七凪町萬奇譚 花の一片、海へ至る
昔かいた連作短編を手直しして。
七凪市七凪町元町。
七凪駅前の通りを一本外れた裏路地の奥に、そのお店は在る。
古びた門柱と格子戸。門柱には唯、『時之一片』とだけ彫られた木彫りの表札が掲げられているだけ。
格子越しに見えるのは、木々と庭石に飾られて、玉砂利を敷き詰めた細い木戸道。春の日差しが作り出す陰影が、奇妙に幻想的な雰囲気を見せている。まるで一見さんお断りの料亭のような佇まいの其処は、知らない人にとっては何の建物なのかすら分からない筈だ。
格子戸を開き、じゃりじゃりと玉砂利の立てる音の風情を楽しみながら5メートル程。木塀に囲まれた薄暗い行き止まりの右手側に在る、重圧すら感じさせる黒塗りの扉を開いたなら、始めて来たお客さんはその中の世界に驚くだろう。
採光に気を使われた空間。ログハウス系の内装を施された、小洒落てはいるもののあくまで普通の喫茶店の姿に。
「というか、普通の人はまず、此処が喫茶店だって気が付かないよな、マジで」
扉を開けて右側にはカウンター席が六席。左側にはテーブル席が三席。テーブル席側の壁には大きな硝子窓が採られており、そこからは手入れの行き届いた庭園を眺めることが出来る。屋根の形に斜めに落ちる高い天井の、空の群青を映す天窓から降り注ぐ光は、その下に走らされた梁に吊られた素焼きのプランターに咲く春の花を映えさせる。BGMは良く分からないけど多分クラシック。だってピアノ曲だし。
「ああ、いらっしゃい、浦瀬君」
扉の開く音に気が付いてか、カウンターの内側で本を読んでいた、シンプルな黒いワンピースと飾り気の無い白いエプロン姿をした、縁無し眼鏡の少女が顔を上げ、僕の姿に破顔した。
「こんにちは、とーこさん。暇そうですね」
店内に居るのは僕ととーこさんだけだった。とーこさんは店側の人間なのでつまり、お客さんは今入ってきた僕だけということになる。
「うん、暇だよー。ほら、うちって常連さん以外まず来ないから」
にぱっと花が咲くように笑うとーこさん。ふわふわとした栗色の巻き毛に白い肌。茶色がかった瞳。まるで西洋のお人形さんのように可憐なその姿。
非常に小さな身長にとてもとても幼い風貌故、何処をどう見たって僕より年下にしか見えないのだけど、実のところこのとーこさん、とっくに成人式を終えていらっしゃったりする。
まあ、だからと言ってその姿が可愛らしいことにはいささかに変わりは無い訳で、僕は微笑ましい気持ちのままとーこさんの笑顔を愛でながら、僕の定位置とも言えるカウンターの奥から三番目の席へと座った。
「でも実際、本当に客商売する気無いですよね、此処」
お冷を持ってきてくれたとーこさんに、僕は話しかけた。喫茶店とは書いておらず、看板すらも無く、在るのは門柱に掲げられた表札のみ。そんな建物が喫茶店だと誰が思おう。普通の感性の人間ならまず立ち入る筈も無く、実際、常連客とその客が連れてきた人間以外をこの店で見たことも無く。結果としてお店には何時も閑古鳥が鳴いている状況だ。満席になることはおろか、テーブル席を使用しているお客すら殆ど見たことが無い。常連客がカウンター席に座るだけ。そんなお店なのだ、この店は。
「あはは。だから良いんじゃない」
苦笑しながらの僕の言葉をあっけらかんと笑い飛ばしたとーこさんは、カウンター越しにすっと僕の前に小さな器を置いた。薄い青の濃淡に染まった、掌にすっぽりと収まる程度の青磁の器。ワンポイントで桜色の花びらが描かれたそれはいわゆるぐい呑みと呼ばれる類の杯である。覗いてみたところ、中身は空っぽだった。
「……?」
