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第九話:やる気ゼロの片鱗

目の前で、絶望が形を成して迫ってくる。 奈落の兵隊蟻――Bランク級の魔物は、訓練用の魔物とは明らかに次元が違った。その殺気は肌を刺すように鋭く、その巨体から放たれる圧は、呼吸すら困難にさせる。


「くっ……!」 エリアーナが、決死の覚悟で前に出る。彼女のレイピアが閃き、兵隊蟻の硬い甲殻を狙うが、甲高い金属音を立てて弾かれるだけだった。傷一つついていない。


「風の(ウインド・カッター)!」 リリアナが詠唱し、鋭い真空の刃を数発放つ。しかし、それもまた、兵隊蟻の甲殻に淡い傷跡を残すのみで、致命傷には程遠い。


「ミュー!下がっていろ!」 「は、はいっ!」 エリアーナの指示で、ミューは震えながらも後方に下がり、回復魔術の準備を整える。だが、そもそも攻撃が通じなければ、回復の機会すら訪れない。


兵隊蟻は、鬱陶しそうに頭を振ると、その巨大な顎をエリアーナ目掛けて振り下ろした。 「きゃあ!」 エリアーナは咄嗟に横に跳んでそれを避ける。彼女が先ほどまで立っていた場所の石畳が、まるでビスケットのように粉々に砕け散った。一撃でも食らえば、即死は免れない。


じりじりと、しかし確実に、三人は追い詰められていく。天才と呼ばれた彼女たちの才能も、絶対的な力の差の前では、あまりにも無力だった。


(……仕方ないか)


俺は、静かに息を吐いた。 このままでは、確実に死人が出る。そうなれば、学園は大騒ぎになり、事情聴取だの責任問題だので、俺の平穏な生活は完全に破壊される。それだけは、何としても避けなければならない。


つまり、選択肢は一つ。 ――この場で、この魔物を、誰にも気づかれずに始末する。


俺は、三人の少女たちの背後で、ゆっくりと右手をポケットに突っ込んだ。そして、指先で、ポケットの中にあったものを探る。それは、先ほどの授業で使った、ありふれた小石だった。


俺は、その小石を指でつまむと、ごく自然な動作でポケットから出した。そして、まるで退屈しのぎに石でも投げるかのように、軽く腕を振る。


狙いは、兵隊蟻の頭部。 放たれた小石は、ヒュン、という音すら立てず、ただ静かに、まっすぐに飛んでいく。


その軌道上にいる誰も、その小石が持つ意味に気づいていなかった。エリアーナも、リリアナも、ミューも、そして兵隊蟻自身さえも。


次の瞬間。


コツン、という、あまりにも場違いな、乾いた音が響いた。 俺が投げた小石が、兵隊蟻の額、その分厚い甲殻のちょうど真ん中に、正確に命中したのだ。


――そして、時が止まった。


いや、実際に止まったわけではない。だが、その場にいた全員が、そう錯覚した。


あれほど猛威を振るっていた奈落の兵隊蟻の動きが、ピタリ、と完全に静止したのだ。振り上げていた鎌のような前足も、開かれた巨大な顎も、その全ての動きが、まるで石像のように固まっている。


「……え?」


誰かが、呆然と声を漏らした。 何が起きたのか、誰にも理解できなかった。


エリアーナは、レイピアを構えたまま、硬直している。 リリアナは、次の魔法の詠唱を忘れ、ただ目の前の光景を信じられないという顔で見つめている。 ミューは、両手で口を覆い、大きな瞳を見開いていた。


兵隊蟻は、動かない。ただ、その複眼だけが、不気味な赤い光を明滅させている。


やがて、その巨大な体に、異変が起き始めた。 ミシミシ、と、何かが軋むような音が、その体の中から聞こえてくる。そして、俺の小石が命中した額の中心から、蜘蛛の巣のような、ごく微細な亀裂が走り始めた。


亀裂は、一瞬にして全身へと広がる。 鋼鉄よりも硬いはずの黒い甲殻が、まるで薄いガラス細工のように、音を立てて砕け散っていく。


そして――。


奈落の兵隊蟻は、その輪郭を保てなくなり、まるで風化した砂の城のように、サラサラと、音もなく崩れ落ちていった。 後には、ただの黒い砂の山が残るだけだった。


ダンジョンに、再び静寂が戻る。 残されたのは、目の前の出来事が理解できず、ただ立ち尽くす三人の少女と、あくびを噛み殺している俺だけだった。


「……な……にが……」


リリアナが、震える声で呟いた。 「……おきたの……?」


エリアーナは、ゆっくりと、本当にゆっくりと、俺の方を振り返った。その顔は、恐怖と、驚愕と、そして、これまでにないほどの熱狂的な信仰の色に染まっていた。


彼女の視線が、俺の足元に落ちている、もう一つの小石に向けられる。俺が、今しがた投げたものと、同じ種類の石だ。


「……まさか」


エリアーナの唇が、わななく。 「今の……は……カイ様が……?」


俺は、わざとらしく肩をすくめて見せた。 「さあな。何かの拍子に、寿命でも来たんじゃないのか。魔物にも、そういうことがあるんだろ」


俺の白々しい言葉を、信じる者など、もはやこの場にはいなかった。


エリアー-ナは、ふらふらとした足取りで、黒い砂の山に近づいた。そして、その砂をひとすくい、指でつまみ上げる。 それは、先日の小石が変化した砂と、全く同じものだった。 均一な粒子。魔力を帯びた、美しい黒曜石のような輝き。


「……存在変換魔術……!」 エリアーナは、恍惚とした表情で、天を仰いだ。 「Bランク級の魔物ですら、その存在の理を根源から書き換え、ただの砂に変えてしまう……!これが……これが、カイ様の力の、ほんの片鱗……!」


リリアナも、ミューも、ただ言葉を失い、その場に立ち尽くしている。彼女たちの頭の中は、常識では考えられない現象を前に、完全に思考停止しているようだった。


俺は、そんな三人を尻目に、ポケットに手を突っ込んだまま、ダンジョンの出口に向かって歩き出した。 もう、充分だろう。これ以上ここにいても、面倒な問答に付き合わされるだけだ。


「あ、お待ちください、カイ様!」


エリアーナの切羽詰まった声が、背後から追いかけてくる。 だが、俺は振り返らなかった。


俺がやったことは、単純だ。 小石に、ほんの少しだけ、「対象の構造を原子レベルで分解し、安定した無機物に再構成する」という意思を込めて投げただけ。ただ、それだけだ。


俺にとっては、道端の空き缶をゴミ箱に投げるのと、何ら変わりない行為だった。 その行為が、少女たちの目にどう映ったのか。


俺は、知りたいとも思わなかった。


ただ、一つだけ確かなことがある。 俺が望んだ「目立たず、静かに暮らす」という、ささやかな願い。 それはもう、二度と叶うことはないのだろうということだ。


俺は、ダンジョンの出口から差し込む光を見上げながら、心の底から、深く、長いため息をついた。

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