わたしはあなたに恋をした
昆虫が苦手な方はあとがきは読まない方がよろしいかと思います。
本文の方は大丈夫です、昆虫要素ありません。
私の一生は非常に短い。
君たちがこれを読んでいる頃には死んでいるかもしれない。
だがそんな私でも恋をすることくらいある。事実、今している。
私の好きな人は、一日一回は必ず会うあの人だ。彼はとっても格好良くて、優しい。ただ、目が合ったことは一度もないけれど。
朝、彼は顔を洗って歯を磨いて着替えて朝食を食べて会社へ行く。
夜、彼は疲れきった顔で帰ってくる。
彼の昼の顔は知らないけれど、きっといつものように優しくて格好良いんだろうな、と思う。
私はいつの間にか彼を好きになっていた。何故かは自分にもわからない。それくらい、自然に彼のことを愛するようになった。
彼の生活リズムは大体把握している。だから私は彼に見つからないように、そっと陰から彼を見ている。
いつか、彼と話してみたい。でもその願いは叶わないということを知っている。そう、絶対に叶わない。
私は愛しい彼が眠ったあと、ずっとひそんでいた押し入れからでて、彼の部屋へと足を運ぶ。いい匂い。彼が脱ぎっぱなしにしているワイシャツをそっと撫でて、さらに匂いを嗅ぐ。彼の匂い。
ちょっと汗臭いけど、とってもいい匂いがするそのワイシャツから手を放し、台所へと向かう。
彼が使ったあとのお箸……。少しくらいなら舐めても怒られないだろう。そう考えて少しだけ先を舐める。
次に私が向かったのは彼のクローゼット。丁寧にしまわれた仕事用のスーツ、それが私の一番のお気に入りである。
明日の朝まで、彼が昼間着ていたスーツを抱きながら眠る。彼に見つかったら大変なことになることくらいわかってる。
もう、彼に会えなくなる。それは絶対に嫌だ。
だから、私は彼より早く起きて、いつものようにまた押し入れへと身を隠す。
なんでこんなに愛してしまったんだろう。
叶わない恋ほど燃え上がると、誰かが言っていた気がする。
その通りだなと私は思い、いつもと同じ変わらない一日を過ごす、はずだった。
彼はいつものように顔を洗い、歯を磨き、着替えて、朝食を食べて会社へ行った。しかし、彼は帰ってこなかった。
次の日の夜になっても、その次の日の夜になっても、彼は帰ってこなかった。
彼の家に知らないおじさんとおばさんが来た。どうやら彼の両親らしい。だが、二人とも何故か泣いていた。
その理由はすぐにわかった。彼は、死んだのだ。
会社から帰ってくる途中、車に轢かれそうな子猫を助けて、彼自身がいなくなってしまった。
彼がいないこの世界なんて、もう意味がない。私も死にたい。早く寿命がきてほしかった。
「お嬢さん、悲しい顔してどうしたんですか」
ある時、知らない青年に話しかけられた。
「好きだった人を、亡くしたの」
なぜだかわからないが、この青年になら話してもいい気がした。
「とても優しくて、格好良い人だったわ。最期まで、彼は優しかった。多分、彼のような人にはもう出逢えないと思うの」
「へえ」
青年は一言呟いて、私の肩を抱いた。
「お嬢さん。俺はずっと貴方が好きでした。名前も知らない貴方が好きでした。悔しいけど、その彼とやらをみて幸せそうにしている貴方が一番好きだ。今度は、俺がその幸せのもとになりたいんです。あなたが嫌なら一晩だけでもいい。付き合ってもらえませんか」
私はまだ男を知らなかった。その日の晩知ることになるなんて、思ってもいなかった。
想像していたよりもずっと怖く、だがどこか気持ちよさもある行為に私は没頭した。彼のことを忘れるために、青年との行為のことのみ考えていた。
それから数日後、私は青年にプロポーズされ、結婚した。
それでも私の心にはまだ彼が残っている。いや、彼しかいないのだ。
(ゴキブリの)わたしが(人間の)あなたに恋をした
そんな物語でした。
ちなみに、
私…ゴキブリ(♀)
あの人、彼…人間(♂)
青年…ゴキブリ(♂)
読んでいただき、ありがとうございました。