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一ミリメートルでも居室

掲載日:2026/01/17

二〇二六年一月一五日(木)、晴れ。

午前六時三十分、スマートフォンのアラームが振動し、起床する。

カーテンの隙間から冬の朝日が差し込み、フローリングの床に細長い平行四辺形を描いている。

私はベッドから降り、スリッパを履く。足の裏に伝わる冷気が、室温の低下を示唆している。

洗面所で顔を洗い、タオルで水分を拭き取る。鏡の中の顔を確認する。眼球の充血はなく、皮膚の状態も標準的である。

リビングルームへ移動し、サイドボードの引き出しを開ける。

黒いナイロン製のケースから、独・ボッシュ社製のレーザー距離計「GLM500」を取り出す。次に、タジマツール社製のロック付きコンベックス(金属製巻尺)、長さ五・五メートル、幅二五ミリメートルのものを手にする。

これらが私の生活における主要な計測器具である。

七時〇分、定例の計測業務を開始する。

ノートパソコンを開き、スプレッドシートのファイル「居住空間記録_2026」を立ち上げる。

最初に行うのは、リビングルームの長辺、南側バルコニーサッシ枠から北側キッチンカウンター下までの距離測定である。

私はサッシ枠の右端、床から高さ一〇〇ミリメートルの位置に設定された「定点A」にレーザー距離計の底面をあてがう。

手振れを防ぐため、両手でしっかりと筐体を保持し、呼吸を止める。

対面する壁、「定点B」に赤いレーザー光を照射する。白いクロスの表面に赤いドットが静止するのを待つ。

計測ボタンを押す。

「ピ」という乾いた電子音が室内に響く。

液晶画面に数値が表示される。

五四三八ミリメートル。

私はその数値をスプレッドシートに入力する。

昨日の記録は五四三五ミリメートル。

プラス三ミリメートルの伸長。

一昨日は五四三六ミリメートルだった。

数値は常に流動している。私はモニター上の折れ線グラフがわずかに上昇するのを目視する。

次に、リビングの天井高を測る。

部屋の中央、シーリングライトの直下。床に距離計を置き、垂直にレーザーを飛ばす。

二四〇二ミリメートル。

昨日は二四〇〇ミリメートル。

プラス二ミリメートルの伸長。

床スラブが沈下したのか、天井スラブが隆起したのか、あるいは壁が垂直方向に伸びたのか。原因の特定は行わない。ただ、現在の空間が縦に二ミリメートル拡張されたという事実のみを記録する。

