一 保健室
僕たちはそれから保健室へ行った。
杉原さんの涙を中西に見つかって、ちょっとうるさくなりそうだったから。
嶋本が、葉月を泣かした――。
あの場面を見れば確かに、誰だってそう思ってしまうだろう。男女が向かい合って飯を食っていて、女の子が泣き出したら、9割がた男が悪い。それは間違いじゃない。中西はちょっとうるさいけど、正義感がある奴だから、杉原さんを心配したんだと思う。
もちろん本当は全然違うから、中西の責める視線に僕は慌てた。杉原さんがとっさに「違うの、ちょっと体調が悪くて」と言ったので、僕たちは教室を抜け出すことができた。中西はかなり、不審そうな目をしていたけど。
保健室の椅子に座った杉原さんは、もう落ち着いていた。給水機から水をついで渡すと、小さくありがとうと言ってくれた。
「大丈夫?」
僕が聞くと、杉原さんは微笑んで頷いた。
「嶋本……新くん?」
「うん」
確認するように呼ばれたので、ちょっと不安になった。
「僕のこと、わかる?」
「うん」
杉原さんはすぐに頷いて、そのことに自分でも驚いたように瞬いた。
「うん……私、わかる」
よかった。僕は心底ほっとした。
普通なら、今の今まで目の前にいた人のことがわからなくなるなんて、ありえない。冗談だと思うかもしれないけど、僕は結構本気で不安だった。ついさっきの杉原さんを見てしまったから。
何が起こったのかよくわからないけれど、何かが起こったことは確かなんだ。
「あのさ……私たち、つき合ってるんだよね」
杉原さんは両手でコップを持って、上目遣いに僕を見た。
すごく可愛かったし、ほっとしていたこともあって、僕はおどけて答えた。
「うん。まさか忘れてないよね?夏休みのちょっと前からつき合ってるよ」
「……覚えてるよ」
杉原さんは目を伏せた。様子がおかしいな、とは思った。でもしっかり確認しておきたいところだったので、僕は笑って続けた。
「よかったー。あの告白の時に振り絞った勇気が、なかったことになるかと思った。7月の頭くらいだったよね、覚えてる?部活前に僕が呼び出して、それで――」
「嶋本くん」
杉原さんが鋭く遮った。
その呼びかけからして、もうおかしかった。だって、彼女は僕のことを「新くん」と呼んでくれていたから。それは僕の努力の賜物だ。告白してつき合う前、ちょっといいなって思っていた時から、名前で呼んでってお願いしてきた。仲良くなって緊張がほぐれて、やっと呼んでくれるようになったんだ。
杉原さんのことを名前で呼びたいってお願いは却下されたけど、僕の名前は呼んでくれていた。
杉原さんは顔を上げた。きっぱりと強い目をしていて、僕は悪い予感しかしなかった。
「ごめんなさい。こんなこと、いきなりかもしれないけど……」
僕は杉原さんの桜色の、可愛い唇を見つめていた。そこから出る次の言葉を予想して、なぜだかぼんやりとしていた。
「別れよう、私たち」
予想通り。それでも、僕は冷たい水をぶっかけられたみたいに、身体の芯が冷えてずんと沈んだ。茫然としてしまうくらいショックだった。
いきなり、確かにいきなりだ。僕たちはまさに今まで、問題なくつき合っていたはずだ。昼飯を一緒に食べて、部活終わったら一緒に帰って。夏休みには夏期講習の合間をぬって、映画に行ったり花火に行ったりしたぞ。別れる要因なんて、僕には見当たらない。
「……理由、聞いてもいいかな」
別れるなんて絶対嫌だ。そう喚く心を押し殺して、僕は尋ねた。
杉原さんの顔が、悲しげに歪んだ。泣き出しそうに見えて、僕ははっと胸をつかれた。
けど、杉原さんは泣かなかった。膝上においた手をぎゅっと握って、一度大きく深呼吸をする。そうして、僕をしっかりと見た。
「嶋本くんには、全部話す。そうしなきゃ駄目だと思う。でも、信じるか信じないかは、嶋本くんが決めていいよ」
「うん」
僕はちらりと目を上げて時計を見た。昼休みはあと15分くらい。もし長くかかるなら、5限をサボってもいいや。覚悟を決めて、僕はパイプ椅子に座って杉原さんに向き合った。
「ありがとう、嶋本くん。私ね――」
杉原さんが話し始める。僕はちょっと手をあげて、それを遮った。話を聞く前に、一つだけ言わなきゃいけないことがあった。
「あのさ、名前、新でいいよ。新って呼んでよ」
「――うん」
杉原さんは笑った。もう少しで泣き顔に変わりそうな微笑みだった。