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夢の盾 現の剣  作者:
第二章
15/18

一 テンポ

「なんか、テンポ早くない?」

 ヒロの声がして、僕はキーボードを弾く手を止めた。


 男声パートの練習部屋は、1年生の普通教室だ。机を教室の前半分に寄せて、テノールとバスの男共合わせて9人でずらりと並ぶ。パートリーダーの僕だけ、前に立ってたまにキーボードで音を追いつつ、皆の歌を聞いていた。すっと姿勢よく立つ男子に囲まれるのは、正直あまり心穏やかな状況じゃない。でも、的確な指摘もアドバイスもできないけど、こうやって練習をコントロールするのがパーリーの役目なのだ。

 思わず手を止めた僕につられて、歌声もうやむやに消えた。ヒロはニヤッと笑って、困惑気味の男声一同を見回した。

「さっきの16分音符のところ、みんないつも走るんだよ」

「つーか、今のは新が早いんじゃないか?」

 和志が首を傾げて指摘する。僕はどきっとした。

 僕のせい、と言われたのもあるけど、そもそも走っていることにも気付かなかったからだ。

「ちょっと待って」

 慌てて僕はメトロノームを引き寄せた。去年買ったばかりの、まだ傷もない黒いメトロノームだ。針を合わせて動かすと、つるりときれいな外見通りに、狂いなく指定のテンポを刻んだ。


 明らかに、僕はこれより早いテンポでキーボードを弾いていた。練習中にぼんやりしてしまっていたけど、それはわかる。ヒロと和志をはじめ、皆が――特にテノールの連中がどっと笑った。

「しっかりしてくださいよ、パートリーダー」

「なんかさぁ、新、最近ノッてないよね」

 気まずくて、僕は頭をかいた。冗談まじりに、名ばかりパーリーの実力のなさを責められた気がした。ヒロが軽く笑ってひょいと肩をすくめる。

 合唱部にあるまじき、足が長くてぐっと締まった体つきのヒロは、そういう仕草が良く似合った。実際こいつは運動部ばりにスポーツが得意だし、顔もいい。どうして合唱部に入ったのか不思議なくらいだ。合唱部女子の少なくとも半分は、気のないふりをして実はヒロのファンなのだと、僕は知っている。

「俺さぁ、前から思ってたけど」

 ヒロは持っていた楽譜を丸めて、僕に向けた。

「新って、なんかいいことあると、テンポ早くなるよね」

「えっ、それマジで?」

 和志が勢いよく声を上げて、身を乗り出した。キンと耳を刺すうるささに、僕は顔を顰めた。

「嘘だろ。和志、楽譜を放り投げるな」

 ぴしゃりとそう断じて切り上げようとしても、ヒロはニヤニヤ笑いをやめなかった。

「いやいや、マジで。夏休み前だっけ、赤川にすげー怒られてただろ。あの時そう思ったもん」

「夏休み前?」

 和志がきょとんと聞き返す。

 真面目な練習が、完全にくだけた雑談モードになってしまったようだ。割といつものことだけど、僕はこっそりとため息をついた。こういうところを、赤川さんに怒られるのに。

「そ、新が彼女と付き合いだしてすぐの時」

 さらりとヒロが言った。


 途端に、皆が気まずそうな苦い顔になった。和志でさえぴたりと黙る。彼女、という言葉が今の僕にとってどれだけのダメージになるのか、恐る恐る窺うような視線を向けてきた。

 その反応で、合唱部内にどれだけ僕の恋愛事情が広まっているのかが、よくわかる。詳しいことは知らなくても、ふられたという結果だけは全員把握しているらしかった。好き勝手ウワサしないのはありがたいけど、気づかうような視線は、うっとおしいばかりだ。

 けれどヒロはそれでも、自信ありげだった。

「俺、見たんだよね。昨日新が例の彼女と、図書館棟の脇にいたとこ」


 さっきより強く、どきっとした。まさか、見られていたなんて。

「マジかよ!」

 和志が裏返った声で叫んで、男声パート部屋はにわかに騒がしくなった。

 僕が静止の声を上げるより早く、ヒロは皆に聞かせるかのように、得意げに声を張り上げた。

「真面目な顔して話しこんでた。でも険悪そうな雰囲気じゃなかったから、仲直りしたんだと思ったんだけど?」

「おい、練習中なんだから、無駄話やめろよ」

 焦って割って入ったけど、遅すぎた。めったにないパーリーらしい発言だったのに、すっぱりときれいに無視された。

「やるじゃん新、ちょっと見直した」

「結局どうなってんの?元サヤなわけ?」

「ついこの間、早退までした奴が――」

 口ぐちに、あれこれと言ってくる。合唱部の男子が、個人的な恋愛話にこんなに食いつくとは思っていなかった。

 好みとかアイドルとかの話ならともかく、誰かの具体的な話なんて、普段あまりしないのに。彼女持ちの奴も少ないし、あまり生々しい話をするのは、みんな好きじゃないんだと勝手に思っていた。……思い違いだったみたいだ。

 収拾のつかなくなった騒ぎに途方に暮れて、僕は煽った当人のヒロを睨んだ。


「――おい、テノール共。いい加減にしろ」

 むっつりと地を這う低い声が、不機嫌に割って入った。

 騒ぎの中心だったお調子者のテノールを、それだけで黙らせるのだからすごい。僕とは比べ物にならない重々しい力をもったその声は、森のものだ。今の騒ぎにも一切参加しない、筋金入りの堅物。いっそ潔いほどファッション性を無視した丸眼鏡を持ち上げて、森はぴしゃりと言った。

「無駄口を叩くな、練習中だ」

 体は小柄なのに、森の声は太くて豊かなバスで、実力は合唱部一だ。上手いだけじゃなく練習態度も真剣で皆から一目置かれていて、だから発言に重みがある。


 男声全体とテノールのリーダーは僕だけど、バスのリーダーは森が担っている。パーリーになってもおかしくないどころか、明らかに適任と思われる森だけど、そうならなかったのはちょっときつい性格をしているからだった。妥協せず音楽を追求していく姿勢は尊敬するほど素晴らしいけれど、こだわりが強すぎて、ついていけないと感じる人と衝突してしまうことがある。だから一つ上の先輩から、パートリーダーの指名がきたのは僕だった。

 森の一声で、和志も他の奴らも冷静になったようだった。咳払いをして、姿勢を正す。パート練習の最中だったと、全員が気付いたらしい。

 ヒロがまた小さく肩をすくめて、ニヤリと悪ガキのような笑みを向けてくる。ついでに森にも睨まれて、僕は慌てて練習を再開した。



 テンポを意識しつつキーボードを弾きながら、僕は内心舌を巻く思いだった。

 ――新って、なんかいいことあると、テンポ早くなるよね。

 ヒロはノリが軽いけど、人をよく見ている。あとで根掘り葉掘り聞かれた時にどう答えようか、僕は真剣に考え込んでしまった。



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