十二 わかりたい
意識した途端、手にずっしりとした重みがかかった。
――幻じゃない、本当の剣だ。
僕は呆然としたまま恐る恐る、剣を持ち上げた。鋼の重みで取り落としそうになって、慌てて両手を使う。
視界の色に溶け込むような、「悪夢」の色をした剣だった。けれどよく研がれた刃と、柄の先に嵌まった玉は、何の光も弾かないほど黒い。夜を閉じ込めたような暗い色だった。
『それはお前の憎しみだ。我が手を貸してやった。――お前の剣だ』
頭の中で、「悪夢」がささやく。
武骨な剣だった。刀身の長さは指先から肘くらいまで、全体的にのっぺりと幅が広く、鈍器のようだ。すらりと腰に佩く剣ではなくて、小人が野蛮に振り回すような。
こんなにも重くて、冷たい。真っ黒な刃からは、一つの意図しか感じない。
――これは、人を斬りつけるための、道具だ。
それがわかって、背筋が寒くなった。
今僕が持っているものは、人を傷つけるための武器だ。凶器となるものだ。おぞましく感じられるのも当然だった。なんて醜い剣だろう。
これが、僕の?
ぞっとした。もう持っていられなかった。僕は、剣を投げ捨てようとした。
でも、手が離れない。
「何だ、これ……!」
必死になって、柄を握る右手を開こうとする僕に、「悪夢」が怒鳴った。
『何をしている――剣を捨てようというのか!』
「悪夢」は煙がわっと立ちのぼるように、突然僕のすぐ目の前に現れた。牙をむき出し、血走った目で睨みつけてくる。
『あの女が許せないのだろう。ならば斬れ!』
そんなこと、できるはずがない。
「悪夢」は恐ろしい形相だったけど、僕はそれどころじゃなかった。一刻も早く、この剣を手放したくてたまらない。ぐっと力をこめて、右手を振った。ガチャガチャと、剣がいびつな音をたてた。
『――馬鹿な!』
「悪夢」が吼える。
「……ここは、『あちら』とは違うのよ」
静かな声がして、僕ははっとして動きを止めた。
杉原さんだった。凛とした表情で僕を――いや「悪夢」を見つめている。水面のような瞳は、あくまでも平静だった。
「新くんは『あちら』の騎士じゃない。剣を持っても、考えることは『あちら』の人とは違う。……新くんは、こっちの世界の人だから」
落ち着き払って、杉原さんは「悪夢」に言い放った。
「お前は、それを間違えたんだ」
『――この、腰ぬけが!』
「悪夢」は怒り狂って、わめき散らした。長い尾ひれが、発光するように激しく色を変える。
けれど僕は反対に、落ち着きを取り戻していた。杉原さんの目を見て、訳のわからない恐怖に圧されていた心が、すっと凪いだ。
不気味な剣を早く捨てたいのは変わらない。けど、やっと少し周りが見えるようになった気分だった。
歪んだ色彩の中で、ただ1人杉原さんだけが変わらない姿を保って、背筋を伸ばして立っている。制服の白さが、濁った周囲の中では眩しいほどだった。
異世界で、特別な存在だったという杉原さんを、垣間見た気がした。
――ああそういえば、杉原さんの話を聞いていない。
僕はふと、そのことを思い出した。ここで「悪夢」に出会う前、本当は杉原さんを追いかけて、話をしようと思っていたんだ。何を考えているのか、彼女の心が知りたいと。
でもそれから、僕の方から避けるようになってしまったんだっけ。
僕は知らず知らずの内に、杉原さんと話をする機会を逃したんだ。なぜあの時元気がなかったのか。なぜ皆を避けていたのか。それを知る大切な機会を、失ってしまった。
僕はやっと、そのことに気付いた。頭の中のもやが晴れていくようだった。
……杉原さんのことを何も知らないのは、僕自身がそれを避けたせいだ。
「……杉原さん」
呼びかける声はかすれた。杉原さんははっとして、僕を見た。
「新くん、大丈夫?」
僕は頷くことも忘れて、彼女を見つめた。心配そうな、その表情を。
――今からでも、わかることができるのだろうか。杉原さんのことを。
「異世界に、『あちら』に好きな奴がいるって、本当?」
