十三 銀の剣
ぎゅっと目をつむって身を固くする僕が、まず思い出したのはにおいだった。
真っ暗な闇の中に、まるで白い手が優しく差しのべられたかのようだった。甘いにおい。覚えのある、温かいにおい。
これは、何だっただろう。僕は夢中で、そのにおいの記憶をたぐりよせた。藁にでも何でも、すがりたい気分だった。この「悪夢」から、逃れられるなら。
――白いマグカップ。温かい湯気。甘い、蜂蜜が多すぎるんだ。
やっとにおいも味も思い出して、思わず肩の力がすとんと抜けた。
ああ、これはホットミルクだ。
眠れなかった夜に、沙也がつくってくれたやつ。甘ったるかったけど、僕は全部飲んだんだった。
――ただ牛乳を温めただけなのにね。不思議だよね。
あの時の、沙也の声がよみがえる。
本当に、不思議だった。ただの飲み物なのに、まるで万能薬のようだったから。不安や恐れを安らぎに変えて、眠れない夜を打ち破ったのだ。効果抜群、特製ブレンド。沙也の言うとおり、あれはすごかった。
あの夜、「悪夢」はやって来なかったのだから。
僕は目を開いた。視界を覆った毒々しい色は、消え失せていた。
『馬鹿な――』
呆然としたような、「悪夢」のうめき声がした。
急にもとの色と形を取り戻した視界に、僕自身とても戸惑った。何度も、瞬きを繰り返す。何もおかしなところのない、いつもの正常な世界が、こんなにも安心するものだとは思わなかった。
目を慣らすために、周りを見回す。僕のすぐ横に、魚は浮かんでいた。ぽかんと、力なく口を開けている。なぜか魚の姿が、急に小さくなったように感じた。
「すごい……」
杉原さんも驚いたように、何度も瞬いた。宙に浮く「悪夢」と僕を見比べて、呆然と問いかけてきた。
「今、どうやってやったの?」
「いや……さぁ」
僕は首を傾げるしかない。
今、僕は何かをしたのだろうか?目を閉じていたから、全然わからない。ただ縮こまって、ホットミルクのことを思い出していただけだ。唯一僕が、「悪夢」を遠ざけた夜のことを。
見える景色は元に戻ったけど、手の中の剣は相変わらず、へばりついて離れなかった。それに目を落として、もう一度何とか手を開こうと試みる。正常な世界で見る剣は、その異様さが際立っていた。「悪夢」の剣なのだと、はっきりわかる。
『ふざけるな!』
耳をつんざくような罵声を吐き、「悪夢」は牙をむき出しにした。
『この男の加護はそれほど強くなかったはずだ。何をした?力を隠していたのか!』
「……私じゃないわ」
杉原さんはゆるゆると首を振った。
「私は何もしてない。もう、何の力もないから」
淡々とした口調だった。悔しさも悲しさも読みとれない。拳をぐっと握り締めて、杉原さんはただ静かな表情で、「悪夢」に向かい合っていた。
対する魚は激昂していた。体が攻撃的に膨れ上がり、わめく声は金属を引っ掻いたようにかん高い。
『今更、命が惜しくなったのか?我を謀ったか。罰を受け入れると言ったのは、偽りだったのか!』
「言った。それは嘘じゃない」
杉原さんはきっぱりと言い切った。
「でもお前は、新くんを巻き込んだ。それは許せない。……私のところだけに来ればよかったのに」
なぜか彼女の口調は、「悪夢」を責めるようだった。
「私だけにとり憑いていたなら、あのままお前の望み通りだったよ。私は邪魔しなかった。私だけなら――」
「ちょ、ちょっと待って」
僕は慌てて割って入った。とても黙って聞いていられなかった。
「悪夢」と杉原さんが何を話しているのか、全然わからない。わからないけど、聞き捨てならなかった。
「……どういうこと?」
僕は杉原さんをじっと見つめた。その静かな表情に、彼女の心のヒントが映りこまないか、必死で探る。
「『悪夢』の望み通りって、何?」
焦りを感じて、僕は重ねて聞いた。
僕が「悪夢」に遭遇する前のことが、頭にフラッシュバックする。
あの時、杉原さんは元気がなかった。顔色が悪くて、みんなを避けていた。まるで存在が薄くなって、遠くへ行ってしまうかのようだった。
僕は、杉原さんがどんどん透明になっていくみたいで、怖かったんだ。
「――杉原さんは、消えたいの?」
あの時、「悪夢」が僕にねらいをつける前、杉原さんの方を訪れていたのだとしたら。そしてそれを、杉原さん自身が受け入れていたのだとしたら。
それが、元気のなかった理由だろうか。杉原さんは「悪夢」にとり憑かれても構わないと、そう思っていたのだろうか。
なぜ?
