアと出会った」
「マリアはどうした? 」
ワンは鋭いまなざしを向けてくる。
わたしは息をついた。
吐き出すように言った。
「死んだ。自殺したのよ」
「なぜだ? 」
わたしは肩をすくめて見せた。
「わからない」
「理由があるはずだ、人間は意味なく死を選んだりしない」
「それはあなたの考え方でしょ」
ワンの右手がかすかに動いた。
「意味なく死を選ぶ人間はいるわ」
わたしはブラウスの袖をまくり、腕時計を外した。左手首の内側を見せた。
ワンは手にとって見ている。
そこには幾重もの傷が筋となっていた。
「もしかしたら、わたしの病気がうつったのかも」
中学時代から、わたしは何度もリストカットを繰り返した。
(死にたがりのユキエ)
中学時代、わたしに付けられたあだ名だ。
「自殺未遂か? 」
わたしは頷いた。
「わたしにとり憑いていた死神が、マリアにのり移った」
ワンは怪訝そうにわたしを見た。
「まあいい、続けろ」
わたしはマサくんとチェン・メイフォンを見た。
ふたりは黙って見守っている。まるで忠実な犬のようだ。ワンはこうしてこのふたりの上に君臨しているのだろう。
「マリアを失って、わたしは変わった。それまでのわたしは流れのままに生きてきた。わたしは、わたしの人生を生きようと思った」
「ご立派なことだな」
ワンは鼻で笑ってみせた。
「わたしは専門学校へ通い、医療事務の資格を取った。小さな診療所で事務員として働いた。患者として患者として来ていた早川幸徳と知り合い、結婚した」
「旦那は何をしている? 」
「小さな貿易会社を経営している」
「何と言う会社だ、オフイスはどこにある? 」
ワンは夫の会社のことを細かく訊いてくる。
わたしは、夫のことをあまり知らない。
「どう? これでいい? 」
わたしは聞いた。
ワンは、冷たい笑みを浮かべた。
「わたしも訊いていいかしら」
ワンは頷いた。
「どうしてわたしに近づいたの? 」
ワンは両手を広げて見せる。カンタンなことさ、とでも言うように。
「覚醒剤で前科がある者のリストを手に入れた。ここからカタギでカネを持っていそうな奴をリストアップして、ターゲットにした。身辺を調べて、おれたち三人で手分けして当たったのさ。こんな猿芝居でも、カネを出す奴はいるもんだ。日本人は国家も個人も、恫喝に弱い」
さも楽しそうに、ワンは笑った。
「中国人? 」
ワンは頷く。ウェーブの髪が揺れた。
「おれたちのことは、あんまり知らない方がいい」
「知れば知るほど、わたしの立場は悪くなるようね」
「そうだ。知れば知るほど、オマエの死ぬ確率が上がっていく」
ワンは笑った。
げらげらと。
笑えというように、忠犬どもを見た。ふたりが笑った。
わたしはふと、彼らの命も長くはもたないだろうと思った。
ひとしきり笑い終えると、ワンはわたしを見た。
「大都会に暮らす日本人の二十人にひとりは、実は中国人だ」
自信たっぷりに、ワンはそう言った。
とっさに何を言っているか分からず、わたしはワンの表情を見た。
「新しい〈都市伝説〉だよ。日本人の若い奴が好きだろう。だがこの伝説は、本当だ。そして愚かな日本人はわれわれの餌食になる。そしてまた、中国人が増える」
わずかな静寂が流れた。
緊急自動車のサイレンが聞こえた。
ワンがわたしを生きたまま解放する可能性は、ほとんどないように思えた。
わたしは自分の運命が、思った以上に悪くなっていることを知った。
夫に連絡を取らねば、と思った。
そのためには時間を稼がなければならない。
「取り引きをしない? 」
透明感ある瞳にわたしの姿が映っている。
「オマエに取り引きするようなカードはないだろう」
わたしはテーブルに散っているキャッシュカードにひとつを目で示した。
