一章 漆黒2
血の匂いが辺りに充満していた。
彼女の後ろには、動かない人形しか存在しない。投げ出された手足は、少しずつその身から温もりを消してゆく。
ユアは赤い液体の付着した剣を左右に振り汚れを落とすと、慣れた動作で背へと収めた。
他の隊員はこの場には見当たらず、どうやらこの戦闘中にはぐれたのだろうと適当に見当つけた。どうも頭がはっきりと機能しない。霞が掛かったようにぼんやりとしてしまう。
頭痛は酷くなっていた。頭が割れるように痛い。だがそれが無ければ自身の意識は途切れていたかもしれない。
途切れてしまえばその後は―――――
この痛みが無くなればいいと思う。だけれど痛むままでいいとも思う。
「ユア・レスター」
誰かが名を呼んだ。顔を半分だけ振り返る。
深緑の瞳が在った。
ユアは血と肉の残骸の中心に立っていた。彼女の漆黒の羽織が靡き、視界に黒が広がる。
背筋が凍るほど美しいその姿に微かな戦慄を抱いた。
重なる瞳に一瞬、銀が交わる。
――――銀?
「司令官?」
時が止まったような感覚は、後ろから掛けられた声によって唐突に終わりを迎えた。
思考を現実へと向きなおしたロイトは、指示を素早く出し、この事態の収拾を始める。
「十番隊の半数は、怪我人の手当てを。残りは残党を――――」
「その必要はございませんわ」
リリスは十三番隊の兵士たち、そして数人の拘束された敵兵を引き連れ姿を現す。何処か、その言葉の節々に棘が混ざっているのは気のせいか。
「これで全てのはずですわ。これに拷問でもなさって騒動の意図でもお聞きになられてはよくって?」
明らかに素に戻っている口調。今度こそ敵意が丸出しだ。やはりこの間の件が原因だろう。
「あんた達は先にそれを連れて帰還を」
リリスの口が返答を紡ぎ出そうとした直後、ざわりと辺りが騒がしくなった。
ロイトは何事かと思い、すぐさま周囲の確認を始める。
「――――!」
死肉の山の上。
ゆっくりと傾く黒。
頭で考えるより早く、体に指令が行き渡る。
転がる死体と武器の先、彼は疾走する。脚の腿の辺りに鋭い痛みを感じた。
だがそれよりも腕にある重みと温もりの方が彼を動揺させたのである。
馴染んでいる心地よさ。だがそれを邪魔するように鋭い痛みが頭を駆け抜ける。
目蓋を開けた。
白い天井、見慣れた自室の風景。
その中の視界の端に人影を捕らえ、ユアは反射的に立ち上がり脚にある小型銃を引き抜く。
「ッ……」
刹那、痛みが襲い目の前は真っ白に塗りつぶされる。手からは拳銃が滑り落ち鈍い金属音が室内に響いた。
「……おい、倒れた人間が無理に動くな」
冷ややかに見下ろす男は、司令官を勤める男、ロイト・ディラス。何故、ここにいるのかと疑問が浮かぶが、彼の言葉を整理し、答えが見つかった。
彼女が倒れた時、この場に運んできたのが彼なのだろう。
「勝手に部屋に入ったのは悪かったよ。だがあんたの症状を知るまで、この場は離れることが出来ないんだ」
症状、倒れたことが病気だと思われているらしい。
当たり前だ、彼女に診て分かるような怪我の類は一切無く、原因はそれ以外だと考えられるだろう。
「それで、原因はなんなんだ?」
事務的に言葉を紡ぐのは、彼が後に、報告書を作らなければならないからだろう。
起きたことはなるべく正確に書くようにといわれているのは、作成した事のあるユア自身も良く知っている。
ありのまま話すことは出来ないない、『原因』
適当に作り出そうとして、それは頭痛に阻まれた。
「ッ……ああああぁぁぁ!」
歯を食いしばり、痛みに耐えるが気休め程度にすらならない。今までが仮初だったかのような激痛が思考を支配した。
