十 ホットミルク
深夜番組がこんなにつまらないとは思わなかった。テスト前の夜、勉強の息抜きに見る時は、おもしろすぎてついつい延々と見てしまうのに。惰性でテレビをつけてみても、何にも入り込めない。
番組がアイドルの水着コーナーとかだったら、まだおもしろく見れたかもしれない。けどあいにく画面の向こうで繰り広げられているのは、トークバラエティーだった。どうでもいい話をする人々を、僕は冷めた気持ちで眺めた。
リビングのソファに座って、僕はぐずぐずと起きていた。僕以外の家族はみんな、既に布団に入っている。だからテレビの音量も、最小限に落としてあった。正直、笑い声以外何を言っているのかわからない。けどあまり見る気もないから、聞き取れなくても構わなかった。
なぜ眠らないのか。その理由は1つだ。
――「悪夢」が、恐ろしいから。
部屋に入ってベッドにもぐりこんだら、あいつが出てくるのはわかっていた。あの毒々しい姿を見たくない。あの声を、真っ暗な言葉を聞きたくない。
要するに、僕はあの「悪夢」が怖いのだ。あいつの言葉にぐらぐら揺さぶられ、不安を植えつけられるのが嫌だった。魚が僕の周りを泳ぐと、ベッドに縫い付けられたように動けなくなる。夜が深く重く覆いかぶさってきて、絶望的に息苦しくなる。
その全てが怖かった。
自分が情けない。あんな実体のない魚に、こんなにも怯えるなんて。
でも、どうしようもなかった。僕にできるのは、こうして「悪夢」が現れないように、起きていることだけだった。
眠れないでいるよりも、起きている方がまだマシだ。
「――部屋で寝なよ、あっくん」
急に声が聞こえて、僕ははっとして顔を上げた。
目の前のテレビは、まだついている。慌てて周囲を見回すと、リビングの入り口に沙也が立っていた。眩しそうに目を細め、あくびをかみ殺している。
どうやらいつの間にか、寝入ってしまっていたようだ。僕はしょぼしょぼかすむ目をこすった。沙也につられて、大きなあくびが出た。
「……まだ起きてるつもりなの?」
さっきより少しはっきりした口調で、首を傾げて沙也が聞いた。僕はぼんやりしたまま、あやふやに答えた。
「ん、まぁ……」
「ふうん」
関心が薄そうに呟くと、沙也は静かにリビングに入って、冷蔵庫を開けた。
喉でも乾いて、起きてきたのだろうか。なんとなく沙也を目で追いながら、僕はうまく働かない頭で考えた。
マグカップに牛乳を注ぎながら、沙也は何の気なしに言う。
「あっくん、眠れないんだ。彼女と何かあったとか?」
意外にも図星を突かれて、僕は眠気が少しとんだ。
いつも的外れなくせに、どうしてこんな時だけ鋭くなるんだ。ちょっとムッとして、僕は黙りこんだ。何も事情を知らない沙也に、あれこれ言われたくなかった。
沙也はマグカップを、そのまま電子レンジに入れた。そうして牛乳を温めている間、ごそごそと台所の棚を探り出した。
こんな夜中に、一体何をしているのだろう。僕はますます不審に思った。腹が減っているのだろうか。こんな時間に食うと太るぞと、嫌味を言ってやろうか。
「……何してんの?」
耐えきれなくなって、僕は尋ねた。沙也は「んー?」と、眠そうな柔らかい声で返した。
「眠れないあっくんに、プレゼントだよ」
温めた牛乳に、沙也は棚から出した蜂蜜をとろりと注いだ。入れすぎだろ、と思うくらいだ。それをスプーンでかき混ぜながら、沙也は僕の方に近づいてきた。
はい、と白いマグカップが差し出される。
「沙也特製ブレンドのホットミルクです。どうぞ」
ほのかに湯気を立てている牛乳と、沙也の顔を、僕は交互に見つめた。ついつい、ぽかんとしてしまう。
「――なんで?」
なんで僕に、ホットミルク?
ぽろりと出た僕の疑問の声に、沙也は明らかに気分を害した顔をした。ぐいと、温かいマグカップを僕に押しつける。
「いいから、早く受け取りなよ。せっかく作ってあげたんだから」
頼んでもないのに、どうして怒るんだ。ちょっと理不尽に思ったけど、僕はカップを受け取った。ふわりと、特有の甘いにおいが鼻をかすめた。
沙也はテーブルの椅子をわざわざ引っ張ってきて、それに行儀悪くあぐらをかいて座った。
「これで、借りは返したからね」
カップに口をつける寸前、その満足そうな言葉を聞いて、僕は手を止めた。
「借り?」
何か僕は、沙也に貸しがあっただろうか。記憶を探るけど、全然心当たりがない。
首を傾げる僕に、沙也は不満げに唇をとがらせた。
「覚えてないの?――もともとそれは、あっくん特製ブレンドだったでしょう」
僕特製ブレンド?思わずホットミルクをまじまじと見つめる。
これを作ったことなんて、あっただろうか?
「去年私が受験生だった時、あっくんが作ってくれたんだよ。私が夜中、ストレスでキレてた時に。『これ飲んで、寝ろ』って言って」
それを聞いても、やっぱりよく思い出せなかった。
でも言われてみれば、そんなこともあったかもしれない。去年、沙也は高校受験を控えて、一時期とても不安定でピリピリしていたことがあったから。当たり散らされるのが嫌で、僕は当時沙也にあまり関わらないように遠巻きにしていた。でも、レベルの高い難しいところを受ける奴は大変だなぁと、ちょっと気の毒に思っていたんだ。
「私、ホットミルクってくさみがあるからあまり好きじゃないけど、その時はすごくびっくりしたんだよね。効果抜群だったから。一口飲んだだけで、トゲトゲした気分がおさまっちゃったの」
椅子にもたれて、沙也は懐かしむように目を眇めた。
話につられて、僕もミルクを一口飲む。
甘ったるい。
けれど僕は続けて、二口、三口と飲んだ。
「ただ牛乳を温めただけなのにね。不思議だよね」
それだけ言うと、沙也は「じゃ、おやすみ」と立ち上がった。
「あっくんも、早く寝なよ」
リビングを出る直前、沙也は振り返ってそう言った。
マグカップに口をつけていたので、僕は手を振るだけで答えた。妹に気を使われるのは、嬉しい半面、兄としてはちょっときまりが悪かった。
でも、沙也の話は本当だった。甘いホットミルクを飲むごとに、気分が落ち着いていくのがわかる。蜂蜜が多くて甘すぎると思うのに、結局、僕は全部飲み干した。
しばらくすると、自然に眠くなってきた。あくびをしながら歯を磨いて、僕は部屋へ戻った。ベッドにごろりと横になると、眠りはすぐに、やってきた。
その日、「悪夢」は来なかった。