「五百万以上ある、これをあげるわ」
「これは最初からおれのものだ」
「暗証番号はどうするの? 」
ワンは鼻で笑う。
「それを聞きだす方法は山ほどある。オマエはその方法を選ぶだけだ。苦しみたいのか、苦しまずに済ませたいのか」
ワンは立ち上がった。
裁判は終わり、というように。わたしはワンを見上げた。
ワンは意外なことを尋ねた。
「血液型は何だ? 」
わたしはB型だった。それを伝えた。
やにわにワンは携帯電話を掛けた。中国語で何やら早口でまくしたてている。ほどなく、ワンは電話を切った。
ワンの頬に冷たい笑みが走った。
「オマエは幸運だぞユキエ。金持ちの日本人が新鮮な腎臓を求めている。夜が明けたら、オマエは日本を出るが、オマエに脱出のチャンスはない。オマエはモルヒネで眠らされる。他の臓器は、いまおれの仲間たちが引き取り手を探している。オマエはたくさんの病人の命を救い、おれにはカネが入る。そしてオマエの友人の大江園子は、早川幸恵となり、日本国籍を得る。どうだ、素晴らしいボランティアじゃないか」
ワンは笑った。
そして中国語でふたりに短く指示を与える。
マサくんだった男とチェン・メイフォンに両腕を取られた。
わたしは立ち上がる。
「待って、夫が捜すわ、捜索願いを出すわよ。わたしじゃない人間がわたしの預金を下ろせば――」
ふたりはわたしの身体を引きずる。
「――警察も事件性を認めるんじゃない」
ワンの携帯が鳴る。
ワンはわたしに背を向けて、片手を上げた。親指を立てている。まるで「グッド・ラック」というように。
わたしは暗い廊下を引きずられていく。
「黙れ! 」
マサくんがわたしの腕を掴む手に力を込める。
激痛が走る。
チェン・メイフォンが先に立つ。ドアを開ける。
バスルームだった。マサくんはわたしの腕をはなす。チェン・メイフォンがバスタブを指して「入って」と言った。
バスタブは空だった。わたしは入浴するように両足を伸ばして座った。
チェン・メイフォンが、少し前まで大江園子だった女がわたしを見下ろしていた。
マサくんがわたしの腕をとる。銀色が見える。冷たい感覚。手錠だった。もう一方の輪を、バスタブの手すりに繋いだ。
マサくんがわたしを見る。
「ユキエさん、もう少しの辛抱だ。もうすぐ楽になる」
マサくんの顔がま近にある。嗤っている。
息が、臭った。この男のはらわたは、腐っている。
わたしの中に冷えびえした、黒いものが膨らんでいく。そんなことをしても、何の得にもならないことはよく判っていたが、わたしは自分を抑えられない。
わたしは、マサくんの顔に唾を吐きかけた。
マサくんは、わずかに顔をそむける。さも面白そうに、笑って見せる。眼が、光っていた。
指先が顎に触れる。
と、次の瞬間、激しい衝撃を受ける。
意識が遠のく。
草原の映像が過ぎった。緑の草原。わたしは追われるように、歩いていく。
気付くと、わたしは、やはりバスタブにいた。
チェン・メイフォンとマサくんがいる。マサくんの腕がわたしに向かって延びてくる。その動きが、スローモーションのように見えた。
「マー・ユンロン! 」
低い声。
腕はフリーズしたように、動きを止めた。
声の方を見る。ワンがいた。
ワンは中国語で激しくマサくんを罵っている。マサくんの表情が変わる。おとなしい忠犬に戻る。
そう、ひとつだけ収穫があった。
この愚かな男の名は、マー・ユンロンだ。
マーはワンに促され、バスルームを出た。開き戸のところにチェン・メイフォンがいる。折りたたみの小さな椅子に座っている。
相変わらず電話をしているのか、奥からはワンの声がした。
静かだった。
今はいったい何時なのだろう?