「…………!」
微かな動揺を見せたロイトの表情が驚愕へと変化する。
見たのだろう。ユアの瞳を。
黒から銀へと変わる様を。
「……あんたは……」
痛みは刹那、引く。しかし霞が晴れたような視界に飛び込んだのは赤。
もっともあって欲しくて、けれどもなければいいと思う色。
食い入るように傷口を見つめるユアにロイトは怪訝そうに目を細め、ふと気づいた。
「血が……欲しいのか?」
全てを見透かすかのような深緑。
彼女に言葉はない。ただ痛みで歪む瞳に、恍惚とするものが入り混じっているのがあるだけだ。ロイトは、未だに流れ続けるそれを指で救い上げ、ユアに差し出した。
「舐めろ」
戸惑いなど痛みと欲求に押しつぶされている。ユアは彼の手首を荒く掴み、引き寄せると血に濡れた指を口に含んだ。指先にある血を己の舌で丁寧に舐め取る。
まだ足りない。
思わず、指に歯を立てた。
「……っ」
痛みを押し殺した声。彼の右腕を掴んでいた手が緩んだが、口内に落ちた雫の味に簡単に思考は埋め尽くされた。
浅く切れた指先を一身にユアは舌でなぞる。
しばらく繰り返すと、痛みは治まったようで、黒と銀が混濁した瞳が彼の前にはあった。
その瞳が歪み、刹那、鋭利な先端が彼を襲った。すんでのところで回避し、壁際まで下がる。
「何のつもりだ?」
「知られたからには生かしておけない」
ゆらりと立ち上がる彼女の細められた瞳は、銀色に塗り変わっていた。狂気がその中に滲むのを見て、冗談などではことを理解する。
ユアは、外装から数本、柄のない短剣のようなものを取り出し、空中へと投げた。
軽く詠唱すると同時に、それらは彼に向かってくる。
「くそっ!」
横へ飛び、床に手を付き、地を蹴った。
しかし、すでに距離を詰めていたユアの追撃が迫る。彼女の長剣を唯一、持ちえていた、短剣で軌道を変えた。振動が脚まで伝わり、ずきりと傷口が疼く。
痛みを堪え、ユアの長剣を弾き返した。彼女の崩れる体勢の中、僅かな隙を狙い腕首を掴む。力を込めると、うめき声と共に長剣が手から滑り落ちた。
やはり本調子ではないのだろう。疲労を感じさせる青白い顔が目前にある。だがその眼光だけは鋭く、異常なほど殺気立っていた。
ユアは脚に括られているホルターに手を伸ばし、けれども力尽きたようにその場にずるずると膝を付く。そのまま彼女の世界は閉じた。
ロイトは、気絶した彼女を寝台に戻し、息をつく。
今、命の危機はとりあえず脱したことに安堵し、だが疑問は何一つ解決されていなかった。
「いったい何なんだ……」
一合、二合と剣を交える。8、と数えた時点で、鈍い金属音を響かせ、相手の獲物はその手を離れた。
「構えが少しずつずれている。隙だらけだ」
「はい、ありがとうございました!」
礼を述べ、身を引く彼のと入れ替わりに入ってきた男を一瞥し、構えを整えた。
快晴、雲1つない、水を写し取ったかのような空の下。ユアは、13番部隊の稽古を付けていた。
これで何人目だろうか、数人、数えた所で考えることを止めたため、何戦目かもう分からない。
剣を感覚だけで振るいながら、変わりに思考を支配するのは、何故、あの男は口を噤むことを選んだのだろうかということだ。
あれから数日経つが、未だにユアが『生きる』代償として、血を啜るという異質な面を持つことを、彼は誰にも話していないようだった。
もっとも短絡的に行き着く答えは同情というものからだろう。罪人でないというのに、諜報という面倒な仕事を行っているのかも重ねて見透かされ、憐れまれたのかもしれない。
対する感情など何もなかった。いや、何も感じないといったほうが正しいだろう。
