七 「悪夢」
頭痛は治まらなかった。むしろひどくなる一方だった。
よっぽどひどい顔色をしていたんだろうか。帰宅した後、沙也にもぎょっとされた。
「なにその顔色!……お腹でも痛いの?」
心配はありがたいけど、的外れだ。僕はキリキリ刺し込むように痛むこめかみを押さえて、ゆっくり首を振った。
「なんでもないよ」
ソファにカバンを投げ出して、ため息と一緒に答える。体のだるさが誤魔化せなくて、そのままどかりと座りこんだ。ずぶずぶ、体が沈みこんでいく。
沙也はふうんと呟くと、はいこれ、と一冊の本を差し出した。前に、僕が見た少女漫画の第1巻だ。
意味がわからなくて、眉を寄せて沙也を見上げた。この漫画が、どうしたんだ?
沙也の方も、受け取らない僕に不思議そうに首を傾げる。
「あっくん、読みたいんでしょ?」
何言ってるんだ。だるい腕を持ち上げて、僕はひらひら手を振った。
「いらないよ」
「この間言ってたじゃんか。女の子が、異世界に行くとかどうとか」
心当たりがあったので、僕はぐっと詰まった。
杉原さんに「別れよう」と言われた日だ。あの日僕は、ちょっとおかしくなっていたと思う。確かこいつに、「女の子はどのくらいの確率で異世界に行くのか」とか何とか口走ったんだ。
――そうだ、あの日、杉原さんは「帰って来た」。
「まぁソレ、おもしろいからさ。読んでみなよ」
沙也は僕の手に、漫画本を押しつけた。思わず受け取ってしまって、僕はその表紙を見つめた。相変わらず、顔の半分を占めるくらい目の大きい女の子だ。線の細い茶色の髪が、ふんわりなびいている。
「……異世界トリップってさぁ、やっぱ夢だよね、女の子の」
その言葉に、僕は顔を上げた。頭の後ろで手を組んで、沙也はおどけてにっと笑う。
「夢?」
「うん。だって異世界の冒険だよ、ロマンスだよ。1回やってみたいよねー」
沙也は照れくささを誤魔化すように、肩をすくめた。
「ま、できるなら、だけど」
異世界へ旅するのは、女の子の夢なのか。そのことが、僕には軽く衝撃だった。女の子なら皆、憧れるものなんだろうか。非日常への冒険。ここじゃない、どこかへ行くこと。そこで生きること。
杉原さんも、それを夢見ていたのかな。
いつの間にか僕は、異世界のことを現実的に考えていた。嘘とか、夢の中のことではなくて、現実にあることとして。
杉原さんは、本当に行ったんだ。そして帰って来た。僕はもう、今ではそう信じ切っている自分に気付いた。
昼休みに遭遇した、「悪夢」のせいだ。もう僕は、自分の目で「異世界」を見てしまったのだ。
疑いの余地はなかった。
「悪夢」に再び会ったのは、すぐのことだった。そいつはその夜、僕の目の前に現れた。
『悪夢とは夜来るものだ。そうだろう?』
眠る直前だったから、僕の部屋は電気を全て消して真っ暗だった。「悪夢」の姿は半分闇に溶けて、目ばかりがてらてらと光っている。
僕はベッドの縁に腰掛けて、静かに「悪夢」を出迎えた。なぜだか、昼間のように驚いて腰を抜かしたりはしなかった。どこかで、そいつがやって来ることを予感していたのかもしれない。ただ単に、眠くて頭が働かないせいもあったけど。
『夜こそ我の領分だ。闇とともに悲劇を運ぶ』
やはり、耳に障るざらざらした声だった。僕は片膝を抱えるような格好で、魚の形をした「悪夢」をぼんやり見つめた。
――これが、異世界の証明だ。
「……どっか行ってくれ」
僕には小さな声しか出せなかった。薄い壁を隔てた向こうの部屋では、沙也が眠っている。
『お前には道ができた。今我がここから去ろうと、それは変わらない』
カーテンの隙間からかすかに入る街灯の明かりに、魚の歯がちらりと光った。
『お前は、足がかりになるのだ』
「杉原さんに、何をするつもりなんだ」
僕は精一杯、「悪夢」を睨みつけた。膝を抱く腕に力が入る。こいつと1人で向かい合っていることに、今になってひどく不安を感じた。
『今こそ、復讐を』
虹色の尾ひれが、夢見るように揺れた。そのまま音もなく、魚はするりと僕を取り巻いた。ちょうど、昼間と同じように。
『そのために、まずはお前に悪い夢を一つ』
「悪夢」と目が合う。――息が詰まる。
『あの女は、お前を愛していない。あの女が唯一愛する者は、ここにはいない――「あちら」の騎士だ。』
戦慄を覚え、僕は目を瞠った。背筋が凍りついた。
魚は全てを見透かしているかのように、嘲るような薄い笑みを浮かべている。不協和音のような声が、頭に突き刺さる。
『あの女の心は向こうへ渡り、本当の恋に落ちた』
階段を踏み外したみたいに、心臓が一つ大きく跳ねた。
――異世界の冒険だよ、ロマンスだよ。
沙也の言葉がよみがえる。そうだ、異世界に行った女の子は、冒険をして、恋をする。漫画のあらすじは、確かにそうだった。
……杉原さんも?
聞きたくないと思うのに、僕にはどうすることもできなかった。指先さえ、自由に動かすことができない。目も耳も、この瞬間、全て「悪夢」に捕らえられていた。
『お前と、この世界で、恋人になったのは、――ただの抜け殻だよ』