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第五話:精霊は主を知る

俺は走っていた。ただひたすらに、面倒事から逃げるために。 背後からは、「カイ様、お待ちください!」「お待ちなさい、卑怯者!」という、全く方向性の違う二つの声が追いかけてくる。勘弁してくれ。俺はただ、静かに昼寝がしたかっただけなんだ。


学園の森は、人の手があまり入っていないのか、思った以上に深かった。鬱蒼と茂る木々が太陽の光を遮り、昼間だというのに薄暗い。足元は落ち葉や木の根で悪く、走りにくいことこの上ない。


「はぁ……はぁ……」 情けないことに、早くも息が上がってきた。いや、肉体的な疲労ではない。精神的なものだ。三千年という時を生きる俺の肉体は、この程度の疾走で疲弊したりはしない。だが、この状況そのものが、俺のやる気という名のライフゲージをゴリゴリと削っていくのだ。


ちらりと背後を窺うと、二人の少女はまだ離されずに追ってきていた。 エリアーナは、公爵令嬢とは思えないほどの健脚で、必死の形相で地面を蹴っている。対して、エルフの王女リリアナは、まるで森の中を舞うように、木の根や枝を軽やかに飛び越え、優雅ですらあった。さすがは森の民、といったところか。


このままでは、いずれ追いつかれるのは目に見えている。 俺は進路を少し変え、より木々が密集し、獣道すらないような場所へと分け入っていく。これだけ複雑な地形なら、多少は時間を稼げるだろう。


しかし、その考えは甘かった。 しばらく進んだ先で、俺の目の前に現れたのは、巨大な岩がむき出しになった崖だった。行き止まりだ。


「……最悪だ」 俺は思わず悪態をついた。崖を登ることも、飛び降りることも容易いが、そんなことをすれば間違いなく人外の所業として、さらなる面倒事を引き起こす。


諦めて振り返ると、ちょうど二人が茂みから姿を現したところだった。リリアナは涼しい顔をしているが、エリアーナはさすがに肩で息をしている。


「カイ様、あまり急に走り出されると、心臓に悪うございます」 エリアーナがハンカチで額の汗を拭いながら言う。いや、原因はお前たちだろうが。


「ようやく観念しましたのね、臆病者」 リリアナが、勝ち誇ったように扇子を広げた。その翠色の瞳が、俺をまっすぐに見据えている。 「先ほどのブレイヴァー嬢の戯言、聞き捨てなりませんわ。貴方が私より優れているなどと……。口先だけなら何とでも言えます。ならば、ここで証明していただきましょう」


ああ、やっぱりそうなった。一番面倒な展開だ。 俺は大きくため息をつき、どうやってこの場を切り抜けるか、億劫な頭を回転させる。


「何の勝負だか知らんが、俺はやらん。面倒くさい」 「あら、戦わずして負けを認めると?魔力ゼロの方には、それもお似合いですわね」 リリアナの挑発に、俺の隣にすり寄ってきたエリアーナが食ってかかった。 「待ちなさい、シルヴァームーン嬢!カイ様は、貴女のような未熟者と力を比べるまでもないと、そうおっしゃっているのです!」 「なんですって!?」 やめろ。火に油を注ぐのはやめてくれ。


リリアナは怒りで頬を紅潮させたが、すぐに冷静さを取り戻し、フンと鼻を鳴らした。 「よろしいでしょう。ならば、力比べではありませんわ。この古の森で、どちらがより大いなる存在に認められているか、それを試すだけです」 彼女はそう言うと、すっと片手を前に突き出した。 「ここは学園の中でも特に古い森。多くの精霊たちが息づいています。精霊魔術を極めんとする者にとって、これ以上の舞台はありません。私がこの森の主たる精霊を呼び出してみせます。もし貴方が私より格上であるならば、貴方にはそれ以上のことができるはずですわよね?」


