一章 漆黒1
一章
小さく舌打ちをしたはずが静かなこの部屋では嫌に大きく響いた気がした。
癖的に指を何度も机に打ちつけながら、彼はその顔が不機嫌に歪んでいくことを止めようともしない。
ロイト・ディレス、司令官の地位をもつ彼は、自分の指揮下で任務失敗の報告が上がったことに、機嫌を損ねていた。
失敗が重要ではない。正規軍がそれを生み出したことに酷く苛立ちを感じるのである。
唐突な人事異動によって北方からこちらに来て、半年、未だに下につくものを覚え切れていない。自身の不精も加わっているが、本当にいきなりだった為、資料等がそろっていないことも原因の1つだろう。
指令を出す前、ざっと書類に目を通したが、あれならば、人員不足であってもぎりぎり成功と出来るはずであった。
それを政府は潰した。
戻った思考に、ロイト再度舌打ちする。
まだ詳しくは、調べていないが、1名、退却の為、犠牲となった者がいたはずである。
別件で大半の兵を取られ、人員不足だというのに、何処までも政府は足を引っ張りたいのだろうか。
「司令官、魔導部隊の報告書です。目を通しておいてください」
近くで書類を整理していた男の声で思考は一旦途切れる。
階級は同じだというのに何時までも変わらない口調にそれがすぐ、11の魔導部隊総隊長兼副司令官を勤めるクルード・ハードライトだと分かった。
手渡された書類の束を事務的に眺めながら、ふと今まで考えていたことの一部を口にする。
「この間の南東砂漠地帯殲滅戦で亡くなったのは誰だった?」
「ユア・レスター、13番部隊隊長です。部下を逃がす為、囮となったと聞きましたが」
ユア。レスター13番部隊隊長。
多大な噂に彩られているが、信憑性が高いのは、その容姿と力を語られる場合のみである。
黒衣を身に纏い、戦場を駆けた後には死体しか残らないと言われついた名が戦場の死神である彼女は、黒曜石を思わせる漆黒の瞳と髪を持ち、群を抜く端正な容姿は見たものの心をも奪うといわれていた。
16で隊長となった彼女は異例中の異例であり、その時のことは彼も鮮明に覚えていた。淡々とその任を背負う彼女は、酷く無感情だったような記憶は、今も頭の中に依然としてこびり付いている。
「……惜しいですね、彼女とは同期でしたが、他とは飛びぬけて強い方だったと思いますよ」
「…………」
返されたそれには微かだが確かに哀惜の思いが込められていた。
この男が惜しいというほどの女。薄っすらと噂だけ知りえている彼女に一瞬の興味を抱く。
とそこで控えめに扉を叩く音が部屋に響き渡る。
人と会う約束をした覚えはない。急ぎであろうか。
「……入れ」
「失礼いたしますわ」
いまや軍内でも、珍しくはなくなった女隊士が中へと入ってきた。
うろ覚えであるが、今回の任務に関わっていた、13部隊のものであろう。
リリス・ブライアン、こちらは軍部では珍しい貴族出身の隊士だと穴だらけの記憶で思った。
「無理を承知でお願いいたしますわ。隊長に援軍を送ってください。彼女であればまだ、死んではおられないと思うのです」
臆しない瞳で、言葉を続けるリリスは、彼女がまだ死んではいないことを心から信じているようだ。
あの数を相手に生き残れるはずがない。それにここで無意味な援軍など人員不足の今、出せる余裕もなかった。
「諦めろ」
「では、わたくし1人でも行きます。許可を」
「それは――――」
「司令官ッ!急報です!!」
会話を遮るよう、飛び込んできた隊士は、敬礼すると息を継ぐ間もなくこう切り出した。
「ユア・レスター13番部隊長、帰還いたしました……!!殲滅も成功したようですっ!」
「なっ……」
驚きが全身を支配する。
殲滅、即ちそれは彼女1人によっての作戦成功を意味していた。
決して人、1人でこなせる任務ではないことは、彼女が囮として残ったということで示されている。
逃走と言う形で任務失敗となったものが成功へと反転した、ユア・レスターという女の力で。
クルードが惜しいというほどの力、けれども何処か釈然としないものを感じたことも確かであった。
日が落ち、闇があたりに満ちた。
廊下をロイトは、真っ直ぐに歩く。真夜中である為、人は誰一人としてその視界に映ることは無い。
数分、その脚を動かした所で広い庭に出た。このまま進めば門があり、そこから外へと出る道に繋がっている。
だが、彼は学園外に出たいわけではない。ただ、ほんの少しの間、その空を見上げたいと思っただけであった。途方も無く広いものは彼に安息を与える。
