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第11話:疲れ
いつもなら、コウタはウイスキーの最後の一滴まで自分のテリトリーを守り抜く。
だが今夜は違った。
「手取川」での疲労と、空腹に流し込んだ度数の高い琥珀色が、彼の「あしらい」の壁を内側から溶かしていく。
「ふっ、……あは。……見てみろよ、このコメント。……『コウタ、死ねばよかったのに』……だってさ」
カナの声は低く、どこか楽しげに震えていた。
グラスを握る指先がわずかに緩み、モニターを見つめる視線も定まらない。
感情を殺して「燃料」を摂取するいつもの彼ではない。
酒の力で、剥き出しの虚無が笑いとなって漏れ出している。
「……飲みすぎ。だらしないわよ、コウタ」
カナはコウタの膝の上で、冷めた声を出した。
彼女の手元には、まだ半分以上残っている『よわよい 2%』。
意識は氷のように澄み渡っている。
酔って無防備になったコウタの喉仏の動き、緩んだ口角、自分を抱き寄せる力の加減――そのすべてを、彼女は逃さず記録していた。
「……いいだろ。……お前が望んだ通り、世界中から……嫌われてやったんだ。」
ウイスキーを煽る。ばれたくない世間には。
熱い吐息から、濃いウイスキーの香りが漂う。
いつもはカナが「デレ」をぶつけ、コウタがそれを「回避」する側。
だが今は、コウタの重みが、そのまま彼の「依存」としてカナにのしかかっていた。
「……そんなに酔って。……明日、私に酷いこと言われても、泣かないでよね」
カナはコウタの髪に指を潜り込ませ、その頭を自分の方へ強く引き寄せた。
スマホの画面には、解析データのグラフが残酷な右肩上がりを描いている。
世間を騙し、相棒を壊し、その残骸を愛でる。
「……泣くわけ、ないだろ。……俺には、これがあるんだから」
コウタは空になったグラスを掲げ、虚空を見つめて笑った。
カナはそれに応えず、ただ冷たい瞳で、自分に寄りかかる「壊れかけた相棒」を抱きしめる。
2%の冷静さと、40度の狂気。
モニターの青白い光に照らされた二人の影は、どちらが支配者で、どちらが隷属者なのか、その境界すらも曖昧に溶かしていった。
「……てか、カナごめん……。飲みすぎた……かも……」
コウタは視界を揺らしながら、天井を仰いだ。
安物のウイスキーが神経を麻痺させ、思考の輪郭がドロドロに溶け出していく。
カナはその無防備な胸元に顔を寄せ、2%の冷静な瞳で、彼の表情を執拗に観察し始めた。
「……ねえ、コウタ。……今のあんたなら、本当のこと言ってくれるよね」
カナは決して急がなかった。
コウタの指先がわずかに痙攣し、視線が焦点を結ばなくなるまで、彼が吐き出す「嘘」を静かに聞き流し続けた。
「……カナ、……俺は……まだ、ぜんぜん……よゆう……」
言葉とは裏腹に、コウタの身体は重力に従うように沈んでいく。
カナは彼の首筋にそっと指先を滑らせた。
トク、トク、と、アルコールで加速した早鐘のような鼓動が指に伝わる。
それが「本音を吐き出す準備が整った」という、彼女にとっての合図だった。
「……ねえ。本当は、私のこと、死ぬほど嫌いなんでしょ?」
カナの声は、凪いだ海のように静かだった。
反論を許さない温度。
コウタは震える瞼を上げようとして、重力に負けて再び閉じた。
「……重い、よ。……ほんとは、もっと……一人になりたい……。……まじ、限界、……」
「帰んないでよ! ずっとここにいてよ! 私こんなにコウタが好きなんだよ!なのになんでわかってくんないの!」
カナの声には、微かな震えが混じっている。
問いかけるたびに、カナの指がコウタのシャツを強く握りしめる。
「嫌だ」「重い」「限界」
その言葉を引きずり出そうとする彼女の瞳は、期待と恐怖で濁っていた。
コウタは呻くように吐き出した。
あまりにストレートな拒絶。だが、酔いの深淵にいる彼は、さらにその奥にある「本音」を言葉にした。
「……でも、お前が、俺のこと、すきだから……」
「…………え?」
「……そういうとこ……重いところ、……すきなんだよ。……お前にそうやって……ぐちゃぐちゃにされるのが、……たぶん、……すきなんだ」
コウタはそう言って、力なく笑った。
その笑みには、諦めと、憎しみと、そして絶対的な愛着が混ざり合っている。
「重いから嫌い」ではなく、「重いからこそ、離れられない」。
酒のせいで防衛本能を失った彼が吐き出したのは、カナにとっての完全な「勝利宣言」であり、同時に「心中への招待状」だった。
カナは息をすることさえ忘れて、コウタの顔を見つめた。
「嫌だ」「限界だ」という叫びのすべてが、自分への歪んだ愛着の裏返し。
彼女の全身に、ウイスキー以上の熱い高揚が駆け巡る。
「……っ、……あは、……あはは! ……なんだ、……そうなんだ。……コウタも、不安なんじゃん。私と一緒だったんでしょ」
カナは恍惚とした表情で、コウタの唇を力任せに塞いだ。
ウイスキーの苦味と、安っぽい人工甘味料の味。
そして、今たった今聞き出した、世界で一番甘くて重い「敗北の味」。
「……ねえ、コウタ。……私たち、似てるよね」
カナはコウタの首筋に顔を埋め、熱っぽい吐息を漏らした。
外の世界を騙し、お互いを傷つけ合うことでしか、自分の輪郭を保てない二人。
鏡合わせのような孤独と歪みが、暗い部屋の中で重なり合う。
「……一生、こうしていようね」
壊れていく男と、それを抱きしめる女。
籠城初日の夜は、救いようのない愛の告白と共に、深淵へと沈んでいった。