続いて、コンベックスを使用し、より物理的な接触を伴う計測を行う。

冷蔵庫とカップボードの隙間。

ここはレーザーが反射しにくい狭小部であるため、アナログな計測が適している。

コンベックスの爪を冷蔵庫の側面に掛け、テープを引き出す。

一五八ミリメートル。

昨日は一六〇ミリメートル。

マイナス二ミリメートルの収縮。

私は冷蔵庫の脚元を確認する。キャスターは防振ゴムの上に鎮座しており、移動した形跡はない。床の埃の堆積状況も昨日と同様である。

隙間そのものが狭まったと記述するのが妥当である。

私はデータを入力し、保存する。

朝食はトースト一枚とコーヒー。

咀嚼音と、冷蔵庫のコンプレッサーが稼働する低い唸り音だけが聞こえる。

八時三十分、始業。

私は在宅で、設計図面のトレース業務を行っている。

CADソフトを操作し、画面上に正確な直線を引く。モニターの中の線は、数値通りの長さを維持し、変化することはない。

一〇〇〇ミリメートルの線は、明日も一〇〇〇ミリメートルである。

現実の空間とは異なる、固定された座標系の中で作業を進める。

一〇時一五分、インターホンが鳴った。

モニターを確認すると、作業着を着た男が映っている。事前に管理会社からポスティングされていた「消防設備点検」の業者である。

私はオートロックを解除し、玄関へ向かう。

ドアを開けると、二人の作業員が立っていた。一人は三〇代半ばと思われる小柄な男、もう一人は五〇代くらいの白髪の男だ。

「消防設備点検です。感知器の動作確認と、避難はしごの点検を行います」

小柄な男が言った。私は無言で頷き、ドアを大きく開ける。

彼らは「失礼します」と短く言い、靴を脱いで上がり込む。

私は彼らが脱いだ靴を見る。

黒い革靴と、灰色のスニーカー。

二足の靴は、玄関のたたきに並べて置かれている。

私はその靴と靴の間の距離を目測する。約一五〇ミリメートル。

玄関の有効幅に対し、靴の占有面積と余白のバランスを記憶する。

作業員たちは手際よく業務を開始した。

小柄な男が長い棒状の試験器を持ち、各部屋の天井にある感知器を突いて回る。

白髪の男はバルコニーへ出て、避難はしごのハッチを開ける。金属が擦れる音が聞こえる。

私はダイニングテーブルの椅子に座り、彼らの動線を視線で追う。

感知器の点検係が、寝室へ入っていく。

寝室は六畳の洋室で、シングルベッドと本棚、デスクが配置されている。

男はベッドと壁の間の通路に進む。

そこで男の動きが止まった。

男は身体を斜めにし、カニのような姿勢で奥へ進もうとしている。

「……狭いな」

男の呟きが聞こえた。

私は時計を見る。一〇時二〇分。

その通路の幅は、今朝の計測対象ではなかった。

昨夜の時点での記録は、四五〇ミリメートル。

一般的な成人男性の肩幅と同程度か、やや狭い数値である。通過に支障が出るほどではないはずだ。

男は試験器を抱え、身体を捻るようにして感知器の下へ到達した。

「正常です」

事務的な声が響く。

作業は一〇分ほどで終了した。

彼らは玄関で「ご協力ありがとうございました」と頭を下げ、去っていった。

ドアが閉まり、施錠する。

私は直ちにレーザー距離計とコンベックスを手に取り、寝室へ向かう。

ベッドと壁の間の通路。

作業員が「狭い」と発言した場所。

私は距離計を構える。ベッドのフレーム側面から、壁の巾木まで。

三八五ミリメートル。

昨夜の四五〇ミリメートルから、六五ミリメートルの減少。

半日で六センチメートル以上、空間が消失している。

私はベッドの脚を見る。床に貼ったマスキングテープのマーキング位置から、ズレはない。

ベッドは移動していない。

壁に手を触れる。白いビニールクロスの感触。硬質な石膏ボードの裏側にあるべき柱やコンクリート壁。

壁が内側に迫り出したのか、あるいは空間の密度が変化し、距離の定義そのものが歪んだのか。

私はその問いを保留し、ノートパソコンを持ってくる。

臨時計測の項目を追加し、数値を入力する。

「一〇時三〇分 寝室通路:三八五mm(昨夜比-六五)」

備考欄に「点検作業員による通過困難の所見あり」と記述する。

私は寝室に留まり、他の箇所も再計測する。

部屋の短辺。

二六〇〇ミリメートル。

昨夜は二六六五ミリメートル。

部屋の幅そのものが、通路の減少分と同じだけ縮んでいる。

整合性は取れている。部屋全体が均等に圧縮されたわけではなく、この辺一帯がスライドするように変形したことを示唆している。

私は本棚を見る。

本棚と天井の隙間。

昨夜は二〇ミリメートルだった。

今は隙間が見当たらない。本棚の天板が天井のクロスに食い込んでいるように見える。

紙一枚が入る余地もない。

私は脚立を持ってくる。

天井と本棚の接地面を観察する。クロスの表面がわずかに盛り上がり、本棚の角に押されて皺が寄っている。

物理的な干渉が発生している。

私はスマートフォンでその箇所を撮影し、画像フォルダ「20260115_寝室_干渉」に保存する。

午後、業務を再開する。

一五時、休憩。

コーヒーを淹れるためにキッチンに立つ。

ふと、換気扇のフードの位置が低く感じる。

私は自分の身長を基準に確認する。

普段、額の高さにあるはずのフードの角が、目の高さにある。

私はメジャーを取り出し、床からフードの下端までの高さを測る。

