表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢の盾 現の剣  作者:
第一章
7/18

六 邂逅

 視界の隅で何かが揺れたような気がして、僕ははっと振り向いた。

「杉原さん?」

 彼女がうずくまっているのかと焦ったけど、そこには誰もいなかった。

 画板の積まれた戸棚があるだけだ。安心したような落胆したような気持ちになって、僕は息をはいた。思ったよりも深いため息になった。

 ここには、やっぱりいないみたいだ。僕はうつむいて、のろのろ入口の方に振り返った。他の教室を探そう。



 そして、――ぺたんと、その場に座り込んだ。

 驚きのあまり足から力が抜けるなんて、初めてのことだった。

『お前、あの女のにおいがする』

 半分透けた魚が、目の前に――宙に浮かんでいた。



 ぽかんと口を開けて見上げる僕の前で、魚はゆらゆらと尾ひれを揺らめかせた。泥水に浮かぶ油のようなぬめる光沢を放って、長いひれは一瞬ごとに色を変える。

『我が見えるのか。加護があるということか』

 魚から目が離せないまま、僕は思わず耳を塞いだ。ひどい声だ。頭の中までキンキン響いて、脳みそに針のように刺し込む声だった。

『だが騎士ではないな。お前は何だ』

 魚はぱっくりと口を開けた。とがった歯の奥に、真っ赤な舌がしまいこまれているのが見える。背筋が粟立った。

 こいつは魚じゃない――僕はやっとそう思い至った。魚に似た、薄気味悪い、もっと別の何かだ。

 お前こそ何だと聞きたかった。でも、喉が引き攣って息をするのがやっとだった。

『加護があるとは口惜しい』

 魚はせせら笑った。――確かに笑った。

『あの女以外で、我を見た者は初めてだというのに』

「……杉原さんの」

 喉の奥から、恐怖を押しのけて声が飛び出た。思わず、耳に当てた手が外れる。

 魚は、杉原さんの話をしている。僕はそう確信した。


 それなら、僕はこれの正体を知っている。


「――『悪夢』?」

『ああやはり、わかるのだな』

 魚はすい、と僕に近づいた。宙を泳ぐのに合わせて、周りの空気がさざ波のように震えた。

「そんな……」

 自分の目が信じられない。

 保健室での、うつむいた杉原さんの姿が頭に浮かんだ。

 あの時、話してくれたこと。全部嘘だと思っていたのに。

 目の前の存在が、全てを覆す。眩暈がした。

『お前は、何だ?』

 魚は再び問いかけた。ゆっくりと、値踏みするように僕の周りを回る。

 僕は答えられなかった。頭が真っ白だったのだ。目に映るものを信じたくなくて、思考はとっくに凍結していた。

『あの女の加護を受けるほど、近い人間なのか』

 固まる僕に構わず、魚は続けた。くるくると回るその尾ひれに、僕は取り囲まれた。視界が淀んだ虹色に覆われる。

 逃げられない――僕は息をのんだ。

『お前は足がかりだ』

 正面で、魚はぴたりと止まった。瞼のない、間の離れたその目に見すえられる。揺らめく極彩色を背に、魚の姿が大きく膨らんだかのように見えた。


『あの女の、悪夢の始まりだ』


 魚はくわっと大きく口を開けた。その鋭い歯列に、僕はとっさに腕で顔をかばった。――食われる!


 ――けれど、とがった牙が腕に食い込むことも、頭がひとのみされることもなかった。恐る恐る目を開けた時、そこには何もなかった。

 ただの、狭い空き教室だ。しんと静まり返り、乾いた絵の具と黴のにおいしかしない。あの魚の化け物はどこにもいない。

 夢から覚めたような気分で、僕は立ち上がった。ぼんやり、周りを見回す。

 何が起こったのだろう。たった今まで目にしていたことがひどく遠く、現実感なく感じられた。幻だったのか?夢でも見ていたのだろうか?

 深く息をはいて、両手で顔を覆った。背中が冷たい。ひどく汗をかいているのだと、初めて気付いた。そのくせ、心臓は早鐘を打っている。……それが、夢ではないことの証拠だった。

 あの「悪夢」は、ここにいた。現実だ。



 しばらく、動けなかった。ひどい立ちくらみを起こしたみたいに、目がチカチカした。

 杉原さんはどこだろう。僕がやっとそれを思い出した時、昼休みを終わらせる予鈴が鳴った。特別教室棟の廊下に、わんわんと反響を残して響く。

 それに追い出されるように、僕は教室へ戻った。


 杉原さんは既に教室にいた。カバンから教科書を取り出している様子に、おかしなところはない。僕はほっとした。

 よろよろと席についた時、前に座った吉岡が「なぁ今日、この列当たると思う?」と振り向いた。

 けれど振り向いてすぐ、吉岡は笑いを引っ込めた。

「嶋本、顔が真っ青だぞ!どうした?」

「大丈夫。ちょっと、頭が痛いだけ」

 あまり突っ込まれたくなくて、僕はすばやく答えた。嘘はついていない。

 なんだか、頭が重かった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