ユアにとって相手から向けられる全ては、横切る風と同じだ。ただ、存在し通り抜けるだけの交わることのないもの。
いつもそう思って、損なわれているのは肉体ではなく精神なのではないかと自嘲するのだ。
何せよ、黙してくれるのであればいい。この間は、冷静さを欠いて、剣を向けたが、彼がこのまま何も行動を起こさないのであれば、こちらから動く必要もない。
だから、もう決して合間見えることもない。在るだけで、重なることなどないものだと思った。
思考に浸っていた間も、身体的には機能していたようで、疲弊しきった体躯が辺りに何人も転がっていた。
ユアはそれらを一瞥し、平坦に告げる。
「10分休憩、後に模擬試合をする」
ぐったりとした返答がまばらに返ってきたことを確認、と幾分か離れた場所にこちらを伺っている人影を見つけた。
誰か正確に特定する前にその姿は見えなくなり、代わりに背に受ける視線に振り返る。
あの夜、見た色と同じ深緑。
彼、ロイトは、ユアの姿を隻眼に写すとこちらに緩慢な歩調で歩み寄る。
「手合わせを願いたい、いいか?」
怪訝そうに、けれども表情にその態度を表すことなく無感情に彼女は見返す
思考を働かせども真意が何一つ分からない。
この男は、何がしたい――――?
「……分かった、両者、どちらかが武器を落とすまで」
肯定を返すと、自分で言ったのにかかわらず、意外そうに思われたのが分かった。
本当に何を考えているのだろうか。
だが今は、相手の思考はとりあえず捨て置く。
距離を幾分か取り、背から長剣を引き抜いた。彼も同様、折りたたみ式の短剣を一振り逆手に持ち、もう片方にそれよりも長い剣の切っ先を内にして構える。
彼が一歩、踏み出したのと即時的にユアは距離を詰めた。薙ぐ構えをとり、しかしすんでの所で方向を変える。下からの突きは、相手によって与えられた僅かな衝撃によって狙いが逸れた。
「……あんたは、何なんだ……?」
交錯し、耳障りな金属音が広がる中、ロイトはぽつりと呟いた。剣が重なるのを、ユアは加減を変え、付加する力を受け流した。拮抗が解かれ、再び対じする形に戻る。
地を蹴る。
間髪いれずに何度か剣を振るった。それを全て弾き返すロイトをその目に納めて、彼女は言葉を紡ぐ。淡々と。
「その問いに私が答えねばならない意義はない」
剣筋が揺れる。
「ああ、そうだな、だが」
返した刃が彼女の僅かな隙を狙った。
「俺はあんたが何なのか、断片だけでも知っている」
隙を防いだ剣は攻撃に転じず、刹那、止まる。零れる一欠けらの動揺が覗き出たのかもしれない。
ユアの頭に警報が鳴り響く。この男は、気づいていると。
「……銀に望まれるのは、」
――――言うな。
左に凄まじい衝撃、ロイトの一振りの剣はその手を離れ、呆気なく地面に突き刺さった。
そして、彼女の瞳には、あの日見たような、剣呑な光であるほの暗い殺意と黒と混合する銀。
「……口を閉じろ、閉じぬなら」
構えが変わる。これ以上はまずいとロイトは本能的に悟った。
けれども、ここで終われない。彼は、ユアの瞳を見る。
鮮烈な殺意の奥にあるのは、何だ。
彼女が距離を詰めようとした瞬間、ロイトの口が動く。
「……あんたは、何がそんなに怖いんだ?」
見開かれる目、彼女は脚を止める。
力が抜けたように、腕を下ろし、構えを解いたユアの顔が伏せられた。
上げられた顔は何処までも無機質で、何も分からない。ただ、強い孤独と悲壮がそこに在った。
「隊長!ディーク付近に魔道士が集まって画策している模様。上から召集がかかっております!!」
突然、破られた、緊張と沈黙。
我に返ったロイトは、兵士に連れられ踵を返すユアの背をただ、只管に見つめた。