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三十五話

道場を後にしてしばらく歩いていると、どこからか犬の吠える声が聞こえてきた。

何事かと思い、吠える声の方を見ると、一人の青年が獰猛(どうもう)な野良犬に追いかけられていた。

「うわぁぁぁぁ!犬、犬がぁぁぁぁ!!」

灰色の着物に墨色の袴を着用した青年。首に巻かれている長い真紅色のマフラーがパタパタと揺れている。肩より短く切り揃えられた髪は風に弾み、瞳は恐怖でおのめいていた。

「あーはっはっは!いつもの威勢はどうしたー!」

颯介は声高らかに笑った。手を叩き、腹を抱え、さらには目尻に涙を浮かべたりと、まるで喜劇でも鑑賞しているような景気の良い笑いっぷりだ。

「うるさいぃぃぃ!お前だって犬が苦手なくせにぃぃぃ!!」

青年は追いかけてくる犬を何度も振り返りながら颯介に反論する。同僚達はまるで「この阿呆は知らない人です」とでも言いたげに颯介から数メートル離れていた。

「べ、別に僕は犬から逃げてる訳じゃないんだ。ただ、日頃の運動不足を解消しようと......」

「ワンワンワン!!」

「うわ―――っ!」

青年は体力がかなりあるようだ。その証拠にあんなに全力疾走しても、息ひとつきれていない。そればかりか、犬との距離がぐんぐん離れていっている。

「何で僕を追いかけるんだよ!あっち行けよ―――!!」

「あーはっはっはっ!!」

助けを求める青年に対して、高めの見物を決め込んだ颯介は助ける気など微塵もないらしい。

柚は青年を助けようと一歩踏み出すが、青年はすでに何処かへ走り去っていた。犬は追いつけなかったのか取り残されていた。

「あースッキリしたー!」

「知り合いなんですか?」

気を取り直して柚は尋ねた。

「高等課の宮藤千ト(せんと)。よく颯介を泣かしている......友達?」

坂田が思い出しながら答える。

「友達じゃない!あと泣かされてない!!」

「いや毎回、泣かされてるだろ」

 日が暮れてから、本日の目的地に到着した。

広々としたアプローチの向こうに、重厚な石造りの建物がそびえ立っていた。長方形の池を囲うようにして佇む赤レンガの外壁は透かし模様の柱や市松模様のガラス窓などが細部に施され、いわゆる洋館とはまた異なる風情を漂わせている。

ふと、柚の頭の中に鹿鳴館という単語が浮かんだ。椿が神楽坂で話してくれた場所。

「ここって、鹿鳴館ですか?」

「いえ、帝國ホテルですよ。鹿鳴館はもう閉鎖されているんです」

「そうなんですか......」

「鹿鳴館の夜会といえば、政府の威信を賭けた(もよお)しだったらしいですよ」

聞けば鹿鳴館は夜会などによる風紀の乱れや、欧米化に批判的な人達の反発を受けて明治二十三年に閉鎖されたという。教科書でしか見たことがない歴史的建造物も閉鎖されてしまっては触れることができない。

 帝國ホテルの正面の扉が開くと赤絨毯(じゅうたん)が敷き詰められた吹き抜けのエントランスが柚を圧倒した。大きな柱の中に埋め込まれた灯りが、幾何学(きかがく)模様の透かし彫りから淡くこぼれ、異国に迷い込んだような幻想的な風景を作り出していた。

 行き交う人々はやたらクラシカルというか、古い絵画に出てきそうな格好をしている。高級ホテルだからドレスコードはあるにしても、本当にドレスを着なくてはいけないということはないはず。

(でも、女性はみんなドレスだよね......)

少なくとも、自分達のような和服姿の人は見当たらない。

あちこちから聞こえる外国語の会話に、柚は一瞬どこにいるのか分からなくなってしまった。

石像のように固まる柚達と慣れたように微笑みながら建物の説明をする井上。なぜ慣れているのか気になる。

「では、ラウンジに行きましょうか」

 井上に案内されてやって来たのは一階のラウンジ。柚達以外誰もいない。

「お腹が空いたでしょう。何を食べますか?」席につくと、井上はメニューを開きながら言った。「ここに載っている物は大体試してみましたが、どれも美味しいですよ」

「え......これ、全部食べたんですか?」

メニューに載っている品数はかなりのものだ。しかも怖くて柚は値段を見ることができない。

「井上って大食いだったっけー?田中は何頼むの?」

「チョコレヱトに関してはよく食べてるとこ見るけどなー......。おれはライスオムレツ」

「商談の時によくここを使っているので、常連客なんですよ」さらりと井上は言うが、見るからに高級なホテルだ。どう考えても気軽に利用できる施設ではない気がする。

(常連客って......そんなファミレス感覚で入れる場所じゃないよ、絶対)

 話によると井上は本職である警察以外にも実業家やら投資家やらの顔を持っているらしい。

「さぁ、どれでも好きなものを頼んで下さいね」

「ありがとうございます!!」

(お肉、お肉、お肉......ハッ!)