左手をみやる。手錠があるだけだ。さっき手首の傷を見せるために時計を外したのだ。
大江園子と待ち合わせて居酒屋に入ったことが、はるか遠い昔に思えた。
寒かった。
わたしは自分がはまり込んだ落とし穴の深さを思った。
東京に、こんな大きな落とし穴があるなんて誰が知っているだろう?
ここはバンコクでもチェンマイでもマニラでもない。
東京なのだ。
こうやってあの男は、これまでどれほどの日本人を殺したのだろう?
わたしは、たぶんこの穴倉の中で死ぬことになる。実際に息絶えるのはマニラかバンコクのイリーガルな病院のベッドだろう。どこであろうと同じことだ。わたしはこの穴倉から抜け出さない。
わたしの死体はゴミ袋に詰められて、生ゴミと一緒に捨てられるのだろう。
そう、タムのように。
タムの本当の名は、ウィスット・ポンニミット。
聡明で、優しい男だった。
あのような極限状態で、誰が自分以外の人間を思いやることができるだろう?
劣悪な環境で育った、幼い子どもが。
わたしは眼を閉じた。
大きく息を吸った。新鮮な空気がわたしの肺を満たす。
(生きろ! 生きろ! 生きろ!)
声が聞こえた。
希望を捨ててはならない。
夫の、早川幸徳の顔を思い浮かべた。
いつも温厚で、わたしは夫の怒った顔を知らない。
夫に連絡をつけよう。
何としても。
チェン・メイフォンを見る。
グレイのカシミヤコートを羽織っている。わたしのコートだ。もう、早川幸恵になったつもりなのか。
わたしの視線に気づいたのか、チェン・メイフォンは恥じらうように笑った。
この女にも人間らしいこころが、爪の先ほどは残っているらしい。
「ごめん、わたしのコートが見当たらなかったから」
わたしは微笑んだ。
顔半分の感覚が失せている。口の中がぬるぬるしている。きっと、ずたずたに切り裂かれていることだろう。舌をあてがう。奥歯がぐらぐらしている。
コートなんてどうでもよかった。
ただコートのポケットに携帯電話が入っているか、確認したかった。奴らが抜き取らなければ、入っている。もしかしたら夫から電話が入っているかも知れない。わたしは結婚以来、こんな時間まで家を空けたことはない。
「さっき何て言ったの? 」
「え? 」
「あんたたちのボスよ。わたしは中国語がわからないの、教えてよ」
チェン・メイフォンは戸惑ったような表情をした。
そう、この馬鹿な女は出会ったときからよくこんな表情をしていた。いま思えば日本語の微妙なニュアンスが判らなかったのだ。
なぜ気付かなかったのか。この女が日本人じゃないことに。
わたしは自分のうかつさに腹が立った。
しかし今更そんなことを言っても仕方がない。
「そのコートはあげる。キャッシュカードの暗証も教えてあげる。あなたを早川幸恵にしてあげる。だから、教えて」
チェン・メイフォンは頷いた。
この女を少しずつ手なずけてやる。
「ユキエの顔を殴るなって。眼玉は売れるし、今は顔だって移植できるから」
チェン・メイフォンはそう言ってわたしを見た。憐れむよいうな、詫びているような、そんな表情をした。
まあ、いい。
少なくとも最後の時まで、肉体的に危害を加えられる可能性はなくなったのだろう。
携帯は、あるだろうか?
