三 嘘
混乱しきって鬱鬱とした気分のまま、僕はやっと家に帰ってきた。
いつもより重く感じる扉を開けると、テレビのバカ笑いが玄関にまで響いてきた。こちらの気分などお構いなしのその大音量が、ひどく癇に障った。沙也の奴が、また消し忘れたんだ。
リビングのテーブルの上には、開いて伏せたマンガと、お茶の入ったコップが出しっぱなしになっていた。だらしない妹だ。沙也はちょっと頭がいいけど、こういうところは本当にダメだ。
イライラしながら、テレビを消してコップを流しにおく。鉛みたいな重さのため息が出た。どうして僕がやらなきゃいけないんだ。今、とても物に八つ当たりしたい。このマンガを壁に叩きつけてやりたい。
そんなことを半分本気で思いながら、沙也のマンガを手にとった。
ピンク色の表紙には、バンダナを巻いた目の大きな女の子が、妖精みたいな生き物を肩に乗せて笑っていた。見たことのないようなその服装に、僕はまさかと思って表紙をめくった。
あらすじをなぞると思った通り、それは異世界へ冒険の旅に出た女の子の物語だった。
7つの海を旅して、伝説の秘宝を探す。不思議な石の力で妖精を仲間にする。わけあって海賊になった王子様と、恋に落ちる――。
甘く危険な旅の物語に、僕は興味なんかない。でも、その続きが知りたいと思った。
――異世界へ行った女の子は、帰ってきてどうなった?
「なにしてるの?そんな、制服着たまんまで」
すぐそばで沙也の声がして、僕はぎょっとした。ジャージ姿の沙也が、テーブルに手をついて、僕の顔を覗き込んでいた。首を傾げて、訝しげに眉をひそめている。
「あ、いや……別に」
近づかれたことに、全然気付かなかった。どぎまぎして、僕は即座にマンガを沙也に返した。いつの間にか、食い入るようにマンガにのめり込んでいたらしい。
「そんな真剣になるくらい面白かった?何なら貸そうか。あっくんって、そういうの好きだったっけ」
「いや、いいよ」
手を振って断ると、沙也は片眉を上げてふうん、と呟いた。そのまま興味が失せたように、くるりと背中を向けて部屋へ戻っていく。
ふと、言葉が口をついて出た。
「――なぁ、女の子って、どのくらいの確率で異世界へ行くもんなの?」
「はぁ?」
語尾をはね上げて、沙也が振り向いた。
沙也は驚きすぎて笑うのを失敗したような、微妙な顔をしていた。何も言われなかったけど、沙也の言いたいことがわかる気がした。
僕だって、寝言だと思うだろう。
「いや……なんでもない」
沙也の顔を見ないようにしながら、早足で自分の部屋に向かった。もの問いたげな沙也の視線が追ってくるのがわかった。
自分の部屋がこの世で一番安全な場所のように思えた。だって僕以外誰もいない。スイッチを切るように、そのままベッドの上へ倒れ込んだ。
頭がガンガン痛む。閉じた瞼の裏で、いろんなイメージがらせんを描いて浮かんでは消えた。保健室の杉原さん、落ちていく僕。揺らぐ水面のような杉原さんの目。
告白した日の真っ赤な顔。初めて一緒に帰ったときの揺れる手。
あと、花火大会の夜の――。
「……心がいなかったなんて、嘘だろ」
目を開けて、泡みたいな幻を追い払った。
全部嘘、なのかもしれない。それが一番説明のつく答えだ、残念ながら。
つまり別の世界の話は真っ赤な嘘で、杉原さんは僕と別れたいがためにすべてをでっち上げた。その場合、あの涙も真剣な表情も、芝居だったことになる。
一番おかしいところのない、救いようのない痛い答えだ。
でもまだ、こっちの方がましだった。
「嘘だよな……」
呟きは思った以上に情けなく、頼み込むような響きになった。
一番痛いのは、話が本当だった場合の方だ。
未だに全く信じられないけど、異世界の話がもし本当だったら。
僕は僕の心を、否定されたも同然だった。そうだろう?僕は心が不在の杉原さんを好きになって、告白して、一緒にいて喜んだりして。馬鹿みたいだ、いや本当の馬鹿だ。
もし杉原さんの話が本当なら、僕の心が嘘だったってことになる。好きだと思ったこともドキドキしたことも笑顔が嬉しかったことも、全部嘘。だってその対象の杉原さんは、本物の杉原さんじゃなかったんだから。そこに心はなかったんだから。
だから認められなかった。
どっちに転んでも最悪だった。嘘なのか本当なのか、もう関係ない。一番逃げたい事実が覆らない。
僕はふられたんだ。