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第9話:偽装の剪定、震える指先
手取川から帰還したアパート。
深夜、編集デスクの青白い光だけが、泥を落としたばかりの二人を照らしていた。
コウタは脇腹の痛みをこらえながら、録画データのタイムラインを刻んでいた。
「……よし、ここ。お前が俺の胸ぐら掴んで揺さぶってるシーン、ここ使えるな」
モニターの中では、カナが狂ったように「死んだら許さない」と絶叫している。
コウタはそれを、視聴者が「カナが相棒を道具扱いしている」と解釈するように、冷徹に切り取っていく。
「……ねえ、コウタ。……それ、本当に全部『嘘』にするつもり?」
カナは震える手で、空になったストゼロの缶を握りつぶした。
深夜の静寂に、アルミがひしゃげる不快な音が響く。
彼女はすぐさま二缶目のプルタブを引き、暴力的なまでの嚥下音を立てて喉に流し込んだ。
「……あんた……っ、何なのよ……! 何でそんな、平気な顔して……私の『本当』をゴミみたいに編集できるのよ……!」
アルコールが瞬時に脳を焼き、カナの「回避」の壁を粉砕する。
彼女はコウタの椅子を無理やり回転させ、モニターを隠すように彼の膝の上に割り込んだ。
不眠と情念で充血した瞳が、至近距離でコウタを射抜く。
「あんなの……演技じゃない! 嫌いなんて、一文字だって思ってない……っ。あんたがいないと息もできないし……あんたの全部が、私のものじゃないと、気が狂いそうなの……!! ねえ、聞いてる!? 編集なんてやめて、私を見てよ!」
カナはコウタの頬を両手で挟み込み、酒臭い吐息を吹きかけながら、力任せに自分の方へ向けさせる。
剥き出しの自己開示と、粘着質な絡み酒。
その執着を受け止めながら、コウタはマウスを動かす手を止めず、ただ小さく息を吐いた。
「……はぁ。また始まった。……何回目だよ、これ」
コウタの声には、呆れと、それを上回る深い諦念が混じっていた。
出会ってから、何度このループに付き合わされたか分からない。
酒を飲んで、自分の醜さをぶちまけて、最後は泣きながら縋り付く。
カナにとっては命懸けの告白なのだろうが、コウタにとっては、もはや日常の一部だった。
「……っ、何よ……! 笑えばいいじゃない、こんな重い女……っ。嫌なら、今すぐ捨ててよ……! ほら、捨てなさいよ!」
カナはコウタの胸ぐらを掴んで揺さぶり、わざと嫌われるような言葉を叩きつける。
だが、その指先は「離されたくない」と悲鳴を上げるように、彼のシャツを千切らんばかりに握りしめていた。
「捨てねえよ。……お前、自分で言ってて飽きないのか?」
コウタは作業を中断し、泣き顔で暴れるカナの腰を、逃げられないようにしっかりと抱き寄せた。
顔中を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにし、アルコールの熱で赤くなった彼女の頬。
普通ならドン引きするようなその醜態が、今のコウタには、これ以上なく愛おしい「真実」に見えていた。
「わかってる。だから、これは俺たちのための偽装だ。……お前が外で『強いカナ』でいられるように。……俺たちが、誰にも邪魔されずにここでこうしてられるように。……だから、お前は俺をいくらでも罵倒していいんだ」
コウタは汚れた指先で、カナの涙を乱暴に拭った。
「……外の世界には、嘘の俺たちを見せておけばいい。……ここにあるのが、『本当』なんだから。な?」
コウタがそう言ってカナを強く抱きしめると、彼女は「……っ、ぁ……」と喉を鳴らし、昨日も、先週もそうしたように、彼の首筋に顔を埋めて、酒の匂いを撒き散らしながら泣きじゃくり始めた。
「ぁぁぁぁぁ、疲れた」
カナを一度強く抱きしめた後、不意にその腕を解いて椅子から立ち上がった。
「……あ、待ってよ! どこ行くの……っ!」
カナの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「幸福へのパニック」――優しくされればされるほど、その反動で訪れる「喪失」への恐怖が彼女を突き動かす。
カナは縋り付くように手を伸ばしたが、コウタの体温は指先をすり抜け、彼は無言でキッチンの奥へと消えていった。
「……やだ。行かないで……! 嘘でも、罵倒してもいいから、ここにいてよ……!!」
カナはその場に崩れ落ち、床を叩いて泣き始めた。
酒の回った頭で、最悪の想像が駆け巡る。
今の醜態で、コウタが愛想を尽かしたのではないか。
このまま彼はアパートを出て、実家へ帰ってしまうのではないか。
呼吸が浅くなり、過呼吸気味の嗚咽が深夜の部屋に響く。
だが、数分後。
戻ってきたコウタの両手には、暖めた惣菜とストゼロがあった。
「……おい、いつまで泣いてんだよ。床、びしょびしょだろ」
コウタは泣きじゃくるカナの前にどさりと座り込みパックから惣菜を取り出した。
スーパーの半額シールが貼られた、少し衣の湿った唐揚げと、ポテトサラダ。カット野菜。
そして、あの時食べ損ねた、賞味期限ギリギリの惣菜たち。
「……ほら、約束だろ。……今日は惣菜でパーティーしようぜ。お前、これ食いたがってただろ」
「……ぁ……、こ、こうた……っ」
カナは涙をボロボロと零しながら、コウタが差し出した唐揚げを見つめた。
彼は、自分を捨てに行ったのではない。
自分の「日常」を守るために、約束を果たしに行ったのだ。
「……バカ。……あんた、本当にバカなんだから……」
カナは震える手で唐揚げを掴むと、泣き顔のままそれを口に押し込んだ。
冷めて少し硬くなった脂の味が、今の彼女には、どんな高級料理よりもコウタの「愛」を証明する味に感じられた。
「……美味しい。……美味しいよ、コウタ……っ」
ストゼロの缶が再び弾ける。
ここまで読んでくれてありがとう。
作者は今日も睡眠不足で脳のネジが飛びかけています。
感想・ポイント・お気に入りは、作者のメンタルを回復させる神聖なる薬草です。