音がする。
チェン・メイフォンは素早く立った。
ワンがきた。
ワンはユニットバスの床に膝をついた。優雅な仕草で手を伸ばし、わたしの顎を指先でつまんだ。傷の具合を確かめているようだった。
「ユンロンを怒らせない方がいい」
低い声が言った。
「あいつはアタマが悪い。怒るとみさかいがない。まったく困ったもんだ。でもさあ」
ワンは声をいっそう低めた。
「内臓は丈夫そうだろ、だから飼ってるんだよ」
ワンはウィンクして見せた。
黒いポシェットを取り出す。ジッパーを回して開ける。
細身の注射器が見えた。
とっさにわたしは身体を固くした。
思わずのけぞり、身構える。
冷たいものが、胃の底のあたりから駆け上ってくる。
「大丈夫だ、殺しはしない。モルヒネだよ。少し眠るといい」
薬剤の小瓶に針を突きたてる。小指の先ほどの少量の液体が注射器に逆流していく。ワンは針を上にして、目の前にかざす。慣れた手つきだ。人差し指で軽く叩いた。
ワンは手錠に繋がれていない、右腕の袖をまくりあげる。
わたしはほとんど反射的に、ワンの手を払いのける。
両足をバタつかせ、暴れた。
ワンの身体がするりとのしかかって来る。
気付くと、両手足を抑えられ、眉間のあたりに注射針があった。
「無駄だよユキエ。きみは本当はアタマがいいはずじゃないか」
わたしの身体は硬直したように動かなくなった。
ワンの身体はするりと抜けていく。
右腕に注射針を刺す。
なんの感覚もなかった。
「ほんとうはさ、ユキエ。オマエのような女と組みたかったんだよ。オマエのように、アタマのいい女とね」
忌まわしい液体が血管を巡っていく感覚があった。もうじきわたしの身体じゅうの血管にいきわたり、わたしの身体の自由と思考を奪うのだろう。
ワンがいた。
その顔は、父親と入れ替わった。マリアを毛電製品の代わりに売り払った父親。売春宿の主人、タムの上にのしかかった豚のような白人女……。
わたしの冷えたこころは、激しい怒りで満たされた。
わたしのこころは身体を離れていく。
雲間を抜けていく。
やがて、草原が見えた。
わたしは草原に両足でしっかりと立っていた。
走っている。
あたりは暗い。夜明け前だ。
わたしは重い袋を持っている。
大切なものだ。
そう、愛するタム、タムが入っている。
わたしはタムの頭が入った袋を選んで持った。
ほかの子どもたちから離れた。
リーダー格のチャイがわたしを追うかも知れない。見つかったら、主人に殺されるかも知れない。
でも、わたしはやらなければならない。
タムをゴミ捨て場に捨てるなんて、わたしは許せなかった。
「タムはゴミじゃない」
「タムはゴミじゃない」
わたしは呪文のように何度も繰り返した。
足はとうに感覚を失っている。
腕も痺れて、肩からぶら下がっているヒモみたいだった。
だが、そんなことはどうでもよかった。
もう少し、もう少しであの場所に行ける。
ふたりで夕陽を見た。
きれいな夕陽だった。
ふたりの、ただひとつの楽しい思い出だった。
その場所は、なだらかな丘のいただきになっている。大きな樹が立っている。
わたしは手で、樹の根もとを掘った。すぐに爪が割れ、指の皮が破れた。
わたしは死にたかった。
タムのいない世界に、ひとり生きていても意味がなかった。そうではない。タムがあの白人女の下で死んだとき、わたしも死んだのだ。
ようやく穴が掘れた。
わたしは黒いビニール袋の結び目を解いた。指の感覚がなく、もどかしかった。
袋の口を拡げる。
タムがいた。
内臓と腕と、その間に挟まってタムがいた。
わたしは両手でタムを掴む。
重い。
わたしは渾身の力でタムの頭を持ち上げた。
胸に抱いた。
タムの顔は腫れがひき、いつものタムに見えた。
わたしは着ていたシャツでタムの顔を拭いた。
タムは薄目を開けていた。