精霊の召喚。エルフの得意とする、自然と対話し、その力を借りる高等魔術だ。 リリアナは、これが自分の土俵であり、絶対に負けるはずがないと確信しているのだろう。


俺が返事をする前に、エリアーナが胸を張った。 「お受けしましょう!カイ様の偉大さを、その目に焼き付けて差し上げなさい!」 勝手に話を進めるな。


俺の抗議も虚しく、リリアナは既に詠唱を始めていた。 その声は、人間の言葉ではなかった。風のそよぎのようであり、木の葉の擦れる音のようであり、小川のせせらぎのようでもある、古の言葉。彼女の周囲に、淡い緑色の光の粒子が集まり始め、森の空気がシンと張り詰めていく。


さすがは天才と言われるだけあって、その魔力操作は見事なものだった。自然に溶け込み、逆らわず、ただ優しく語りかけるように、森そのものを味方につけていく。


やがて、光は一箇所に収束し、一つの形を成し始めた。 それは、巨大な鹿の姿をしていた。体は半透明の光でできており、その枝分かれした立派な角からは、若葉が芽吹き、柔らかな光の雫が滴り落ちている。威厳と、慈愛に満ちたその姿は、まさしくこの森の主、『森の古主』とでも呼ぶべき高位の精霊だった。


「おお……!」 エリアーナが、思わず感嘆の声を漏らす。 リリアナは、額に汗を浮かべながらも、誇らしげに口元を綻ばせた。 「ご覧なさい。これが私の力。森の古主よ、我が呼びかけに応えてくださり、感謝を」


リリアナが恭しく頭を下げると、精霊は応えるように、ゆっくりと首を傾けた。 彼女は勝ち誇った顔で、俺の方を見た。 「さあ、貴方の番ですわ。これ以上のことができるというのなら、見せてみなさいな」


クラスの注目は、俺の机の上に集まる。ドアの外のエリアーナも、固唾を飲んで見守っているのがわかった。


俺は、崖を背にして、ただ面倒くさそうに立っていた。 やる気など、当然ない。そもそも、精霊を呼び出してどうするというのだ。


(あー……早く帰って寝たい)


俺は、ただそれだけを考えていた。 その時だった。


荘厳な姿でリリアナの前に佇んでいたはずの『森の古主』が、ふと、その巨大な頭を上げた。そして、その光の瞳は、リリアナを通り越し――まっすぐに、俺を捉えた。


リリアナが怪訝な顔をする。 「……古主よ、どうなさいました?」


精霊は、彼女の呼びかけには答えなかった。 それどころか、まるでリリアナなど最初から存在しなかったかのように、その光の体をゆっくりと俺の方へと向けた。 一歩、また一歩と、柔らかな苔を踏みしめながら、俺に近づいてくる。


なんだ?こっちに来るなよ。面倒くさい。 俺が内心で悪態をついていると、巨大な精霊は俺の目の前で、その歩みを止めた。 そして――。


三千年を生きてきた俺ですら、少しだけ目を見開く光景が、繰り広げられた。


森の主たる高位精霊が、その立派な角がついた頭を、深く、深く垂れたのだ。まるで、絶対的な王に謁見する臣下のように。ひれ伏す、という言葉が、これほど似合う光景はなかった。


「…………え?」


リリアナの口から、呆然とした声が漏れた。 彼女が必死の思いで呼び出した精霊が、自分を完全に無視し、魔力ゼロのはずの男に、最上級の敬意を示している。その事実が、彼女の理解を完全に超えていた。


「そ、そんな……馬鹿な……。なぜ……?」


エリアーナが、うっとりとした表情で、その光景を眺めていた。 「……当然です。森羅万象、この世界の理そのものに愛されしカイ様の前では、森の主であろうと、こうして頭を垂れるのは当たり前のこと……」


俺は、目の前で頭を下げている光る鹿を見下ろした。 (邪魔だな……) それが、俺の唯一の感想だった。


俺は、精霊の体を迂回するように横に一歩ずれると、呆然と立ち尽くすリリアナとエリアーナの間を通り抜け、森の出口に向かって歩き出した。


「お、おい」


俺が、ようやく一言だけ発した。 「あんたの鹿、道塞いでて邪魔だ。早くどけさせろ」


その言葉が、二人の少女に、そして精霊自身にどう響いたのか。 俺には知る由もなかったし、知りたいとも思わなかった。


ただ、背後で、エルフの王女が「あ……あ……」と、言葉にならない声を漏らしていたことだけは、なんとなく聞こえていた。

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