2011年、冬、無職
とにかく頭を吹っ飛ばしたかった。怒りと呼ぶには迫力に欠け、悲しみと呼ぶには繊細さに欠ける感覚の中で窒息していた。自分の中の虎に喰われる。そんな何千、何万回と繰り返されてきた話に自分を安易に重ねることはできない。その程度の分別はあった。しかし、彼女は自分の分別が、「その程度」であることも理解していた。虎にもなれず、一つの駒にもなれず。酷い年末の中、心療内科の一筆のおかげで彼女は大学卒業後、二年目にも関わらず、離職後、三百日の失業給付金で生きていた。
今日はハローワークの面談の日だ。カウンセラーが私を正しい方向に導いてくれるはず。私の将来を親身に考えてくれるはず。無知な私を安定に導いてくれるはず。台本通りのことを言い続ければ私の目に輝きが戻るはず。人並みの幸福と苦労にまみれた生活が訪れるはず。私にキャリアなあなたのご加護を。しかし、担当のカウンセラーの顔は女性として魅力に欠けるものだった。歳は三十前半だろうか。輪郭は丸く大きく、全てのパーツが主張し過ぎていた。その顔に張り付いた、洗練されていない口のせいで発せられる言葉から説得力を感じられなくなるのだった。
私の方がかわいい。圧勝はできないが負けはしない程度のルックス。彼女の小さな支え。彼女の小さな傲慢さ。その程度の分別。
カウンセリングは四時からだ。現在の時刻は一時。どう時間をつぶすか。逆立った神経を抑えるためにも仮眠を取りたかったが、睡眠薬なしに眠ることは不可能だ。と言って睡眠薬を飲んで四時に起き、まともな意識で行動することも不可能だ。
どう時間をつぶすか。彼女にとってこれは、この何年、真正面からぶつかってくる課題だった。時間をどのように殺害するか。このことばかり、彼女は考えていた。約束の時間まで。終わりの時間まで。巧みで軽やかなステップで殺害に成功することもあれば、泣きつくように押し倒すこともあった。もちろん彼女が時間の殺害に失敗することもあった。それでも、時間はいつも優しく彼女を目的の場所まで運んでくれた。しかし、いつか、私に殺されてきた時間と再会することになった時、彼らは、どう、私を迎え入れるのか。どのような感情を私にむけるのか。お互いの健闘を讃えあうのか。憎悪の気持ちをぶつけあうのか。今度は私が殺されるのか。わかってくれ。許してくれ。私だって、お前らを殺すことに必死だった。そんな、泣き言や言い訳を私は言うのだろう。そう思うと彼らとの再会を彼女は心から避けたかった。向き合いたくなかった。
時計に目をやると家を出る時間が近づいていた。また、彼らは私を運んでくれていた。「サンキュー」と彼女は白々しく、つぶやくと、ベッドから起き上がり、気の抜けたぬるい炭酸飲料を飲み、支度をした。
その日のカウンセリングで彼女が得たものはカウンセラーの交代だった。「キャリア」のカウンセラーから「メンタル」のカウンセラーへの交代だった。会話はほとんど、覚えていない。ハローワークにいるといつも通りのノーフューチャーな雰囲気に飲まれるのだ。
「もし、あなたが魔法使いなら、どんな魔法を使いますか」
「すぐに楽に死ねる魔法を使いますね」
「じゃあ、あなたがもし、勇者ならどうしますか」
「そんな肩書きがあったら、その肩書きで食べていきますね」
「じゃあ、あなたが王様ならどうしますか。」
「王様になっても何かしないといけないんですか」
このような、やりとりをした覚えはある。おそらく、就職活動へのやる気を出させるためのメソッドなのだろう。しかし、もう、そういう問題ではなかったらしい。
帰り際、彼女は自動販売機で飲み物を買った。ペットボトルが落ちてきた後、三ケタの数字のルーレットが回りだした。電光表示板は七を二つ並べた後、当たり前のように八を表示した。
家に帰ると封筒が届いていた。二週間前に書類を送った企業だ。もはや、社名を見ても何の会社か思い出せない。ただ、何にしろ、中身は一緒だ。「今回は弊社の求人に」「残念ながら」「ご縁」「今後とも」「敬具」。あらかじめ、書くことが決められていたような、声があるとしたらコインパーキングの出口の機械が喋るような内容の文章が、一瞥しただけで、書かれているとわかった。要するに自分は必要ではなかったのだ。否定されたのだ。彼女はそれを強引に丸めゴミ箱に捨て、マスターベーションと睡眠薬に今日を終わらせる役目を任せた。