半分噛みちぎった舌が、唇から飛び出している。苦しかったのだ。
指で口を開こうとしたが、口は固く閉まって開かなかった。
わたしはその舌に、自分の口を押しあてた。
血の臭いが強くした。
しかしすぐにそれはおさまって、懐かしい匂いがした。
よく干した、干し草のような匂い。
陽だまりの匂い。
そう、タムの匂い。
わたしはタムの口をむさぼるように吸った。
すると、タムの口が開いた。
歯を割って、タムの舌がわたしの舌に絡まってくる。わたしはタムに匂いに包まれ、タムの舌の感覚を全身で味わっていた。
タムが迎えに来てくれた。
わたしはそう感じた。
生きていたって、辛いことばかり。十歳のわたしはこころから死を願った。
すると、タムの声がした。
(生きろ! 生きろ! 生きろ! マリア)
わたしは目を開けた。
朝陽が登った。金色の帯のような光が、わたしを照らした。
わたしは、わたしの全身に、生きる力のようなものが漲ってくるのを感じていた。
こんなに死にたいのに、わたしの身体には生きる力が満ち溢れていた。
タムを見た。
穏やかな表情だった。笑っているように見えた。
わたしは理解した。
タムだ。
タムがわたしの中に入ってきたのだ。
わたしはタムを大急ぎで穴に埋めた。
わたしは何食わぬ顔で売春宿に戻る。そしてわたしは、今日まで生きて来た。
――そう、わたしはマリア。
わたしは目を覚ました。
寒かった。吐き気がした。
わたしは、生きている。
右手を見る。感覚は鈍いが、指先は、動いた。
指の向こうにチェン・メイフォンがいた。椅子に腰掛けたまま、居眠りしていた。
どれほど時間が経ったのだろうか。
静かだった。
ワンもマー・ユンロンも眠っているのだろうか。
ユニットバスの小さな曇りガラスの窓の向こうは、まだ暗い。
チェン・メイフォンはコートを着ている。わたしのコート。たしか右ポケットだ。携帯電話が入っているかも知れない。
夫に連絡を入れる。今はそれしか選択がなかった。夫が捜してくれる。それに賭けるしかない。
わたしはゆっくりと立ち上がる。気配を殺す。チェン・メイフォンに気付かれぬように。
左手がバスタブの手すりに繋がれている。左腕を伸ばす。バスタブから出る。右手を伸ばすと、辛うじてコートに手が届く。
チェン・メイフォンは眠っている。
わたしはポケットに手を差し入れる。硬い感覚。携帯電話だ。わたしは携帯を掴み、手を滑らせるように抜く。
と、その時、携帯のバイブレータが振動した。
携帯を手にする。サブモニターに〈幸徳〉。
チェン・メイフォンが目を開けた。
わたしの目の前に、チェン・メイフォンの顔がある。チェンは驚愕したように、目を見開いている。
「チェン! チェン・メイフォン! 」
ワンの声がした。
わたしは携帯を放す。ポケットから手を抜く。チェン・メイフォンの目を見つめる。
スカートの上、チェンの太ももに手を置いた。
頷いて見せた。
通じただろうか?
わたしは祈る思いでバスタブに戻る。
目を閉じて、首の力を抜いた。
足音がした。
ワンの声がする。短いやり取り。中国語。
再び足音、遠ざかっていく。
ロックを解除する音。玄関ドアだ。
ワンは外出するんだ。
ドアが開く。施錠する音。
わたしはゆっくり息を吐いた。
ワンはバイブに気付いたのではない。携帯は取り上げられていない。
わたしは目を開けた。ゆっくり顔を上げる。チェン・メイフォンがわたしを見ていた。
「ワンは出かけた。一時間くらいは戻らない。ユンロンは眠ってる」
わたしはチェン・メイフォンを見る。わたしたちは、互いを見つめていた。
「ありがとう」
チェン・メイフォンは微かに笑った。
「余計なことを言うと、わたしが殴られる」
「そうみたいね」
チャンスだった。チェン・メイフォンは大江園子に戻っている。
わたしは、四桁の数字を口にした。
