表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢の盾 現の剣  作者:
第一章
8/18

七 「悪夢」

 頭痛は治まらなかった。むしろひどくなる一方だった。

 よっぽどひどい顔色をしていたんだろうか。帰宅した後、沙也にもぎょっとされた。

「なにその顔色!……お腹でも痛いの?」

 心配はありがたいけど、的外れだ。僕はキリキリ刺し込むように痛むこめかみを押さえて、ゆっくり首を振った。

「なんでもないよ」

 ソファにカバンを投げ出して、ため息と一緒に答える。体のだるさが誤魔化せなくて、そのままどかりと座りこんだ。ずぶずぶ、体が沈みこんでいく。

 沙也はふうんと呟くと、はいこれ、と一冊の本を差し出した。前に、僕が見た少女漫画の第1巻だ。

 意味がわからなくて、眉を寄せて沙也を見上げた。この漫画が、どうしたんだ?

 沙也の方も、受け取らない僕に不思議そうに首を傾げる。

「あっくん、読みたいんでしょ?」

 何言ってるんだ。だるい腕を持ち上げて、僕はひらひら手を振った。

「いらないよ」

「この間言ってたじゃんか。女の子が、異世界に行くとかどうとか」

 心当たりがあったので、僕はぐっと詰まった。

 杉原さんに「別れよう」と言われた日だ。あの日僕は、ちょっとおかしくなっていたと思う。確かこいつに、「女の子はどのくらいの確率で異世界に行くのか」とか何とか口走ったんだ。


 ――そうだ、あの日、杉原さんは「帰って来た」。

「まぁソレ、おもしろいからさ。読んでみなよ」

 沙也は僕の手に、漫画本を押しつけた。思わず受け取ってしまって、僕はその表紙を見つめた。相変わらず、顔の半分を占めるくらい目の大きい女の子だ。線の細い茶色の髪が、ふんわりなびいている。

「……異世界トリップってさぁ、やっぱ夢だよね、女の子の」

 その言葉に、僕は顔を上げた。頭の後ろで手を組んで、沙也はおどけてにっと笑う。

「夢?」

「うん。だって異世界の冒険だよ、ロマンスだよ。1回やってみたいよねー」

 沙也は照れくささを誤魔化すように、肩をすくめた。

「ま、できるなら、だけど」


 異世界へ旅するのは、女の子の夢なのか。そのことが、僕には軽く衝撃だった。女の子なら皆、憧れるものなんだろうか。非日常への冒険。ここじゃない、どこかへ行くこと。そこで生きること。

 杉原さんも、それを夢見ていたのかな。

 いつの間にか僕は、異世界のことを現実的に考えていた。嘘とか、夢の中のことではなくて、現実にあることとして。

 杉原さんは、本当に行ったんだ。そして帰って来た。僕はもう、今ではそう信じ切っている自分に気付いた。

 昼休みに遭遇した、「悪夢」のせいだ。もう僕は、自分の目で「異世界」を見てしまったのだ。

 疑いの余地はなかった。




 「悪夢」に再び会ったのは、すぐのことだった。そいつはその夜、僕の目の前に現れた。

『悪夢とは夜来るものだ。そうだろう?』

 眠る直前だったから、僕の部屋は電気を全て消して真っ暗だった。「悪夢」の姿は半分闇に溶けて、目ばかりがてらてらと光っている。

 僕はベッドの縁に腰掛けて、静かに「悪夢」を出迎えた。なぜだか、昼間のように驚いて腰を抜かしたりはしなかった。どこかで、そいつがやって来ることを予感していたのかもしれない。ただ単に、眠くて頭が働かないせいもあったけど。

『夜こそ我の領分だ。闇とともに悲劇を運ぶ』

 やはり、耳に障るざらざらした声だった。僕は片膝を抱えるような格好で、魚の形をした「悪夢」をぼんやり見つめた。


 ――これが、異世界の証明だ。

「……どっか行ってくれ」

 僕には小さな声しか出せなかった。薄い壁を隔てた向こうの部屋では、沙也が眠っている。

『お前には道ができた。今我がここから去ろうと、それは変わらない』

 カーテンの隙間からかすかに入る街灯の明かりに、魚の歯がちらりと光った。

『お前は、足がかりになるのだ』

「杉原さんに、何をするつもりなんだ」

 僕は精一杯、「悪夢」を睨みつけた。膝を抱く腕に力が入る。こいつと1人で向かい合っていることに、今になってひどく不安を感じた。

『今こそ、復讐を』

 虹色の尾ひれが、夢見るように揺れた。そのまま音もなく、魚はするりと僕を取り巻いた。ちょうど、昼間と同じように。

『そのために、まずはお前に悪い夢を一つ』

 「悪夢」と目が合う。――息が詰まる。


『あの女は、お前を愛していない。あの女が唯一愛する者は、ここにはいない――「あちら」の騎士だ。』


 戦慄を覚え、僕は目を瞠った。背筋が凍りついた。

 魚は全てを見透かしているかのように、嘲るような薄い笑みを浮かべている。不協和音のような声が、頭に突き刺さる。

『あの女の心は向こうへ渡り、本当の恋に落ちた』

 階段を踏み外したみたいに、心臓が一つ大きく跳ねた。

 ――異世界の冒険だよ、ロマンスだよ。

 沙也の言葉がよみがえる。そうだ、異世界に行った女の子は、冒険をして、恋をする。漫画のあらすじは、確かにそうだった。

 ……杉原さんも?


 聞きたくないと思うのに、僕にはどうすることもできなかった。指先さえ、自由に動かすことができない。目も耳も、この瞬間、全て「悪夢」に捕らえられていた。


『お前と、この世界で、恋人になったのは、――ただの抜け殻だよ』




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