目が覚めたが何時かわからない。何時に眠ったかもわからない。今さら自分が時間を気にする意味もわからない。暗さからして、朝ではないのは確かだ。
浅い眠りだった。頭が重い。口の中が苦い。喉が渇いている。下着が汗でぬれている。ぼんやりと後味の悪い夢を見た記憶がある。典型的な下手な時間の殺害方法だ。捕まってしまう。睡眠薬も無駄にした。涙が流れた。何が今さら悲しいのか。そう尋ねても、言葉がでてこない。むしろ、涙は勢いを増していく。声が出ていた。赤ん坊のようにというやつだ。様々な言葉や風景が頭の中で交錯していた。自分は負けている。敗北者の涙だ。枕元の時計を見て彼女は何とか我に返った。ひどく中途半端な時間だった。自分が悲しんでいることに彼女は驚いてもいた。そんな感情が、まだ生きているとは。喜怒哀楽の怒りだけが、ぬるい、何事もなしえない程度の怒りだけが自分の中で汚い渦を巻いている感覚だけが生きていると思っていた。
落ち着いたところでテレビをつけると、ニュースが流れていた。どこかの国で革命が成功したらしい。民衆が大声で叫んでいる。誇らしげに旗を振っている。何かが燃やされている。最新のソフトで団結した民衆の力。変化を呼び起こす力。革命。もはや、毒づく気にもならないほど、縁遠い言葉だった。自分には叫ぶ言葉も喉もない。振る旗もない。祈りも、メッセージも。彼らも私を仲間に入れることを拒むだろう。もう、それでいい。何でもいい。とにかく眠らせて欲しい。自分のこと以外、考えたくない。今、見たものをなかったことにするように彼女はテレビを消し、風呂に湯を張った。
ぬるま湯の中で、彼女はいい加減に気づいていた。自分の生活にドラマはない、と。人生なんて言葉は使いたくない。この生活には起承転結もなく、ひたすらに平坦な一本の横線が引かれていき、突然、終わる。想像できる全ての悲劇が訪れたところで私の体を通って口にすれば、それはもう、消費されたものだ。使い古されたキャラクターの一つになる。悲劇は喜劇の裏側だ。自分の生活は自意識にまみれた主観とクールぶった客観で混乱している。私を語るのは誰なのか。
「マジになるなって」
電源を引っこ抜くように思考を止めさせた。彼女は、ぬるま湯の中で体温が妙に上がっているのを感じた。彼女は風呂場を後にし、飲み物を買いに外に出た。帰りのエレベーターで彼女は最上階のボタンを押した。最上階に彼女が期待した景色は広がっていなかった。少し高くなったところで自分が住む階と大差はないように感じた。しばらく、地面を眺めた後、彼女は自分の部屋に戻り手持ちの最後の睡眠薬を買ったばかりの炭酸飲料で流し込み、眠りについた。
翌日、彼女は睡眠薬をもらいに心療内科に向かった。原付に乗るとさすがに寒さを感じた。手袋が欲しかった。マフラーが欲しかった。まともに眠れたせいか、単純に、ものを欲する気持ちが自分にあることが彼女には嬉しかった。全てを手に入れてやりたい気分だった。全てを奪ってやりたい気分だった。
予想通り、心療内科の中は込み合っていた。診察券を出し彼女は自分の順番を待った。診察は簡単なものだった。彼女が眠りの浅さを告げると、医師は簡単に薬の量を増やしてくれた。彼女は今の生活の中で唯一、スムーズにこなせる人とのやりとりを終えると、受付で処方箋を受け取り薬局に向かった。薬局で処方箋を渡すと、彼女は椅子に座り備え付けのテレビに目をやった。夕方のニュースが流れていた。どこかの寺で今年を表す漢字一文字を和尚が書く行事が中継されていた。大きな紙には糸へんに半分の半に似た漢字が書かれていた。彼女はこの漢字を読めないと思い込むことにした。どこか海外の国の文字だ、と自分に言い聞かせ、下唇を強く噛んだ。そうしないと、大声で暴れだしてしまいそうな衝動を感じていた。何だ、この予定調和は。バカか。シンプルすぎる言葉が浮かぶ。彼女は血が滲むほど、下唇を強く噛んでいた。幸い、すぐに彼女の薬が用意され、名前が呼ばれ、彼女はテレビの前を離れることができた。
帰りはさらに寒かった。手は感覚がなくなるぐらい冷えていた。マンションに着くと彼女は最上階のボタンを押した。最上階に着くと彼女はコンクリートの地面を眺めた後、身を投げた。
しかし、それでは、あまりにも予定調和なので、彼女は地面に唾を吐き、自分の部屋に戻り、適切なマスターベーションを行い、もらいたての薬を流し込み眠りについた。