怪訝そうにチェン・メイフォンは見る。
「この数字を覚えて。キャッシュカードもクレジットカードも、暗証は全部これ。わたしの誕生日に一をひくの」
チェン・メイフォンは口の中で、繰り返した。
「どうして? 」
わたしはチェンの目を見つめた。
「わたしをここから逃がして、お願い」
チェンはわたしを見ている。
迷っているのだ。
「逃げましょうよ。あなたも一緒に」
チェン・メイフォンは迷っている。
わたしはたたみかける。
「おカネはあげる。五〇〇万以上あるわ」
チェンの目を見る。
が、チェンは目をそらした。
「だめよ、ワンに殺される」
わたしはバスタブを出る。チェン・メイフォンの手を握った。
「何言ってるのよ、あなただっていつか殺されるわ、あの男と一緒にいたら」
掴んだ手を揺さぶった。
チェン・メイフォンは迷っている。迷っている。
「警察に行きましょう。日本の警察はあなたを守ってくれる」
チェン・メイフォンは大きく首を左右にした。
「わたしは不法入国だから、強制送還される。上海でワンの仲間に殺される。わたしも、わたしの家族も」
チェン・メイフォンがわたしを見る。
その目から、迷いは消えていた。
「さあ、もう終わりにして。さもないとユンロンを起こす」
息を吐いた。
「ワンをなめない方がいい。上海でちょっとした争いに巻き込まれて日本にきた。いまじゃ日本のヤクザもワンには手を出せない。あんな恐ろしい男、いない」
バイブ音がする。
携帯だ。
夫が掛けている。
「夫よ。心配して掛けてるんだわ」
チェン・メイフォンは携帯を取る。サブモニターに〈幸徳〉。チェン・メイフォンはメインモニターをはねあげる。親指でキーを押す。
「待って。夫と話しをさせて。別れを言いたいのよ」
チェンの動きが止まる。
「だめよ」
バイブが止まった。
すかさずわたしは続けた。
「じゃあ、夫の写真を見せて、携帯に入ってる。夫の写真にお別れを言わせて。お願いよ」
チェン・メイフォンは携帯を操作している。写真を探しているのだ。
「どこにあるの」
「フォルダーの中」
「どのフォルダー?」
「貸して、お願い。写真を出すだけだから」
わたしは素早く携帯を取った。
メインモニターを見る。
〈着信あり〉、十字キー、発信。〈幸徳〉そして番号が表示される。電話をかけている。
携帯が奪われる。
チェン・メイフォンの怒りに燃える目が、わたしを見下ろしている。
「ごめんなさい」
「ユンロンを起こす」
わたしはバスタブに戻った。
チェン・メイフォンは、動かない。
着信を返信させたことが判れば、ただでは済まないからだ。そしてそれをワンが知れば、間違いなく別な場所へ移動する。携帯は奪われる。
考えてみれば携帯をこの愚かな女に持たせたままだったことが、ワンらしからぬ手落ちだろう。
これで、基地局までは判る。
夫が捜してくれるかどうか。
賭けるしかなかった。
わたしは目を閉じた。
やれることはやった。あとは運次第。
タムをあの樹の根もとに埋めてから、わたしは必死に生きて来た。幸運なことにエイズにも感染しなかった。
わたしは自分を美しく見せるために努力した。それが生き残るために必要だったから。そしてわたしは大人になり、女になった。
わたしはチェンマイのマフィアに売られ、バンコクに流れた。わたしはお立ち台で踊る、ゴーゴーガールになった。わたしを一晩自由にするには、信じられないような大金が必要だった。わたしを買うのは、ほとんどが外国人だった。中でも日本人が多かった。
わたしの容貌は日本人と区別がつかなかった。
二十歳のとき、わたしは日本のヤクザに売られ、ショーダンサーとして日本へ渡った。群馬県の高崎という街で、わたしはホステスとなり、たくさんの客と寝た。
誰もがわたしを日本人と疑わなかった。日本語も勉強した。