天を仰ぐと、黒ばかりの色が辺りを覆っていた。月さえも雲で覆われているようで、光は欠片も見当たらない。
ささやかな安息は得られたが、闇だけが広がる空は美しいとは思わなかった。
もう十分だと思い、戻ろうとしてふと一瞬、視線を感じた。同時に殺気をその身に受ける。
ロイトは反射的にその腰にある短剣を抜き去り、背後を振り返った。
迫る刃、彼は何とか持っている唯一の武器でその力を受け流す。
刹那、雲が晴れた。白銀の光に照らされ現れる姿は、今までの雲に覆われた空を写したかのような闇夜の瞳と髪をもつ女。
「……ユア・レスター」
戦場で死んだと思われ、その後、無事帰還したのはまだ真新しい出来事だ。一度その姿を見たいとは思っていたが、
彼女は、彼を見、一瞬その表情を驚きへと変えたがその変化は僅か些細なもの。至近距離でなければ分からないはずだ。
「……司令官が脱走か?」
感情の篭らない淡々とした声。同時にその剣が首下に向かってなぎ払われる。考える間もなく、ロイトの体は長年の癖で避ける動作を行っていた。
「脱走?俺は、空を見に来ただけだ」
もう一度、振り下ろされようとしていた剣がぴたりと止まる。じっとその漆黒の瞳が真意を測るようこちらを覗きこんでいる。
嘘はついていない。切られる理由はないはずだ。
瞳が逸れ、ユアは剣を背にしまう。
「嘘ではないようだ」
そう呟くと、そのまま彼の隣を通りぬけようとした。
「待て」
横を過ぎていく腕をロイトは掴む。
口を開こうとして何故呼び止めたのか分からないことに気づく。視線を逸らして、ふと思ったことを言った。
「……あんた、なんでそんな仕事をやってる?」
脱走を秘密裏に処理や、組織内の暗殺、そして恐らくは諜報も彼女の仕事だろう。
けれどもそれらは全て、罰するに罰せられない特殊な状況下の罪人が担うことになっていた。
その中に彼女の名はあっただろうか。記憶は曖昧で、確かな答えは出せない。
「…………」
返答は無言である。当然だろう。
ただ呼び止めたからには何か言わなければならないと思ったから口にしたまでだ。
彼も答えを欲しているわけではなかった。
しかし唐突に無機質に淡々と彼女の声が紡がれる。
「……私は違うからだ。故に生きる為、仕方ない」
強引に振り払われ、ゆき場の無くした手は、空を虚しく漂うだけだった。
突き刺さるような痛みが、頭に響いた。最近、唐突にそして頻繁に彼女を襲う。
ユアは気だるい体を寝台から起こして、いつもと変わらぬ動作で服を着替えた。
その間も頭痛は収まることはなく、逆に悪化していると錯覚してしまう。原因は分かっているが今はまだ耐えなければならない。
近頃、大きな戦闘の前触れか脱走者抹消の依頼の増加も見られる。常時寝不足であるということも頭痛の一端ともいえるだろう。
欠伸をかみ殺しながらふと、昨夜の出来事を想起した。
早期に決め付けてしまい、彼の前に姿を表したのは失敗であった。上層部であったから良かったものの、そうでなければ殺さなければならないところである。どうも冷静さに欠けた行動が多くなっている気がして、彼女は自身に向けて小さく舌打ちした。
今日は朝から政府を交えての会議がある。上部に位置するユアも出席しなければならない。あまり良好といえない2つの組織間での議論を行ってもまともに進むとは思えないのだが。
私服の上から支給されている丈の長い黒の上着を羽織ると乱暴に脱ぎ捨てた服を、籠に投げ入れ彼女は自室をを後にした。
宿舎の廊下は、起床し始め、活動を行う生徒で騒がしい。
いつもどおりの光景の中、彼女は最上階に位置する会議室に向かおうとした。とその背を追うものがいる。
気配を感じ、振り返った彼女に切羽詰った様子で彼は声を張り上げた。
「レスター13番部隊隊長ですよね!?軍部付近の市で戦闘が勃発しました。どうやら国に紛れ込んだ魔大国の連中のようです!」
「……何故、私に指示を請う?司令官および上層部はどうした?」
「それが会議の前か12階以降、下級隊士は立ち入れないのです。私の部隊の隊長も会議に出席するようで見当たらず……」
ユアは思案する。急ぎ会議室まで向かい現状を報告するか、このまま自身が指揮を執るかである。
数秒、一瞬に彼女は決断を下す。
「おまえは上層部に関与できる人間をこのまま探し、この事を上に伝えろ。私は、13番部隊を連れそこへ向かう」
戦は時間が勝敗を左右する。今、その『時』を少しでも削るのは得策とはいえない。
彼女は、13番部隊に召集を掛けた。
