四 杉原さんの心
最悪な気分というのは、一晩寝たくらいじゃ浮上しなかった。
それでも飯は食うし、学校にも行く。授業を聞いて、友達と話す。習慣って強いな、と思った。たぶんいつも通りにできたはずだ。
いつもと違うのは、何をしても他人事にしか感じないことだった。薄い膜ごしに、普段の生活というものを眺めているみたいだった。
杉原さんの方は完璧にいつも通りに見えた。真面目に授業を受ける横顔も、友達と楽しそうに話している笑顔も。
僕に対してでさえ、彼女は変わらなかった。朝一番に昇降口で、「おはよう」と声をかけてきてくれたのだ。不意をつかれて僕が何も返せないうちに、杉原さんは歩いていってしまったけど。
その後も、杉原さんは僕を変に避けたり、気まずく目をそらしたりしなかった。目が合わせられなかったのは僕の方だ。杉原さんのことが、全然わからなかった。
そんないつも通りでも、僕と杉原さんが別れたというウワサは流れたようだった。一日でどうして話が広まるのか、ソースは誰なのかは知らない。僕は友達の何人かから、「お前別れたって本当か?」と聞かれただけだ。その度に、曖昧に返しておいた。
もしかしたら、昼を一緒に食べなかったことが、ウワサに拍車をかけたのかもしれない。つき合ってから、大抵昼は一緒にいたから。
逃げたのはもちろん僕の方だ。3限が終わった後に早弁して、昼休みは自由参加の合唱部の昼練に、久しぶりに出た。昼練は和志の、同情を含んだ眼差しが本気で鬱陶しかった。
いつも通りの振る舞いができたのは6限までだった。部活では2日連続で、赤川さんに怒られた。
赤川さんはとても鋭い。歌っている時にぼんやりしていたり、他のことを考えていたりすると、すぐにバレる。彼女はふっくら丸い顔をしてるけど、睨む目が厳しくて迫力があるんだ。
「嶋本くん、集中してないようね」
赤川さんの地声は少し高い。歌う時はのびやかなアルトだけど、普段、特に僕みたいなのに怒る時は、硬質な冷たい声になる。僕は項垂れて、精一杯小さくなった。
「……ごめん」
「パーリーの自覚ないの?もし調子が悪いなら、帰った方がいいんじゃない?」
確かに今日は帰った方が、僕と赤川さん双方のためになると思った。パーリーとしてあるまじき考えかもしれないけど、僕としてももう無理だった。
「そうする」
僕はあっさりと合唱台から降りた。
あっけにとられたような赤川さんを横目に、荷物を持って第二音楽室を出る。扉を閉めた途端、中で皆が騒然となるのがわかった。
「赤川、お前な、あいつの気持ちも酌んでやれよ」
和志の非難するような声が聞こえた。あいつ、変な友情にかられて、余計なことしゃべらないといいけど。
日の当たらない、ひんやりした階段を下りていく。一段一段、沈み込んでいくようだった。部活もいい加減にしてしまうくらい、僕は最低でぐちゃぐちゃだった。
校門の前で会えたのは偶然で、奇跡みたいなものだった。誓って、見計らったりなんかしていない。
下駄箱のところでは全然気づかなかった。校門を出る直前、ふと顔を上げた時にわかったんだ。すぐ前を歩いているのは杉原さんだった。
ぽかんとする僕を、杉原さんが不意に振り返った。一拍遅れて、彼女も目を丸くする。そしてふっと笑った。
「早いね。部活終わった?」
僕は曖昧に頷いた。なぜか久しぶりに杉原さんの顔を見た気がして、目が離せなかった。
自然な流れで、僕たちは並んで歩き出した。今日一緒に帰るなんて思ってもみなかったことなのに、お互いが隣にいることに全然違和感がなかった。歩くスピードも無理なく合わせられる。あまりにも、いつもの帰り道だった。
「――なんかね、図書室ではっとしちゃった。私自習してるんじゃなくて、待ってるんだ、って思って。バカだね」
杉原さんはくしゃっと、苦笑気味に笑った。待った相手は僕だと、ちゃんとわかった。
そうだ。僕の部活が終わるまで、杉原さんはいつも大抵図書室にいた。杉原さんは帰宅部だから、僕に合わせてくれていたんだ。嫌な顔もせずに。
じんとしたけど、同時に、もう僕を待ってくれることはないんだとわかってしまった。
だって今は、部活が終わる正規の時間よりずっと早い。もう待たなくていいんだと気づいて、杉原さんは図書室を出てきたんだろう。
ショックが顔に出たんだろうか。杉原さんが心配そうな表情で僕を覗き込んだ。
「新くん、目の下にクマができてる。体調悪い?なんか、疲れてるっていうか――」
言いかけて、杉原さんは目を伏せた。
「っていうか、私のせいだよね」
「いや、僕は別に体調崩したとかじゃないから、心配しないで。杉原さんこそ顔色悪いけど、平気?」
僕は慌てて言った。単なる寝不足だ。まぁ、原因は杉原さんだけど。でも心配かけたくないし、変に自分を責めてほしくなかった。
そして、言ってから改めて気づいた。杉原さんの顔色が悪い。
「――本当に、大丈夫?」
逆に心配になって問いかけた。杉原さんはいつも通りだと思っていたから、見落としていたんだ。明らかに彼女の顔には血の気がなかった。寝不足のクマどころの話じゃない。
それでも、杉原さんは微笑んだ。
「ありがとう。でも大丈夫。ちょっと、眠れなかっただけだから」
やんわりと拒まれた。そんな気がした。僕はもう無関係なのだと。
それから、これまでの帰り道と同じように、駅のホームで僕たちは別れた。向かう方向が反対なんだ。
音楽と共に閉まった扉の向こう、手を振る杉原さんを見送った。人混みに紛れる彼女も、彼女を乗せた電車もゆっくりと動き出して、すぐに見えなくなった。
杉原さんはやっぱり、無理して笑っていた。僕にはどうしてもそう思えた。どうして眠れなかったんだろう。どうして、がんばって笑顔をつくったんだろう。
僕は初めて、杉原さんの気持ちのことを考えた。
僕の気持ちだけで手一杯なのは、今も変わらない。けど、彼女の方は「別れよう」と言った時、何を思っていたんだろう。そして今、どんな思いでいるのだろう。
青白い杉原さんの顔を見て、僕はやっと彼女の心に目が向いた。それを知らなきゃダメだと思った。