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三日目の朝、空白の対価

重いカーテンの隙間から、容赦のない朝日が差し込んでいる。

コウタは、鉛のように重い身体を引きずるようにしてキッチンに立っていた。

ひどい頭痛。

初日の夜、ウイスキーを煽り、カナに縋り付いたあの日から、自分の中の時計は止まったままだ。

飲んだ当日の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちている。

だが、二日目、三日目と積み重なったカナの体温、肌が擦れる熱、絶え間なく繰り返された執着の形だけは、消えない火傷のように身体に刻み込まれていた。


「…………っ」


コウタは震える手で蛇口をひねり、グラスに水を注いだ。

一気に飲み干しても、脳裏に焼き付いた「熱」は引かない。

自分が何を言い、どれほど無様に彼女を求めたのか。

空白の記憶への恐怖よりも、今、カナのいない数歩の距離がひどく寒く感じられることに、絶望的な敗北感を抱いていた。

フライパンの上で、卵が焼ける音だけが響く。

彼はあえて丁寧に朝食を作ることで、崩れかけた自分を辛うじて繋ぎ止めていた。


「……おはよ、コウタ。……いい匂い」


背後から、カナの熱っぽい声がした。

コウタが動く間もなく、柔らかな体温が背中にぴったりと貼り付く。

シャツ越しに伝わる、カナの心臓の鼓動。

細い腕が腰に回され、当然のように自分の領土を主張し始める。

いつもなら反射的に「回避」し、冷たく突き放すはずの距離。

だが、コウタの手が彼女の腕を振り払うことはなかった。

それどころか、彼は溜息をつきながら、自ら背中の体温に寄りかかるように身体を預けた。


「……ああ。……まだ、眠いのか」



「……ん。……だって、コウタが寝かせてくれなかったんだもん」


カナはコウタの首筋に顔を埋め、深く、吸い付くように熱い吐息を漏らす。

コウタはその刺激に肩を震わせ、力なくカナの頭を撫でた。

二日間、彼女という檻の中で徹底的に甘やかされ、壊された感覚が、心地よく脳を麻痺させている。

自分が壊れた人間だという自覚さえ、今はただの安らぎでしかなかった。

並んで座るテーブルの上には、二人分の朝食。

かつての「ビジネス不仲」の面影など、どこにもない。

毒の回った共犯者のような、あるいは世界の終わりに二人だけが生き残ったような、静かで濃密な時間が流れていく。


「……なあ、カナ」



「なに?」



「……飯食ったら、……そろそろ、一旦自分の部屋帰るわ」


コウタが食後にポツリと漏らした言葉。

一瞬、空気が凍りつくのを覚悟したが、カナの反応は意外なものだった。


「……うん。わかった。お疲れ様、コウタ」


カナは箸を置き、不気味なほど物分りのいい笑顔でコウタを見つめた。

引き止める言葉も、縋り付く仕草もない。

ただ、その瞳の奥には、逃げ出した獲物を高みから見守るような、底知れない余裕が湛えられていた。


「……じゃあ、行くわ。……食器、後で洗いに来るから」



「いいよ、私がやるから。……ゆっくり休んでね」


コウタは拍子抜けしながらも、アパートのドアを開けた。

数日ぶりに浴びる外気は驚くほど冷たく、鋭い。

階段を降り、一人きりになった瞬間、猛烈な違和感がコウタを襲った。

静かすぎる。

カナの体温がない空間が、まるで酸素を奪われたかのように苦しい。



母親との通話を切り、コウタは階段下から聞こえる生活音を背に、自室のドアを閉めた。

「連絡はしている」「これは仕事だ」。

自分に言い聞かせた言葉は正論のはずなのに、実家の自分の部屋は、ひどく居心地が悪い。

ここは、かつての彼にとって最も安全な場所だったはずだ。

だが、今の彼を包んでいるのは、家族の気配という名の拷問だ。

 

(……静かすぎる)

 

ドォォォン、と地響きのような音が微かに部屋を揺らした。

小松製作所の試験場か、近隣のダンジョン攻略で重機が動いている音だろう。

カナのアパートならその音で会話が途切れるが、ここではただ鼓膜が痛いだけ。

 

キィィィィィィン。

 

次いで、小松空港へ向かう戦闘機のエンジン音が空を切り裂いた。

小松の空を日常的に覆う、あの暴力的なまでの爆音。

かつては聞き慣れたその騒音が、今のコウタには、カナの声と重なって聞こえた。

 

「…………っ」

 

コウタは耳を塞ぎたい衝動を抑え、代わりに窓の外を眺めた。

曇天。

北陸特有の、低く垂れ込めた灰色の空。

さっきまで階下で向けられていた、母親の「真っ当な心配」が、今の自分には重機の騒音よりも不快なノイズに感じられた。

親は何も分かっていない。

この「仕事」を失えば、自分はこの小松の空の下で、ただの透明な人間になってしまう。

コウタは、無意識に洗面所へ向かおうとして、ここが実家であることを思い出した。

カナの残した私物など、ここには一つもない。

自分の部屋なのに、そこかしこに「まともな自分」の残骸がある。

それが、たまらなく息苦しかった。

顔を拭いたタオルからも、使い古された柔軟剤の匂いしかしない。

カナの飲んでいた、あの人工的な果実の匂いがどこにもない。

 

「…………だめだ」

 

コウタは学習机の椅子に深く腰掛けた。

連絡はした。

親もあしらった。

やるべきことはやったはずなのに、この家にいる自分が「偽物」のように思えてならない。

カナに連絡を入れようとして、指が止まった。

今ここで彼女の声を聞けば、二度とこの家に居られなくなる。

それは直感というより、確信に近い恐怖だった。

コウタはスマホの電源を落とした。

数日ぶりに自分のベッドに倒れ込む。

二日間の「熱」が、鉛のような疲労となって全身を沈ませていく。

仕事だ、と自分に言い聞かせながら、彼は意識を手放した。

目を閉じても、瞼の裏にはカナの歪んだ笑顔が焼き付いたままだった。


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