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独りの完成、半身の飢餓

小松の廃工場に、硬質な金属音が反響する。

天井の梁から滴り落ちた銀色の糸が、コンクリートの床をじわりと侵食していた。

コウタは暗がりに潜む「鉄喰いの銀糸」の気配を、冷徹に見定めていた。

いつもなら、このタイミングでカナの影が視界を遮っているはずだった。

「邪魔!」と叫んで横から割り込み、獲物を横取りする彼女の身勝手な魔法。

耳を劈くような高笑い。

それが、ない。

コウタは無意識に、右側の空白へ視線を飛ばした。

誰もいない。

分かっているのに、数秒後にはまた、視線が右側を求めて彷徨う。

一歩踏み出し、水槍を放つ。

計算通り。完璧な命中。

(……いつもなら、ここでカナが「下手くそ!」って罵倒してくる)

魔物が体勢を崩す。

(……いつもなら、ここでカナが私の手柄よって笑いながら突っ込んでくる)

静かだ。

静寂が、鼓膜を内側から殴りつけるようにうるさい。

クセになっている。

カナの位置を確認し、彼女の動きを前提に立ち回る自分の体が。

何のノイズもない「効率的な戦場」は、コウタにとって、呼吸の仕方を忘れるほど不自然な空間だった。

魔物の核を貫き、巨大な節足がコンクリートに沈む。

廃工場は、元の死んだような静寂に包まれた。

コウタは荒い息を整えながら、誰にも邪魔されずに手に入れた「勝利」を見下ろす。


「……」


静かだ。

自分の呼吸音と、魔物が這う微かな音しか聞こえない。

コウタは無意識に、また右側を見た。

――もう、確認する必要なんてないのに。

不意に、視界の端で銀糸が閃く。

回避行動。

絡め取ろうとする糸の軌道を最小限の動きでかわし、コウタは計算通りに掌を向けた。


「ウォーターランス」


放たれた水の槍は、一点の曇りもなく魔物の関節部を貫く。

カナに合わせる必要がない。

彼女の気まぐれな突進をカバーするために、魔力を余分に温存する必要もない。

自分のリソースを、自分のためだけに、最も効率的なタイミングで注ぎ込める。

身体は驚くほど軽かった。

一歩踏み出すごとに、自身の肉体が「正常」に、そして「最適」に駆動していることを自覚する。

魔物の鎌が空を切る。

あしらい、誘い込み、致命的な隙を自らの手で作り出す。

(……一人で、十分なんだよな)

かつて夢見た「効率的で静かな攻略」が、今、目の前で完璧に完遂されようとしていた。

魔物の動きが鈍る。

コウタはトドメの一撃を放つべく、魔力を集束させた。

だが、その完璧な瞬間に、心臓の奥が不快に脈打った。

本来ならここで、カナが「最後は私の手柄よ!」と横から割り込んでくるはずのタイミング。

その「苛立ち」が訪れないことが、今のコウタには、致命的な欠落のように感じられた。

魔物の核を貫き、巨大な節足がコンクリートに沈む。

廃工場は、再び元の死んだような静寂に包まれた。

コウタは荒い息を整えながら、倒れ伏した魔物を見下ろす。

完璧な勝利。

最小限の魔力で、傷一つ負うことなく中堅魔物を単独撃破した。

理想としていたはずの、効率の極致がここにある。


「……」


期待していた高揚感は、一滴も湧いてこない。

あるのは、耳の奥にこびりつくような、重苦しい空虚だけだ。

怪我一つない、綺麗な右腕を見つめる。

(……カナの指が食い込んでいない。痛くない)

