六 邂逅
視界の隅で何かが揺れたような気がして、僕ははっと振り向いた。
「杉原さん?」
彼女がうずくまっているのかと焦ったけど、そこには誰もいなかった。
画板の積まれた戸棚があるだけだ。安心したような落胆したような気持ちになって、僕は息をはいた。思ったよりも深いため息になった。
ここには、やっぱりいないみたいだ。僕はうつむいて、のろのろ入口の方に振り返った。他の教室を探そう。
そして、――ぺたんと、その場に座り込んだ。
驚きのあまり足から力が抜けるなんて、初めてのことだった。
『お前、あの女のにおいがする』
半分透けた魚が、目の前に――宙に浮かんでいた。
ぽかんと口を開けて見上げる僕の前で、魚はゆらゆらと尾ひれを揺らめかせた。泥水に浮かぶ油のようなぬめる光沢を放って、長いひれは一瞬ごとに色を変える。
『我が見えるのか。加護があるということか』
魚から目が離せないまま、僕は思わず耳を塞いだ。ひどい声だ。頭の中までキンキン響いて、脳みそに針のように刺し込む声だった。
『だが騎士ではないな。お前は何だ』
魚はぱっくりと口を開けた。とがった歯の奥に、真っ赤な舌がしまいこまれているのが見える。背筋が粟立った。
こいつは魚じゃない――僕はやっとそう思い至った。魚に似た、薄気味悪い、もっと別の何かだ。
お前こそ何だと聞きたかった。でも、喉が引き攣って息をするのがやっとだった。
『加護があるとは口惜しい』
魚はせせら笑った。――確かに笑った。
『あの女以外で、我を見た者は初めてだというのに』
「……杉原さんの」
喉の奥から、恐怖を押しのけて声が飛び出た。思わず、耳に当てた手が外れる。
魚は、杉原さんの話をしている。僕はそう確信した。
それなら、僕はこれの正体を知っている。
「――『悪夢』?」
『ああやはり、わかるのだな』
魚はすい、と僕に近づいた。宙を泳ぐのに合わせて、周りの空気がさざ波のように震えた。
「そんな……」
自分の目が信じられない。
保健室での、うつむいた杉原さんの姿が頭に浮かんだ。
あの時、話してくれたこと。全部嘘だと思っていたのに。
目の前の存在が、全てを覆す。眩暈がした。
『お前は、何だ?』
魚は再び問いかけた。ゆっくりと、値踏みするように僕の周りを回る。
僕は答えられなかった。頭が真っ白だったのだ。目に映るものを信じたくなくて、思考はとっくに凍結していた。
『あの女の加護を受けるほど、近い人間なのか』
固まる僕に構わず、魚は続けた。くるくると回るその尾ひれに、僕は取り囲まれた。視界が淀んだ虹色に覆われる。
逃げられない――僕は息をのんだ。
『お前は足がかりだ』
正面で、魚はぴたりと止まった。瞼のない、間の離れたその目に見すえられる。揺らめく極彩色を背に、魚の姿が大きく膨らんだかのように見えた。
『あの女の、悪夢の始まりだ』
魚はくわっと大きく口を開けた。その鋭い歯列に、僕はとっさに腕で顔をかばった。――食われる!
――けれど、とがった牙が腕に食い込むことも、頭がひとのみされることもなかった。恐る恐る目を開けた時、そこには何もなかった。
ただの、狭い空き教室だ。しんと静まり返り、乾いた絵の具と黴のにおいしかしない。あの魚の化け物はどこにもいない。
夢から覚めたような気分で、僕は立ち上がった。ぼんやり、周りを見回す。
何が起こったのだろう。たった今まで目にしていたことがひどく遠く、現実感なく感じられた。幻だったのか?夢でも見ていたのだろうか?
深く息をはいて、両手で顔を覆った。背中が冷たい。ひどく汗をかいているのだと、初めて気付いた。そのくせ、心臓は早鐘を打っている。……それが、夢ではないことの証拠だった。
あの「悪夢」は、ここにいた。現実だ。
しばらく、動けなかった。ひどい立ちくらみを起こしたみたいに、目がチカチカした。
杉原さんはどこだろう。僕がやっとそれを思い出した時、昼休みを終わらせる予鈴が鳴った。特別教室棟の廊下に、わんわんと反響を残して響く。
それに追い出されるように、僕は教室へ戻った。
杉原さんは既に教室にいた。カバンから教科書を取り出している様子に、おかしなところはない。僕はほっとした。
よろよろと席についた時、前に座った吉岡が「なぁ今日、この列当たると思う?」と振り向いた。
けれど振り向いてすぐ、吉岡は笑いを引っ込めた。
「嶋本、顔が真っ青だぞ!どうした?」
「大丈夫。ちょっと、頭が痛いだけ」
あまり突っ込まれたくなくて、僕はすばやく答えた。嘘はついていない。
なんだか、頭が重かった。