お冷を持ってくる筈のところに空のぐい呑みとは此れ如何に? 首を傾げてカウンター内のとーこさんを見返す僕に、悪戯めいた笑みを浮かべるとーこさん。その手にはカランカランと涼やかな音を立てて揺れる涼しげな海の様な色彩の徳利が。おそらくは、ぐい呑みとセットなのであろう。徳利の方には桜の枝と、そこに満開に咲いた桜が描かれている。
なるほど、徳利からぐい呑みへと花びらが散ったという趣向なのか、だから杯の底にも小さな花びらが散らされているわけだ。
「まま、まずは一献」
その白い繊手が、青い徳利を僕に向けて差し出した。いや、未成年にお酒を勧めるのはどうなんでしょう? でも、とーこさん、貴女のお酌を断るような真似、僕にはとても出来ません。ええ、こんな素晴らしい時間を否定するなんてとてもとても。
「頂きます」
迷うことなく僕は杯を手にすると、とーこさんへと向けた。そんな僕を見て、とーこさんはにっこりと嬉しそうに笑い、手にした徳利を杯に向けて緩やかに傾ける。どこまでも透明な液体が、僕の杯へと注がれた。徳利が立てるカランカランという音からして、中には氷が入っているのだろう。杯から掌へと広がっていく冷気がくすぐったい。
杯に八分ほど中身を注ぎ込んで、徳利が離れていった。それを名残惜しく感じながらも、僕は両手で以って杯を軽く伏し拝み、そして中身を一気に喉へと流し込んだ。まあ、お酒は好きだし。
「おおぅ、良い飲みっぷりー」
「……」
「ん?」
「……とーこさん……」
喉を滑り落ちる涼やかな感触に、僕は一瞬呆然と我を失い、そしてそのまま声を絞り出した。目の前にはしてやったりの表情のとーこさん。
「何かなー?」
僕の反応を心底面白そうに見詰めるその瞳。ああ、貴女の瞳に見詰められるなんて実に光栄ですよ、まったく。でもそれはそれとして。
「何って。これ、ただの水じゃないですか!」
「うん、そうだよ。うちは喫茶店だし、まずはお冷でしょ?」
「いや、だって普通はこんな事されたらお酒だと思うでしょう!?」
「あっはっは。私は未成年にお酒を飲ませたりなんかしません!」
まったく悪びれない笑みを浮かべたとーこさんは、偉そうにそのそれなりに薄い胸を反らせて踏ん反り返った。
「そんな事言いながら貴女、この間、月村さんに飲ませたでしょう! あの後大変だったんですから!」
月村さんというのは僕のクラスメイトの月村笙子の事だ。
色々と縁が在って、先日この店に彼女を連れて来たんだけど、僕が退席している間に海千山千のこの店の常連達が彼女にアルコールを飲ませまくったらしく、僕が席に戻った時には、月村さんは呂律の回っていないへべれけ状態だった。そんな彼女を家に帰らせる訳にもいかず、僕は同級生にアリバイ工作を頼んだり、荒れまくった彼女を宥めすかしたり、挙句の果てには僕のシャツに思いっきり……、いや、この先は止めておこう、彼女の名誉の為にも。ここの裏手の水道で酸っぱい臭いのシャツを洗いながら、不覚にも涙しそうになったのは、記憶の奥底に封じておきたいし。
次の日、記憶の大半が飛んでしまっていながらも、幾分かは自分の乱行を覚えていたらしい月村さんが泣きそうな顔で僕に謝り倒した訳だけど、むしろ謝まるべきなのは、真面目な彼女を騙くらかしてアルコールを摂取させ、さらには思考の方向性を僕に迷惑が掛かる方向に向けさせたこの店の不良常連達だろう。
「あー、笙子ちゃん、可愛かったなー。ね、ね? ちゃんと家まで送ってあげたの?」
興味津々のとーこさん。実際、彼女こそが月村さんにお酒を飲ませた一同の主犯であった事は、すでに関係者からの聞き込みで確認済みだ。
「送るも何も、酔っ払った未成年の娘さんを実家に帰らせられる訳が無いじゃないですか。彼女の両親に殺されちゃいますよ、僕」