その「痛みのなさ」が、今のコウタには、自分が透明人間になってしまったかのような喪失感を与えていた。

あるのは、耳の奥にこびりつくような、重苦しい静寂だけだ。

いつもなら、この瞬間にカナが魔石を奪い合い、自分の成果を自慢げに語り散らしていた。

あるいは、疲れ果てたコウタの肩に勝手に寄りかかり、強引に自分のペースへ引きずり込んでいた。


「……カナ」


独り言が冷たい空気の中に溶けて消える。

その響きのあまりの空虚さに、背筋が寒くなった。

誰にも邪魔されない、自分だけの自由。

それは、まるで酸素のない宇宙に放り出されたかのような、恐ろしいほどの孤独だった。

コウタは震える手で、返り血のついていない綺麗な右腕を見つめた。

物理的には完璧に健康なまま、自らの意思だけでここに立っている。

それなのに、胸の奥にあるピースが、どうしても噛み合わない。

コウタは魔石を回収するために、重い腰を上げた。

戦闘の疲労は最小限のはずなのに、一歩踏み出すごとに鉛のような倦怠感が脚を縛る。

【肉体回帰】を使わずとも、独りで戦うということは、すべての判断と緊張を一身に背負うということだ。

静寂が、鼓膜を内側から圧迫する。


「……」


不意に、視界の端で明るい栗色の髪が揺れた気がした。

反射的に右側を振り返るが、そこには埃の舞う廃工場の空間が広がっているだけだ。

カナはいない。

今は、自分を罵倒する声も、ストゼロの甘ったるい匂いも、無理やり腕を組んでくる体温もない。

求めていたはずの「一人の時間」が、今は猛毒のように全身に回っている。

脳裏に浮かぶのは、自分を蔑みながらも、決して離そうとしなかった女の歪な笑顔だ。


「……なんで、あいつのことばかり……」


絞り出した声は、誰に届くこともなくコンクリートに吸い込まれた。

肩の傷を塞いでもらったときの、あの熱。


「……足りない。今の『ああ』じゃ、私の『好き』の百分の一も返ってきてない。ねえ、コウタ。好き。好きだよ。……ねえ、好きって言ってるの分かってる?」


あの時の、カナの剥き出しの好意。

それは愛というより、自分の存在すべてを燃料にして、コウタという人間を焼き尽うとする業火だった。

首筋に押し当てられた吐息が、耳元で繰り返された呪詛が、今も神経を直接焦がしている。

一人になりたかったはずだ。

あの暴力的なまでの執着から、静かな場所へ逃げたかったはずだ。

だが、いざ静寂の中に置かれると、その「熱」がないことが、凍えるほどに恐ろしい。

コンビニで買った、冷たいスポーツ飲料を喉に流し込む。

無味乾燥。

ただの冷たい水にしか感じられない。

カナの部屋で飲まされた、あの安っぽくて、人工的な果物の香りがする『よわよい』。

喉を焼くようなあの毒の方が、今の自分には、よほど滋養があるように思えた。

喉を通る刺激。

しかし、今のコウタの脳は、もっと不純で、もっと喉を焼くような、あの安酒の毒を求めている。

カナの悪意と好意が混ざり合った、あのドロドロとした熱量に触れていないと、自分が冷え切って死んでしまうのではないかという錯覚。

身体はどこも悪くない。

怪我も、痛みも、何もない。

なのに、内側だけが、彼女に焼き焦がされた痕から、ボロボロと崩れていく。


「……ああ……最悪だ」


誰に聞かせるでもない呟きが、夜の静寂に溶けた。

自由。

それは、自分を焼いてくれる者さえ失った、ただの空虚な廃墟だった。

実家の玄関を開けると、見慣れた穏やかな照明と、出汁の匂いがコウタを包み込んだ。


「おかえりなさい。少し顔色が悪いわよ。ちゃんと食べてる?」


母の、心底心配そうな声。


「……食べてるよ」


嘘だ。

半額の惣菜と、カナが放置した酒の残りで、一日の栄養を済ませている。


「……仕事、一人でやってるの? 誰か、一緒に住んでる人とか、いないの?」



「……いない」


また、嘘をついた。

カナのアパートに入り浸り、彼女の罵倒と体温がないと眠れない身体になっている。

そんなこと、この真っ当で温かい場所では、口が裂けても言えない。

母の心配そうな声。

それはあまりに真っ当で、濁りのない、正しい親愛だった。

しかし、今のコウタの耳には、その響きが薄ら寒く感じられてしまう。

カナの、あの耳元で脳を直接焼くような、高濃度の罵倒と好意。

それに比べれば、この温かな気遣いは、今の自分にはあまりにも「薄味」すぎた。

コウタは無言のまま、今日回収したばかりの魔石の換金分を、テーブルに置いた。


「……これ、生活費の足しにして」


母が息を呑む。


「こんなに? でも、あんまり無理しないで。しっかり休まないと……」



「俺なりにやってるから、大丈夫だよ」


遮るような声。

これ以上、自分の内側に「正しい光」を入れさせたくなかった。

実家の平穏に触れれば触れるほど、自分の中に深く刻まれたカナの痕跡が、醜いシミのように浮き彫りになる。


「帰れないときは、ちゃんと連絡する。心配しなくても、大丈夫だから」



「……そう。無理だけは、しないでね」


母の言葉が、優しさが、鋭いナイフのようにコウタの内側を削る。

「正しさ」という名の無菌室。

そこに立っているコウタの脳内を支配しているのは、ストゼロで顔を赤くし、剥き出しの好意で自分を焼き焦がそうとするカナの姿だった。


「アンタは、私なしじゃ死ぬのよ……!」


あの地獄のような熱量を、今の身体が、魂が、激しく渇望している。

母の差し出した温かい茶を飲みながら、コウタは理解した。

自分はもう、この正しい世界には戻れない。


「お前のほうだろ」

ここまで読んでくれてありがとう。

作者は今日も睡眠不足で脳のネジが飛びかけています。

感想・ポイント・お気に入りは、作者のメンタルを回復させる神聖なる薬草です。


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