僕は愕然として、杉原さんを見つめた。
杉原さんは困ったようにふっと微笑んで、目を伏せた。でも、何も言ってはくれなかった。その沈黙に、僕は息をのむ。
――本当に、僕は何も知らないんだ。
衝撃に打ちのめされそうだった。杉原さんのこと、全然知らないって、わかってはいたけど。本当にかけらさえ、僕は理解していないのかもしれない。
「悪夢」の望み通りになっていいと、消えてしまってかまわないと、杉原さんが思っていたなんて。
体中の力が抜けそうだった。無力感に、僕は呆然とした。
杉原さんのこと、異世界のこと。まだ僕は、ほとんど打ち明けてもらっていないんだ。
また杉原さんに対して、怒りがわいてきそうだった。失望を感じて、僕はうつむいた。
下げた視線の先に、「悪夢」の色をした剣がある。
柄の先に嵌めこまれた真っ黒な玉を見ているうちに、僕の怒りはだんだん強くなった。――杉原さんにじゃない、僕自身に対する怒りだ。
打ち明けてもらっていないって、そりゃそうだ。誰がこんな奴に、大切な話をしたいなんて思うだろう?全然頼りにならない、何もできない、そのくせ心にこんな醜い剣を隠し持っていた奴に。
――こんなんじゃ、ふられて当然かもしれないな。
僕は初めて、そう思った。杉原さんに別の好きな人がいなくても、こんな僕では、やっぱりダメだったかもしれない。
この剣で杉原さんを傷つけたいと、ちょっとでも思ってしまったような僕では。
自分が情けなくて、僕は目を閉じた。
でも好きなんだ。どうしたらいい?
『――思い出せ、お前は裏切られたんだ。許せないと、傷つけたいと、思ったんだろう。ならば憎しみをもって剣を振れ!その女を、葬るんだ!』
「悪夢」はわめきながら、僕の周りをぐるぐる回った。
でも、力が弱まったことは一目瞭然だった。虹色の体はさらに透き通って、耳障りな声もどこか遠い。だから僕は簡単に、無視することができた。
杉原さんだけに、集中できる。
大好きな彼女しか目に入らない。
「……あのさ、花火大会のことなんだけど」
笑うつもりはなかったけど、もしかしたら僕は、微笑んでいたかもしれない。自分でも驚くくらい、穏やかに話すことができたから。
「覚えてる?あの時のこと」
これはちょっとした賭けだった。
杉原さんは真顔になってまじまじと僕を見つめてから、少しだけ笑った。苦笑じゃなければいいと、僕は思った。
「――心がこっちに戻ってきた時ね」
杉原さんはゆっくりとしゃべり始めた。
「不思議だったけど、『あちら』にいた私とこちらの私が、すっと溶け込むみたいに一つになったんだ。どちらも私だった。合わさった時、どちらが消えることもなかった。だから」
杉原さんの笑みが深くなった。
「……ちゃんと、覚えてるよ」
よかった。僕はうつむいて、笑顔を隠した。
照れくささより、嬉しさの方が大きかった。なかったことになっているのだと、ずっと思っていたから。花火大会に言って、初めてキスしたこと。僕だけしか覚えていないのだと思っていた。
その思い出が大切で特別に感じているのは、僕だけなんだって、ずっと悔しくて腹が立って、悲しかった。
――でも、覚えていてくれた。
その少しの特別に、すがりたかった。
こっちに残っていた杉原さんも、紛れもない杉原さんだというなら、まだ、望みはあるんじゃないか?ふられたけど、僕が諦める理由にはならない。だって、全部が偽物で嘘だったわけじゃ、ないんだ。
もしまだ僕に、チャンスがあるなら。
「じゃあ、杉原さん。……消えないでよ」
杉原さんが消えたいと思っていても、僕は消えてほしくない。やり直したいし、ちゃんと向き合いたい。今度こそ、杉原さんのことを知りたい。
顔を上げると、杉原さんはちょっと呆然としているように見えた。途方に暮れたようなその顔に、僕は笑いかけた。そして、「悪夢」に向き直った。
「悪夢」の方も、ぽかんとしているようだった。あれだけ堂々と揺らめいていた尾ひれも、今はしぼんで、布切れが引っかかっているくらいにしか見えない。こいつをなぜあんなに恐ろしく思ったのか、もうわからなかった。
「僕は杉原さんを消したいとは全く思わない。むしろその逆だ。――だから、これはいらない」
今なら、剣を手放せると思った。憎しみなんか、もうない。僕は「悪夢」めがけて、剣を放り投げた。
でも、――できなかった。
右手に吸い付いたように、剣は離れなかった。勢い余って、僕は剣をぶんと振り回した格好になった。遠心力に引っ張られて、ぐらりと体勢が崩れる。とっさに剣を杖のようにして、踏みとどまる。あやうく尻もちをつくところだった。
かろうじて、体を支える。予想しなかった動きに驚かされて、急に心臓の音が耳元で聞こえるくらい早くなった。僕は大きく息をはいた。
情けない格好で顔を上げた時、そこに「悪夢」はいなかった。
「え――」
ぽかんとして、僕は周りを見回した。物置教室に、おかしなものは何一つなかった。ただ僕と杉原さんが、呆然と立ち竦んでいるだけだ。
「……あいつ、どこ行った?」
「……わからない」
杉原さんも驚きに目を瞠って、「悪夢」がいたはずの宙を見つめた。そしてゆっくりと、僕に視線を移した。
「私には、新くんが『悪夢』を斬ったように見えた」
「――え?」
僕らは顔を見合わせてから、そろって僕の右手に重くぶら下がっている剣を、見下ろした。
目を疑った。「悪夢」の色をした剣は、もうなくなっていた。
かわりに目の覚めるような銀色の剣を、僕は握りしめていた。