「おおーっ! じゃ、浦瀬君の部屋に泊めたんだ。ええーい、このスケベ! 送り狼! 発情期っ! 酔っ払った同級生を美味しく頂いちゃうなんて、お姉さん、浦瀬君をそんなオトコノコに育てた覚えはありませんっ! よしっ、でかしたっ! 祝杯ね!」
「……ですから、彼女は天枷さんの所に泊めて貰いました。あの人のところなら安全ですから。後、貴女に育ててもらった記憶は在りません」
妄想逞しく興奮したとーこさんに冷水を浴びせかけるように、僕は淡々と事実を口にした。大体、一人暮らしの男の部屋に、酔っ払った同級生を泊めるなんて事をしたら、目の前の人を含めたこの店の常連衆に何を言われるのか分かったものじゃない。まあ最も、心配だったので僕も天枷さんの家に泊めてもらった事は内緒にしておこう。
「うわっ、つまらないっ。何てヘタレなの、浦瀬君! 折角私たちが段取り付けて準備した据え膳なのに。漢らしくないわ! 恥よ、恥。お姉さん、浦瀬君をそんな意気地なしに育てた覚えはありませんっ! それとも何? 浦瀬君、男の人の方が好きな人っ!?」
「ひ、人聞きの悪い事を言わないで下さい! 僕にそっちの嗜好は在りませんから! 大体ですね。酔っ払っている相手に手を出すなんて男らしくないでしょう? それに月村さんにだって好きな人くらい居るでしょうし、そんな真似をする訳にはいきませんよ。後、くどいようですが貴女に育ててもらった記憶は在りません」
生真面目を絵に描いたような月村さんの事だ。酔っ払って意識不明の中に男の人と寝ちゃってました、何てことになっていたら自殺しかねない。ただでさえ余裕が無いのだから、彼女は。
「……あーっと。浦瀬君って、結構お馬鹿な子ね」
そんな僕に、何故かとーこさんは呆れた様な口調で嘆息した。何なんだろう、その生暖かい、可哀想なモノを見る目は。
「お馬鹿で結構です。何時までも此処の常連の玩具に甘んじる僕じゃ無いですから。そんなことより、この悪戯の理由は何なんですか?」
何と言うか、この人のペースに付き合うのも大変なので、僕は話の方向を修正することにした。そもそも、こんなものでお冷を出そうとした理由は何だというのだろう?
「うん? ――えっとね。その杯、綺麗でしょう?」
僕の問いに首を軽く傾げ、とーこさんは僕の手の中の杯と、自分の手中にある徳利を示した。
「? ええ、こういうのには詳しくないですけど、凄く優しい雰囲気ですね。涼やかなんだけど、暖かみが在るって言うか。徳利の枝から散った花弁が、杯に落ちたって趣向なんですかね? 素敵だと思いますよ。通販ですか?」
僕の答えの何処かに満足したのか、とーこさんは優しげな瞳を手の徳利に向けて、そして小さく首を振った。
「……通販じゃないの。――――それどころか、この徳利とその杯は――――元々はセットですらないわ」
「……」
囁くようなとーこさんの声に含まれた真剣な響きに、僕は合いの手を忘れて、僕の手の中の杯に眼を落とした。続けて、とーこさんの徳利に。色も、デザインも、そしてそれぞれに描かれた花のモチーフも。どう見ても組み合わせて造られたとしか見えないそれらに。
「この徳利も、そしてその杯もね、――うちの倉庫から見つけたの。徳利、正確にはこれ、花瓶とか化粧瓶とか、そんな用途だったらしいんだけど。三百年ほど前のヨーロッパで造られたモノなんだって。で、その杯は大昔の中国製。もし売ったら豪邸が建てられるらしいわよ」
「……」
この手の中の小さな杯がとんでもない値段が付くと言う話に、僕は別段驚かなかった。彼女の言う“倉庫”に関しては僕も知っているのだ。その中には金銭的価値だけでなく、歴史的価値としても計り知れない物品が無造作に、整理されず分類されず、ただおおよその年代毎に適当に置かれているだけという混沌とした空間。一部には世に出たなら、比喩表現でなく歴史が変わるような品物すらも、在る。というか、実際在った。一度その“倉庫”に入る羽目に遭った僕が言うのだから間違いない。そういう異界なのだ、此処は。