無意識のうちにビーフ欄を探してしまう己の図々しさに愕然(がくぜん)とした。お肉はきっと高いのだろう。ここは遠慮というものを......。

「じゃ、じゃあ、サンドイッチを......」

無難そうなメニューを指差すと、怪訝そうに颯介が首を傾げた。

「望月ちゃん、それだけで足りるー?絶対足りないと思うけど......食欲ないなら鶏肉のスゥプもあるよ?」

「大丈夫です!」

(さっき、値段がチラッと見えたけど......やっぱり高かったからなぁ)

「じゃあ、これとかどう?」

勇がメニュー表のスイーツ欄を指差す。

「とろけるように甘いショコラと、ほろほろと口の中で崩れる焼きたての焼き菓子。それに、たっっっぷりと蜜を絡めたつややかな林檎タルト......」

(最高......)

 耳元で優しく美味しそうなメニューの説明を音読され、ふわふわと夢心地になる。きっと、ほっぺたが落ちる程に美味しいのだろう。

「甘い物を食べると元気になるよね。だから、柚ちゃんも甘い物を食べて俺に元気な笑顔を見せてほしいなー」

「見せます」

気付いたら即答していた。催眠術か何かにかかったように、すんなりと。勇は小さくガッツポーズをしている。

「ふふ、良いお返事です。では......」

井上は上品に笑い、近くを通りかかった店員さんを呼び止めた。

「紅茶とサンドイッチ。あと、ここからここまでを一つずつ」

(ここからここまで?)

その大胆な注文に柚が目を白黒させていると、虎太郎と咲真と坂田が揃いも揃って「やりやがったな......こいつ」という眼差しで井上を凝視していた。

しばし静寂が続く。白いテーブルクロスにくっきりと落ちる花瓶の影。井上の薄い唇に浮かぶ笑みは、まるで困惑する柚の反応を楽しんでいるようにも見えた。

 数分後、店員さんがやって来て、注文した料理を次々とテーブルの上に並べていく。

ビーフシチュゥに(たい)の西洋蒸し焼き、サンドイッチやライスオムレツなどの洋食と、チョコレヱトケヱキに林檎タルト、カステラや焼き菓子などのスイーツ。

「圧倒的に甘い物の方が多いな......」

「あはは......」

「胃もたれしそう......」

「このライスカレーは良いね。馬鈴薯や人参を包み込む黄褐色。それらの主張を抑え込む影の実力者、福神漬。流石、英国から伝わって日本で独自に変化しただけあって、完璧な造形美だ......君のようなモデルには初めて出会ったよ、まさに運命の出会いと言って良い!」

 一瞬、何が起こっているのか理解できなかった。

皿に盛られたライスカレーを前に、いつも無表情な坂田が頬を赤くさせて、まるで運命の恋人に出会ったかのような情熱的な台詞を次から次へと口にしている。

「そう......その全体的な曲線がまた最高なんだ。君のような美しいモデルを食べる奴らはどうかしているよ......ああ大丈夫、心配しないで!俺が絶対に君を守ってあげるから......だからその代わり、その美しい見た目をじっくり観察させてくれないかいっ......?」

「え......坂田さん......?」

「気にするな。いつものことだ」

問題ない、とばかりに咲真は答え、箸を手に取った。

「あれも健一なりの芸術活動の一環なんだ。気に入った題材を見付けると我を忘れてしまう」

咲真の説明に何故か納得する。

 気を取り直してテーブルを埋め尽くす料理を前に、柚はサンドイッチを手に取った。

(こんなに食べ切れるかなぁ)

サンドイッチを食べ終え、フォークを握りしめた。手始めに林檎タルトから取り掛かることにする。

「......美味しい!」

(流石、高級ホテル!流石、林檎タルト!)

「あ、そうそう。柚さん、活動写真はいつ行きますか?」

不意に、思い出したように井上は言った。

「いつでも良いですよ」

 そう柚が答えると、喉に何かを詰まらせたのか勇が噎せた。何とか落ち着きを取り戻すように水を飲み干した。

「は、はぁ!?昴と柚ちゃんが二人きりでデヱト......?いや、流石にそうと決まった訳ではないよな......」

井上は満面の笑顔で口を開いた。むしろ『よくぞ聞いてくれました』と言わんばかりの満面の笑みに、柚は焼き菓子を口に運ぶ手を止めて井上の返答を待った。

「デヱトです」

即答だった。

「誰か酒持って来て......」

勇がしおれた。

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