そして、田中幸恵と出会った。
幸恵は刑務所を出所したばかりだった。わたしたちはどちらも孤独だった。幸恵は、客を寝ることを強制されていなかったが、気分しだいで寝ていたようだった。
わたしたちは、ヤクザが管理しているちいさなマンションで相部屋になった。毎日いろんな話しをした。お互いのことを、これまで生きて来た人生を、愛した人のことを。
幸恵は自殺したがっていた。
うつ病なのだと言っていた。
幸恵の左手首にはたくさんの切り傷があり、出勤する前にファンデーションでその部分を隠すのが日課だった。
わたしは幸恵を励まし、タムのことも話して、生きてほしいと伝えた。
しかし、想いは届かなかった。
わたしの誕生日だった。幸恵の誕生日の一日まえ。
この日、幸恵は体調が悪いとお店を休んでいた。
部屋に戻ったわたしは、バスルームで手首を切って死んでいる幸恵を見つけたのだ。
バスタブのお湯が、真っ赤だった。
わたしは泣いた。そして次第に、大した理由もなく死んでしまった幸恵に怒りを感じた。
――だから。
――わたしは、幸恵の人生を生きることにした。
幸恵から風邪をうつされたとマネージャーに電話を入れた。幸恵の死体を始末した。
バラバラにして内臓や柔らかい部分はトイレに流した。
あとはハンマーで叩きつぶして細かくして、燃えるゴミに出した。
頭だけは、深夜に持ち出して、近くの公園の大きな樹の根もとに深い穴を掘って埋めた。
マリアの誕生日、幸恵の誕生日から一を引いた日、それは、わたしの死んだ日だった。
わたしはマネージャーに宛て幸恵として退職願いを書いた。
幸恵の荷物を持って、部屋を出た。
うつ病の治療で通院していた幸恵は、国民健康保険に加入していた。保険証には写真がなかったので、これが最初の身分証明書になった。
わたしは東京に移り住み、住民登録をし、自動車運転免許証を取得した。銀行口座を開設し、クレジットカードも作った。手首に傷も付けた。
わたしは、日本人田中幸恵として人生を歩み始めた。
足音がした。
ロックが外れる。ワンが戻ってきたのだ。
ワンはまっすぐこちらへ向かってくる。チェン・メイフォンが立って、ワンを通した。
黒いポシェットを持っている。
「クスリがなくなっちゃってね。買ってきた。オマエのためにね」
ポシェットを開き、注射器を取り出す。小瓶から薬剤を吸い上げる。さっきの倍はある。
これを注入されたら、当分夢の中だ。
ワンはわたしの右腕を取る。
注射器を立てて、ほんの少しピストンを押す。
薬剤が針の先端から零れる。
逃げられない。
と、その時、ドアのチャイムが鳴った。
ドアをノックする。
「すみませーん、警察ですが、このマンションで発砲事件があったので、話を聞かせてもらえませんか? 」
ワンがドアを見る。
「すみません、お願いします。開けてください」
ドアを叩く音が大きくなる。
携帯、バイブがなった。
チェン・メイフォンがコートのポケットから携帯を抜いて、ワンに差し出す。ワンが受け取る。サブモニターを見ている。
マー・ユンロンが玄関ドアのマエに立った。
ワンは微かな声でチェン・メイフォンに指示を与える。
「すみません、寝てたのでわかりません」
チェンがドアの向こうに向かって言った。
バイブは止まる。留守番モードになったのだろう。そしてまた鳴り始めた。
「容疑者がこのマンションに逃げ込んでる可能性があるんですよ。開けていただかなければ、しかるべき措置をとりますよ」
ワンは注射針の先をわたしの目の、ほんの近くに突きつける。
「動くな」
と言った。
ワンはマー・ユンロンに目顔で指示をする。「開けろ」と。
マーがゆっくりとサムターンを回す。
と、ドアが弾けるように開く。
「幸恵、伏せろ! 」
叫び声。曇った擦過音、何かが倒れる音。
ワンが振り向く。