だから、僕が何も言えなかったのはそんな事についてじゃなくて。
「――凄いよね。造った人どころかさ、それぞれが造られた場所も、用途も、作成の手法も、そして……年月すらも飛び越して、こうやって、元々対として造られたかのように今、この時間、この場所で、使われてるんだよ、この子たちは」
「…………」
とーこさんの声に含まれた深い響きに。そして、その内容に込められた意味に。僕は返す言葉を無くしてしまっていた。
ここで僕が何を言ったところで、多分意味なんか無い。既に終わってしまった物語に、その場に居なかった人間が干渉する術は無い。そんなものは当事者達だけの権利だ。僕は、たまたま自分の立ち位置がその物語の延長線上にあった為に、その顛末を知る立場だっただけの人間にすぎない。当事者と主張するにはいささか弱い縁だ。だから、僕はその物語に関して何か意見を言うつもりは無い。当事者でこそ無かったけれど、関係者として僕もまた、その結果を飲み干した一人なのだから。
そして、そんな僕だからこそ、とーこさんはこういった話をしているのだろう。事の顛末を知りながらも、その事自体には比較的無関係な僕にだからこそ言える微かに本音の透けた言葉。
彼女が現状をどう思っているのか、それは僕には分からない。でも、多くのものを犠牲にし、様々なものを代償に支払った結果として、彼女はこの場所に居る事を選んだ。それだけが目に見える事実。そして、彼女がこの場所に在る限りは、僕は立場上、義務としてこの場所を護らなければならない。これが僕の事実。まあ、僕が護るまでもなく、この場所にちょっかいを出せる存在なんか、多分この世には居ないと思うんだけど。
エスプレッソ二杯と、内容の無い雑談。
それが、この一時間ほどの時間の成果だった。
結局、僕以外の客がこの店を訪れることは無く、僕は二杯目のエスプレッソを飲み干したのと同時に、帰宅することにした。
「ごめんねー。せっかく来てくれたのに」
会計を済ませる僕に、本当に済まなさそうに謝るとーこさん。僕はそんな彼女に苦笑してみせた。
「仕方ありませんよ、居ないものは。僕が事前に連絡しておけば良かっただけですから。ね?」
「うーん、そうなんだけどねー。でもほら、マスターの居ない喫茶店って、何処か寂しいじゃない?」
そう、とーこさんはこの店の主という訳では無い。この店の主は他に居て、僕は本当はその人に用事があって訪れたのだった。大体いつも店に居る人なので、何の連絡もせずに訪れた訳だけど、今日に限っては間が悪く、この店のマスターは不在だったのだ。
「ま、居ないなんて珍しいとは思いますけどね。仕方ないですよ。じゃ、僕は帰りますから。マスターに宜しくお伝え……いえ、違いますね」
僕は、ふと思いついて、言葉を訂正することにした。今日の悪戯のお返しを兼ねて、彼女の弱い所を突付く事にする。
「ご主人に宜しくお伝えくださいね、奥さん」
効果は覿面。ぼふん、と言う音がするかのように、その表情が真っ赤に茹で上がる。
「え、お、奥、奥さ、ええっ、そ、そんな……」
面白いなぁ。新婚三ヶ月経ってて、今だ自分の旦那さんを“マスター”と呼んでいる彼女。
チクリ、と胸の奥が痛むけれど、それでも、僕は彼女の、いや、彼女と彼女のご主人の幸せを心の底から願っている。
狼狽する彼女に手を振って、僕は店のドアを押し開けて、春の夕日が染める世界へと足を踏み出した。
「じゃ、また来ますね」
「え、あ。……う、うん。ありがとうござましたー」