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夢の盾 現の剣  作者:
第一章
10/18

九 醜い僕

「新くん」

 階段の踊り場で、杉原さんに呼び止められた。教室移動の最中だった。

 振り向くのが、ひどく億劫だった。僕は、わざと彼女を避けていたから。

 杉原さんは制服のスカートの端をぎゅっと握りしめ、決意をもった瞳で、僕を見つめている。

 あ、少し顔色が良くなったな、と思った。杉原さんは険しい表情をしているけど、少し前よりはずっと健康そうな様子だ。目に力があるし、引き結んだ口元にも、本来の溌剌さが戻っているように感じた。

 元気になったんだ、よかった。そう思ったはずなのに、僕の口から出たのはよそよそしい言葉だった。

「……何か用?」

「新くん。夜、眠れてる?」

 杉原さんは真っすぐ聞いてきた。

「ひどい顔だよ。すごく、疲れてるみたいだし。あのね、もし、何か悩んでいるなら――」

「うるさいな」

 何か考えるより先に、そんな言葉が飛び出た。自分でも理由がわからないくらい、気分がささくれて苛立っている。

 何か悩んでいる?そうだ、悩んでいるに決まってる。そもそも、全部杉原さんのせいじゃないか――。

「杉原さんには、関係ないだろ」

 杉原さんから目をそらして、僕は窓の外を見た。薄暗い踊り場とは対照的に、外はからりと晴れている。白いグラウンドが、やけに遠くに感じた。

「でも、新くんは」

 杉原さんは、なおも言いつのろうとした。僕は正面から、杉原さんに向き合った。


 自分が、ひどく意地悪な顔をしているとわかった。

「……そっちから、切り捨てたんじゃないか。もう僕に、関わりたくないんだろ?――別の奴が好きなんだから」

 杉原さんが息をのんだ。灰色がかった瞳が揺れる。


 僕と杉原さんの間にある溝が、今や決定的となったのだ。僕がそうした。わかっていてやったのに、傷ついた杉原さんの顔を見ていたくなくて、僕はうつむいた。

「……もう、放っといてくれよ」

 そう吐き捨てて、僕は逃げるように階段を駆け降りた。杉原さんは、追ってこなかった。




 魚はなぜか、ひどく上機嫌だった。いつもよりせわしなく宙を泳ぎ、尾ひれを大きく波打たせた。極彩色のグラデーションも、目が眩むような変化を繰り返す。

 ベッドの隅で壁にもたれて座り、僕はぼんやりとそれを眺めていた。

 今日も、眠れないのかな。

『あの女の顔を見たか?あの驚きに瞠られた目を』

 夜ごと杉原さんの裏切りを繰り返す「悪夢」は、今日は様子が違った。昼間のことを、弾んだ口調でしきりに話している。ギザギザの声はぐんとピッチが高くなり、耳障りさが増した。

『お前に傷つけられるとは、思いもしなかったのだろうよ。だから驚いたのだ。お前を、侮っていたのだ』


 衝撃に打たれたような、杉原さんの表情がよみがえった。

 あんな顔、初めて見た。

 僕にとっての杉原さんは、いつも笑っている人だった。みんなから失笑をかうような僕の下手な冗談に、ころころ楽しげに笑ってくれた。彼女の前で緊張して、僕がぎこちない行動をとった時も、決して馬鹿にすることはなく、ただ穏やかに微笑んで見つめてくれていた。

 いつも杉原さんの笑顔には、包み込むような温かさがあった。だから僕も、彼女の前では普段より多く笑っていたんだ。


 ああでも、あれは偽物なんだっけ。


『あの女を見返してやったのだ。あの女に傷つけられた分だけ、お前もあの女を傷つけることができるのだ。――どうだ、気分がいいだろう?』

 杉原さんを傷つけたことなんて、もう既に思い出したくもない、最悪なできごとだ。もう二度と、彼女のあんな表情は見たくない。あんな表情をさせることを、二度としたくない。


 けれどあの時、僕は確かに気分が良かった。杉原さんの表情が歪んで、ひどく暗い喜びを感じた。自分の手で彼女を傷つけることができたのが、嬉しかったのだ。

 とんだ最低野郎だ。自分がこんな醜い感情の持ち主だなんて、知らなかった。もしかしたら、この僕の醜悪さを直視したくないから、思い出したくないだけなのかもしれない。

『どうだ?』

 「悪夢」が共犯者のように、にやりと笑う。僕は目を閉じた。

「……そうだね」

 僕は初めて、「悪夢」に同意した。


 こいつの言葉はたぶん、真実だ。


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