一六五〇ミリメートル。

私の身長は一七二センチメートル。

以前の記録では、フードの高さは一七五〇ミリメートルだった。

一〇〇ミリメートルの低下。

私は背筋を伸ばしてその場に立ってみる。フードの角が顔の正面に来る。

調理をする際、頭をぶつける危険性がある。

私は工具箱からドライバーを取り出し、フードの固定ネジを確認するが、緩みはない。

レンジフード自体が下がったのか、キッチン全体の天井が下がったのか、あるいは床が隆起したのか。

レーザー距離計でキッチンの天井高を測る。

二三〇〇ミリメートル。

朝の計測時は二四〇二ミリメートル(リビング)。キッチンの朝の記録はないが、通常はリビングと同じ高さである。

一〇〇ミリメートル、空間が垂直方向に圧縮されている。

私はキッチンの入り口に立ち、リビングとの境界を見る。

天井のクロスに亀裂や歪みは見られない。

リビングの二四〇〇ミリメートルから、キッチンの二三〇〇ミリメートルへ、どこかでなだらかに傾斜していることになる。

私は水準器を床に置く。

気泡が大きく傾く。

キッチン側が低いのではなく、リビング側が高いのでもなく、ただ床がスロープ状になっている。

私は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、床に置く。

円筒形のボトルが、コロコロと静かに転がり始めた。

ボトルはキッチンの奥、勝手口のドアの方へ向かって加速し、壁に当たって止まった。

私は転がったボトルを回収し、雑巾で床を拭く。

一八時、夕食の準備。

天井高が下がったキッチンで、頭を下げ気味にして調理を行う。

無理な姿勢を続けたため、首の後ろに軽い張りを感じる。

フライパンで豚肉を焼く。油が傾斜に従って低い方へ溜まるため、フライパンの柄を持ち上げて水平を保つ必要がある。

焼けた肉を皿に移し、リビングへ運ぶ。

リビングの床は、まだ比較的水平を保っている。

食事を済ませ、食器を洗う。

シンクの排水口に水が流れる際、渦の巻き方がいつもより速いように見えるが、流体力学的な検証はできないため記録には残さない。

二〇時、入浴。

浴室の扉を開ける。

扉の開閉が重い。枠が歪んでいる証拠だ。

力を込めて押し開ける。

浴室内の寸法を測る。

短辺、一六〇〇ミリメートル。長辺、一六〇〇ミリメートル。

正方形。

ここは変化が少ない。安定している空間だと言える。

湯船に浸かり、一息つく。

浴室の換気扇が回っている。

ボーッ、という低周波音が、壁の向こう側から聞こえる。隣戸の音か、建物の配管の音か。

音の発生源との距離を想像するが、壁の厚さが不明確な現在、正確な位置特定は不可能だ。

二二時、夜の最終計測を行う。

リビング、寝室、キッチン、廊下。

全ての数値をスプレッドシートに入力し、一日の変動量を算出する。

総床面積の変動係数を計算する。

マイナス一・二パーセント。

今日は全体的に「収縮」の傾向が見られた一日だった。

特に寝室とキッチンの変化が著しい。

明日の朝、さらに収縮が進んでいれば、生活動線に支障が出る可能性がある。

私は寝室の本棚を見る。天井に食い込んだ状態は変わっていない。

このまま天井が下がれば、本棚が圧壊するか、天井が突き破られるか、床が抜けるか、いずれかの物理的破損が生じるだろう。

私は本棚から数冊のハードカバー本を抜き出し、床に平積みにする。

本棚の荷重を減らし、万が一の倒壊時の被害を最小限にするための措置だ。

本を引き抜く際、両隣の本が空いた隙間を埋めるようにパタンと倒れた。棚板自体も左右から圧縮されている可能性がある。

二三時、就寝の準備。

寝室のベッドに入る。

通路幅は三八五ミリメートルのままだ。

私は身体を横にし、布団を被る。

天井を見上げる。

暗闇の中で、天井までの距離を目測する。

圧迫感がある。朝よりも確実に天井面が顔に近づいている。

手を伸ばせば届きそうな距離だ。

実際に手を伸ばしてみる。

指先が天井のクロスに触れた。

朝は届かなかった距離だ。

私は手を下ろす。

上の階の住人の足音が聞こえる。

コツ、コツ、という音。

その音が、以前よりも大きく、鮮明に響く。

天井スラブの厚みが減少しているのか、音源が近づいているのか。

私は耳栓を装着し、音を遮断する。

目を閉じる。

部屋の四隅の座標が、座標軸上をゆっくりと移動しているイメージが脳裏に浮かぶ。

壁が迫り、床が傾き、天井が降りてくる。

しかし、それはまだ数値上の変化に過ぎない。

私は生きており、呼吸をし、ここに存在している。

明日の朝、目が覚めた瞬間に、まず枕元のコンベックスを手に取る。

顔の真上にある天井までの距離を測る。

その数値がゼロでなければ、私の生活は続く。

一ミリメートルでも空間が残されていれば、そこは居室である。

遠くで犬の遠吠えが聞こえる。

私は深く息を吸い、肺を膨らませる。

胸郭の分だけ、この部屋の容積を排除する。

私が吐き出せば、部屋はまたその分だけ満たされる。

私と部屋との間で、等価交換が行われている。

意識が沈んでいく。

明日の数値は、明日にならなければ分からない。

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