軍は中央、北方、南方、東方、西方の5に分かれている。
大抵軍部内の上層部は、13ある通常部隊と11ある魔導部隊の各部隊長を含め、通常部隊を統率する司令官、魔導部隊を纏める、魔導総隊長、そして三統帥からなる。
その部所により、魔導師の数が違ったりと、特性が存在するが、大抵、軍部内は
上層部を、13ある通常部隊と11ある魔導部隊の各部隊長を含め、通常部隊を統率する司令官、魔導部隊を纏める、魔導総隊長、そして三統帥からなり、多くの末端兵士が残りを占める。
最上位に全ての軍部を統率する最高責任者、軍事部席大総統が在するのだが、滅多に人前に姿を現さない為、その顔はおろか性別すら知っているものは稀である。
何故、そうまでして姿を見せないかは、様々な憶測が飛び交っているが、真実、分からないままであった。
「……であるにして、わが軍部は―――」
ぐだぐだと長い前置きの説明が続く。必要の無い発言とはこうも身に堪えるものなのだろうか。
発言している男は、部隊長の1人であるが、実力でなったとは思えないほどの鈍物だ。恐らく、金と権力を駆使し、何とか上に立ったのだと簡単に想像が付く。
部下に付く人間は、苦労が耐えないだろうと同情しつつ、一度、この軍部全体を洗いなおした方がいいだろうかと思案する。
あの男も、1つや2つ後ろ暗いことが探せば出てくるかもしれない。
彼女、ユア・レスターはまだ来ない。
昨夜のことがあるからだろうか。ロイトの意識は少なからず彼女へと向いていた。
誰も座っていない空席が嫌に目立って、先ほどから何度も視線を向けてしまう。
やっと無駄としかいえない言葉が終わり、発言者が席に付こうとした時、会議室と外を繋ぐ唯一の扉が乱暴に開かれた。
「会議中に何事だ!今は何人たりとも介入は禁止だぞ!!」
「失礼はもとより承知でお伝えしたい事実がございます!
魔大国により、一部の街が襲撃に遭い住民への被害がもみられ、街中は大混乱でございます!!」
その報告は、静粛であった室内を騒然へと塗り替える。その上様々な言葉が飛び交い、何時までたっても重要な指示が出されないままであった。
ロイトは、上層部への失望を改めて募らせながら、困惑する隊士にもっとも重要な事を確認する。
「それで、誰かそこへ向かったのか?」
「はい、レスター13番部隊長が隊員を引き連れ向かわれたそうです」
会議に何時までたっても来ないのは当たり前である。同時にそのような非常事態の中、くだらぬ議論を聞いていた自分を腹立たしく思う
苛立ちのまま、彼は目の前の卓上に思いっきり力を込めたたきつける。
室内に広がる音は、混乱を帯び、迷走する議論を全て飲み込み、静寂を与えた。
「少し黙れ。あんたたちの議論など今、どうでもいいことだ。
それより10番隊隊長リ-ヴェル、至急応援へ向かえ。1部隊だけでは無理が出てくるかもしれない」
「『死神』が出ているのだから私など出て行かなくとも良いだろう?」
不満げというよりも侮蔑を込めた声で彼は、冷ややかにロイトの指令を拒否する。どうやらリーヴェルは、13番隊、否、ユアが気に入らないようだ。
人間関係に気づかず今更に自分の失態に気づき、心で毒づく。何もかも面倒な人事異動なせいだととりあえず矛先をそちらにぶつけ、神経を落ち着かせると目の前の『面倒事』を片付けることにする。
終わったことは仕方ない。もう発言してしまった限りこの男以外に応援を頼めるはずが無い状況である。この発言を撤回すれば、後々下の統率は崩れるだろうと彼は瞬時に分析した。
だが、どう見繕ってもこの男が動くとは思えない。
ならば――――
「リーヴェル、確かに司令官と隊長は同格だよ。俺にあんたを強制させる権限は無い」
瞬間、リーヴェルに勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。しかしそれは、ロイトの次の発言で簡単に崩れ去り瓦解する。
「だが、あんたを隊長から外す権限は俺にあるんだ。
リーヴェル・ラゴスフィア10番隊隊長、これよりその任を解き一兵士へと降格。
加え、1週間の謹慎を命じる。
よって代わりに俺が10番隊の指揮を執る」
「なっ……、ッ!」
怒りで顔を朱に染めながら、何度か口を開け言い返そうとする姿は酷く滑稽だった。宣告し終えた命令は決して覆ることは無い。彼は歯を噛み締めたまま乱暴に席に付く。
ロイトは、リーヴェルを感情の篭らない瞳で一瞥すると、指揮を取るためその場から身を翻した。