わたしは注射器を払いのけ、バスタブに深く沈む。
赤い霧のようなものが散って、静かになった。
携帯のバイブ音が響いた。
「――幸恵」
声の方を見る。
夫がいた。
携帯を手にしていた。ドアの外でバイブ音を確認していたのだろうか。
そしてもう一方の手には、拳銃があった。消音器、というのだろうか。長い柄のようなものが銃口に付いている。
「大丈夫か」
わたしは頷いた。
夫が手を差し伸べる。わたしは起き上がった。左手がバスタブの手すりに繋がっている。
「離れてろ」
夫はわたしとバスタブの間に身体を入れる。
銃を構えている。曇った擦過音、わたしは自由になった。
ワンがいた。
両膝を畳み、バスタブに背を凭れて座っている。しかし頭のてっぺんが割れ、脳漿がはみ出している。まるで頭から奇妙なピンクの花を咲かせているようにも見えた。
「ワン・ジェンピン、上海の小悪党だよ」
別に大したこともない、という口調で夫は言った。
バスルームの折りたたみドアに凭れて、チェン・メイフォンが死んでいた。顔を撃ち抜かれていて、眉間を中心に内部へめり込んでいる。コートは血まみれだったので、そのままチェンに着せておくことにした。
わたしは夫に促され、玄関に向かう。
「どうしてここが判ったの? 」
夫は笑ってみせた。
うつ伏せに倒れているマー・ユンロンの脚を跨ぐ。
靴を履いて、外に出た。
空が微かに明るい。夜明けが近いのだ。
「やっぱりあの電話で? 」
夫は頷いた。
「われわれには日本の警察が協力してくれるからね」
夫はタバコを咥えて、火をつけた。
「あの部屋にあたりをつけるまでが大変だった。公安の不良中国人の情報が役に立った」
刺すような寒さだ。わたしは両腕を交差させ、自分の肩を抱いた。夫が自分のコートを脱いで、わたしの肩に乗せてくれた。
携帯の着信音が鳴る。夫の携帯だ。
夫が出る。会話する。英語だった。
夫はよく英語で電話をしている。
わたしは夫のことを、ほとんど知らない。浜松町にあるという貿易会社のオフイスにも行ったことがない。夫の親族にも会ったことがない。
それはわたしも同様だ。
電話が終わった。
「さあ、帰ろう」
「いいの? 」
わたしはあの部屋のドアを目で示した。
あの死体はあのままでいいのだろうか。
夫は、ごく普通の口調で言った。
「ああ、大丈夫だ。処理を依頼した。あの者たちは不法入国者だ。日本に入国した記録もない。おまけに犯罪者だ。いなくなっても、何の問題もない」
夫はポケット灰皿でタバコを消した。
「さて、ところで――」
夫はわたしの肩に手を置く。わたしの目を見た。
その瞬間、わたしは息を飲む。
ワンに瞳を覗かれた時の恐怖が過ぎる。
かつて誰かに同じ見かたをされた記憶。
そうだ、夫と初めて会ったとき。
夫はわたしをそんなふうに見た。
夫はきっと、すべて知っているのだろう。
「――火遊びが過ぎますぞ、奥さま」
目が笑っている。
わたしは俯いた。愚かな妻、幸恵はこう言った。
「ごめんなさい。もうしません、絶対」
見上げる。微笑んでみせた。
わたしは夫の腕を抱いた。
ドアが並ぶ通路をエレベータに向かって歩く。
ビルの谷間から金色の光りが零れた。
夜が明けたのだ。
結局、この部屋には本物の日本人はひとりもいなかった。
夫はどこの国の人なのだろう?
アメリカか、韓国か、それともそれ以外の国?
夫が言う〈わらわれ〉とは、いったい何なんだろう?
金色の帯が、わたしを包む。
あの時のように。
暖かかった。
生きているんだと思った。
夫がなに人であろうと、何をしていようと、どうでもいい。
夫は、夫だ。
わたしが、わたしであるように。
わたしは、自分が空腹であることを思い出した。
「お腹がすいたわ」
「じゃあ、ファミレスでモーニングセットでも食べようか」
「うん」
(了)