五 特別教室棟
杉原さんは皆と距離を置いている。僕が出した結論はそれだった。
杉原さんの心が知りたいと思って、昨日一日かけて彼女を観察したのだ。自分でも、気持ち悪い奴だなと思うよ。こっそり杉原さんを目で追って、ふとした表情も見逃さないように気を配って。
でももう、誰に何を言われてもいいや。そんな気分だった。僕は僕なりのけりのつけかたを探すって、決めたんだ。
杉原さんは少し、独りでいることが多くなっていた。ほとんど違和感を覚えないくらい、僅かな変化だ。たぶん、おかしいと思うのは僕くらいだろう。一昨日の「あの時」以前と今の杉原さんを比較できるのは、僕しかいないから。
例えば、杉原さん自身から友達に話しかけに行くことがなかった。休み時間は誰とも話さず、1人で本を読んでいた。選択授業の教室移動も、ゆっくり準備をして友達とはタイミングをずらして、1人で行ったようだ。何気ないことだけど、妙に気になった。
極めつけは、昼休みだ。僕が昼練へ行くより早く、杉原さんは教室を出て行った。弁当も食べずに。
さすがにダメだと思って、後をつけることはしなかった。でも気になるから、昼練に行くのはやめて、ずっと教室にいた。ちょっとした用事なら、すぐに戻ってくるだろうと思って。
でも杉原さんは、5限が始まる直前まで戻ってこなかった。
どこへ行っていたんだろう。昼、ちゃんと食べたんだろうか。
杉原さんはちょっと疲れているように見えるけど、それ以外はいつも通りだ。話しかけられれば笑って返す。授業で当てられたらはきはき答える。
でも、何というか――透明になってしまったみたいだった。存在を薄めて、杉原さんは遠くへ行ってしまった。
誰も、気づいていないけど。
僕は決心した。こうなったら、もう他に方法はない。杉原さんから、直接話を聞くんだ。
ちゃんと、本当のことを言ってほしいと伝えよう。異世界なんかの話じゃなくて、本当は何を考えているのかを。杉原さんは、絶対に何か悩んでいる。
決意とともに学校へ来て、僕は朝からチャンスを探した。授業中もじりじりしながら過ごして、ついに昼休みになった。
昨日と同じように、杉原さんは教室を出て行く。僕は迷わず席を立った。
「――あ、嶋本くん」
彼女に続いて教室を出ようという時に、呼び止められた。委員長の北沢だ。ちょうど同じタイミングで教室を出ようとして、鉢合わせしてしまった。
北沢は眼鏡を押し上げて、しっかり者らしいはきはきした口調で言った。
「ちょうどよかった。嶋本くん合唱部だよね?あのさ、音楽の宗田先生に――」
「ごめん北沢、後でもいいかな」
目で杉原さんを追いながら、僕はうわの空で言った。杉原さんは、廊下をまっすぐ進んでいく。
北沢は僕の視線の先に気付いたようだった。
「……葉月と何かあった?」
首を傾げ、眉を寄せて北沢は言った。ため息を含んだ心配そうな声だった。
「なんだかあの子、元気ないよね」
「――うん」
僕は頷いた。
短く応じただけだけど、内心ではちょっと感動に震えていた。
――僕だけじゃない。気付いている人は、ちゃんといるんだ。
それはとても勇気づけられることだった。杉原さんが皆から遠ざかろうとしていること、僕以外にもわかっている人がいる。僕一人ではないということが、こんなにも心強く、嬉しいことだなんて。
「心配だから、ちょっと一緒に話そうと思って」
杉原さんは廊下の突き当たりを左に曲がっていった。あの先は渡り廊下で、特別教室棟に繋がっている。
「ごめん、行くわ」
「……うん」
気がかりそうな顔をした北沢に軽く手を振って、僕は走った。
すぐ追いつけるはずだった。杉原さんの歩調は決して速くなかったし、特別教室棟までは何もない、ただの廊下だ。昼休みだから人は多いけど、見失う要素なんてなかった。
でも、廊下を曲がってもそこに杉原さんの姿はなかった。
教室の方はがやがやと賑やかだったのに、渡り廊下の先の薄暗い別棟はしんとしている。授業中でもないこの時間、ここに用がある奴なんて普通はいない。授業後には金管バンドの練習場になっている棟だけど、昼の練習は禁止されているらしい。トランペットどころか、物音一つしなかった。
南向きの窓がない特別教室棟はひんやりした空気に沈んでいて、少しの音でもよく響いた。化学実験室や生物準備室、物置になっている教室、どの扉もぴったり閉じられている。杉原さんはどこにいるんだろうか。
虱潰しに一つずつ入って確かめようか考えていた僕の耳に、かすかな音が聞こえた。
話し声のようにも聞こえて、僕はどきりとした。息を殺して、耳をそばだてる。
けれどそれきり、音は聞こえてこなかった。
もうヤケクソだ。僕は1番近い教室の扉を、勢いよく開けた。鍵はかかっていなかった。
「――杉原さん?」
耳が痛くなる静けさに負けないよう、僕はわざと大きな声を出した。
そこは、美術の準備室のようだった。選択で美術を取っていない僕には、初めて入る教室だ。つんと、ほこりの淀んだにおいが鼻をつく。普通教室の半分くらいの広さで、絵を乾かす棚や石膏の入ったケースが並べてあって、ずいぶん狭く見えた。
ゆっくり見回してみても、探している人の姿はなかった。
「いないか……」
呟きながら、僕は念のため中へ入った。気配はなかったけど、この教室には死角になりそうなところが多かったから。奥まで入って確かめようと思った。
そして、それに会った。