大きく瞠った瞳が揺れた。杉原さんは不意打ちに竦んだように、胸元のリボンをぎゅっとつかんだ。
けど、杉原さんが動揺を静めるのはすぐだった。一度目を伏せて、再び顔を上げた時、彼女はふっと微笑んだ。
「本当だよ」
わかっていた答えだけど、やっぱりつらかった。全部吹っ切ったような杉原さんの顔を、真っすぐは見れなかった。
「……だからあの日、帰ってきたときに、『別れよう』って言ったの?」
ゆっくりと杉原さんは瞬いた。複雑に動いた感情を抑え込むように、一度口元を引き締めてから、言った。
「……それも、ある」
ずいぶん、いろんなものを含んだ答え方だった。
けど、僕は追及しなかった。聞きたいこと、話したいことは、まだまだたくさんあった。
「どんな奴?……杉原さんの、好きな奴は」
「えっ?」
虚をつかれたように、杉原さんはぽかんとした。そして口元に手を当てて、考え込むように目を伏せた。
「そうだね。……厳しい、人だったよ。自分にも他人にも。騎士として、責任感の強い人だった」
まぶたにそいつの顔が浮かんだんだろうか。杉原さんはふと、柔らかく笑った。
見たことのない、笑みのかたちだった。
「でも、――優しい人だった」
「そっか……」
何とも言えず、僕はそんな相づちを打った。もし手が自由だったら、がりがり頭をかいていたと思う。
自分で傷をえぐっているみたいだった。杉原さんに別の奴のことをのろけられるなんて、最悪だ。ショックでひどい気分だった。
でも、知りたいと思ったのは僕なんだ。
「そいつはさ――」
「新くん。この話、また今度ちゃんとしよう」
杉原さんが急に、強く遮った。
「今こんなこと、話してる場合じゃなかった」
彼女の目はもう、僕を見ていなかった。宙に浮かぶ魚を、厳しく睨みすえていた。
『だがお前に、何ができる?』
「悪夢」は僕が間抜けな質問をしている間に、余裕を取り戻したようだった。ぱかりと口を開け、嘲け笑って杉原さんを見下ろした。
『この男が剣を欲しないというのは、確かに我の誤算だった。だがお前は最早ただの人。脅威ではない』
悠々と、魚は僕の頭上を泳いだ。杉原さんはぐっと唇をかむと、険しい表情のまま僕に振り向いた。
「新くん、お願い。――『悪夢』を遠ざけて!」
「え?」
激しい口調のその指示に、僕は途方にくれた。
遠ざけろ、と言われても。呆然とする僕に、杉原さんはきびきびと言う。
「『悪夢』は新くんにとり憑いたから、力を得ているの。新くんと切り離せば、こいつは弱くなるはず」
「う、うん。でも――」
僕はまたガチャガチャと、剣を揺すった。
「どうやればいい?離れないんだ――この剣も、魚も」
これまでの夜に何度、「悪夢」を追い払おうとしただろう。でも何をしても、全て魚の体には届かなかった。僕が「悪夢」に対して無力なことは、もう十分身にしみている。
こいつを遠ざけるのは、僕には無理なんだ。
「魚?」
杉原さんは驚いたように瞬いた。
「新くんは、『悪夢』が魚に見えるの?」
「違うの?」
僕も驚いた。間違えようもなく、「悪夢」は魚の姿をしている。もちろん、とがった牙や赤い舌なんか、普通の魚とは全く違うけど。
杉原さんはつかの間呆然としていたけど、片頬を上げてふっと苦笑した。
「――そうか、本当に人によって、違うんだね」
どういうこと、と僕は問い返そうとした。でもその隙はなかった。魚が再び目の前に下りてきたのだ。
尾ひれを扇のように広げ、「悪夢」は僕と杉原さんの間に立ちふさがった。その近さに、僕は息をのんだ。
『お前もこれ以上使えぬ。――我がやろう』
長いひれが僕を飲み込んで、閉じ込める。周囲の何もかもが見えなくなった。
「新くん!」
悲鳴のような、杉原さんの声が聞こえた。
いつかと同じように、ぬるりと膜をはったような「悪夢」の目が、僕を見すえた。魔法にかけられたように、それに囚われる。思わず手の中の剣を、すがるように握りしめた。
『さぁ、お前を明け渡せ』
ダメだ――。僕は固く目をつむった。