三 声
午後最初に受ける数学の授業は、途方もなく眠い。満腹状態で、窓から気持ちの良い日差しがさしこみ、おまけに教科書が何を言っているかわからないとなればなおさらだ。僕はあくびをこらえながら、先生が黒板にさらさらと書いていく数式をぼんやり見つめた。
「――で、この関数f(x)の積分は……」
数学の藤木先生の声は、ぼそぼそとこもっていて聞き取りづらい。こちらを振り向きもせず、ただひたすら黒板と向かい合っているので、僕らに教えているというよりは独り言に近かった。
襲う眠気に負けて何人もの頭が沈んでいるのが、僕の席からはよく見えた。前の席の吉岡も、早々に撃沈している。僕だって、やっとのところで踏みとどまっているのだ。いつ睡眠学習者の仲間入りをしても、おかしくない。
眠気を飛ばすために、軽く頭を振った。すぐにふわふわと遠のきそうになる思考を、何とか手繰り寄せる。
呪文のようにわけがわからない数式は、もう無視して、何か別のことを考えることにした。そうすれば、眠くなくなるはずだ。
別の考えることといえば、僕には1つしかなかった。――剣のことだ。
「悪夢」のいない今でも剣が出せるのだと知って、僕はあれから家で、いろいろと検証してみた。そうして少しだけ、感覚が掴めたような気がする。
頭の中に、スイッチがあるようなイメージだ。辛抱強くそれを押して、剣を握った時の感触を思い浮かべる。あとは強く、念じるのみだ。
何度かやってみたけど、目を閉じてやるとやりやすいような気がする。イメージに集中しやすいからだ。長い時間ひたすら何かを念じるのは、結構疲れることなのだと、僕はこの頃知った。目を閉じれば、集中する分その時間が短くてすむ。
スイッチになっているのは、もちろん、杉原さんのことだ。
思い出とか、感触とか、具体的な何かを思い出すわけじゃないけど、彼女のことを考える。その瞬間は、甘さも苦さもないまぜになったような、不思議な気分になった。
僕は杉原さんのことがもちろん好きだけど、彼女によって喚起される感情は、もう純粋に「好き」というだけじゃないのだろう。そう、気づかされた。もっと色づいていて、生々しくて、ちらりと裏返して見れば、黒くて嫌なものも確かにある。そんな「好き」なんだ。
だからスイッチを押す時は、慎重になる。痛む歯を舌先で探るみたいに、そっと、時間をかける。自分の生々しい感情と向き合うのは、僕にとっては結構、怖いことだった。
「――……」
初め、僕はその声に気づかなかった。
聞き取りづらい藤木先生の声にまぎれて、プツプツとラジオのノイズのような音がした。割と近くから聞こえたけれど、誰かの携帯のバイブか何かだろうと思って、大して気にも留めなかった。
でもその音は、なかなか止まなかった。いや、ふっと途切れたり、また聞こえたりと、明らかに携帯の音とは様子が違っていた。そしてどうやら、人の声のようだった。
不審に思って、僕は周りを見回した。僕の席の周りには、机に突っ伏して完全に寝ている奴と、うとうと舟を漕いでいる奴、かろうじて授業にしがみついている奴ばかりだ。テレビをつけたり、ラジオを聞いていたりするような奴なんて、どこにもいない。
声の発生源を追って、ふと僕は手元に目を落とした。――そして、思わず叫びそうになった。
「――!」
のけぞった拍子に、ガタンと椅子が大きな音をたてた。
教壇に立つ先生が、怪訝そうな顔で振り返る。うとうと夢の世界に片足を突っ込んでいた連中も、ぎょっとした顔で僕を見た。
「何だ嶋本、どうした」
藤木先生が、平坦な声で聞いた。
「いや……何でもないです」
早口で答えて、僕はさっと足を組んだ。背中を丸めて、腕でかばうようにしながら、右手を隠す。
――なぜか、僕は剣を握っていた。
ぼーっと考えていたら、うっかり頭の中のスイッチを押してしまったようだ。まさか授業中に、こんなものを出してしまうなんて。信じられない思いで、一気に冷や汗が出た。
この剣は、他の人にも見えてしまうものなんだろうか。ひょっとして、見つかったら銃刀法だとか、危険物所持だとかの罪に問われてしまうんじゃないだろうか。
焦ってしまって、上手い切り抜けかたがわからない。机に突っ伏すくらい身を低くして、僕は引きつった笑いを浮かべた。
笑って誤魔化せないだろうか。
「……腹でも痛いのか?」
藤木先生は不審そうに眉をひそめた。
「ええ、まぁ……ちょっと」
僕は曖昧に濁した。腹を押さえているような格好だから、腹痛を起こしているように見えるのだろう。そういうことにして誤魔化してもいいのだけど、「じゃあ保健室に行け」と言われたら、一番困る。こんなものを持っていたら、立ち上がれない。
頭の中で毒づきながら、早く消えろと何度も念じた。藤木先生は、じいっと問うような視線で見つめてくる。足に挟んで隠している剣を見咎められるのが怖くて、僕はその視線を、息をつめて受け止めた。
けれど先生はすぐに、すっと興味を失ったように目をそらした。
「……授業中は、静かにするように」
ぼそっと、なおざりな注意をされる。恥ずかしくて頬が熱くなったけど、僕はほっとした。どうやら、見つからずにすんだようだ。
再び先生が黒板に向き直ったのを確かめて、僕はそっと手元を見下ろした。あの厄介な剣は、もうなかった。
深いため息をついて、こっそり汗をぬぐう。ひとまずこの場は乗り切ることができた。――でも、気がかりなことが残っていた。
かすかに聞こえた、あの声。あれは確かに、剣から聞こえていた。
一体、何の声だったんだろう。