貴方は私だけの愛しい人
ふるりと身震いして私は目の前にいる愛しい彼の背に腕を回して抱きつく。顔を擦り寄せれば海の香りがして胸がキュンとしてしまう。
初めてあったのは深い海の中、私は貴方から逃げてしまったけれど、貴方はずっと私を追いかけてきてくれた。
一途に、私だけを。
私だけを、求めてくれた。
「氷雨様」
「なんだよ、砂姫」
ぶっきらぼうのこの優しさを孕んだ低く心地良い声が好き。私に向けられる闇を切り抜いたような底のない漆黒の瞳に私が映し出されるのが堪らなく好き。優しい仕草で私を抱きしめ返してくれる暖かな温もりを全身で感じるのが好き。
「月が綺麗ですね」
「あ?」
徐に顔を上げて満点の星空が広がらない青空に微かにぼんやりと浮かび上がっている楕円に近い月を見た氷雨様は眉間に皺を寄せた。視線を私に戻すなりに呆れたような声で私に言った。
「アレが綺麗に見えんなら医者に頭見てもらった方がいいぜ」
「…そうではありません」
口を尖らせてそう言葉を紡げば困ったように顔を歪め、これは困ったというよりは面倒だと思ったのかもしれません。
氷雨様はあまり頭は良くはありません。物事を深く考えません。でも、物の覚えは早いので決して出来ないわけではないと思います。
きっとやる気が足りないのです。
「なら、どういう意味だ?」
「ん」
耳元で甘く囁く声に身体が震えてしまいそうで、ぎゅっと強く抱きつき私は言葉を探す。本当の夜空が広がっていれば違和感がなかったのでしょうが、今は晴れやかな青空が広がっている。
「自分でお調べください」
「教えてくれないのか」
優しく細められた瞳、口元は意地悪く笑みを作り、溜め息混じりの声で残念だ、と私に言う。
「俺も愛してるよ、砂姫」
「っ!?」
「聴きたかったんだが、砂姫は恥ずかしがり屋だから滅多に愛を囁いてくれねぇから」
嬉しかったよ、そう続けて私をぎゅうぎゅうと抱きしめ、頬に口付けた。
頭がクラクラしそうな程に熱くて、心臓はまるで身体中にあるみたいに脈打つから、氷雨様に私の鼓動が響いてしまう。
「私は…」
「砂姫、別に今のままでもいい。俺の傍にいて、抱きついてきて、可愛い顔して俺を見つめてくれればいい。俺の名を呼んで頬を赤らめてくれればいいんだ」
自分でもわかるほどに真っ赤だと思う。
今更に顔を見られたくなくて胸板に顔を押し付ければ力強い鼓動が私と同じリズムで刻まれていて、胸がギュッと締め付けられて、恥ずかしくて死んでしまいそう。
汗もいっぱいかいてるし、臭いかもしれない。
ああ、もう恥ずかしい。
「ひゃっ!」
「ふふ」
抑えられたら笑いが頭上から聞こえてくる。背中を上から下へと撫でられて思わず上げた声を笑っているんだろうか。
何を笑っているにしろ、恥ずかしい。
「まだ、悪戯してほしいか?」
「や、です」
ぞくぞくとした感覚は変になるから。
「なら。俺に顔を見せて」
緩んだ腕に渋々と身体を少し離して意を決して顔を上げるとすぐに目が合う。それにまた熱が上がる。
「氷雨様」
「本当に可愛いよ。喰っちまいたいくらいだ」
白い歯を剥き出しに無邪気に笑ってそう言われると、本気のような気がして仕方がありません。というより目が本気です。
「俺だけのお姫様だ」
「…氷雨様はお姫様を攫う魔王ですね」
「それは、褒められてんだな」
顔が近付いてくるから、自然に目を閉じて、身を任せてしまう。ずっとそうして私は生きてきたから。
少しかさついた感覚が唇に触れて、ぬるりと口の中に舌が入ってきた。ピクリと身体が硬直してしまう。
「んっ」
「…砂姫、愛してるよ」
息が巧くできない。
まるで、あの時のよう。
「あ…ひさめさま」
口が回らない。
「俺だけの人魚姫」
幾度と交わされる口付け。
うっすらと目を開けば視線が交わる。
「俺の歌姫」
強い瞳。
「手放さない、手に入れたんだ。もう俺のモノ」
心も身体も全部。
私の全ては全部、氷雨様のモノ。
「愛してる、砂姫」
息が出来なくなっても、私はこの人と一緒に、氷雨様と共にいたい。
永久に貴方の傍で貴方を感じていたい。
「すき」
貴方が私を見つけてそうしてくれたように、愛してくれたように、私も貴方を、愛していたい。
貴方に食べられたい。
血となり肉になりたい。
もう私は怖くないから。