第三話:最初の授業と細かすぎる砂
翌朝、俺は重い瞼をこじ開けた。寮の簡素なベッドの上で、昨日の出来事が悪い夢ではなかったことを思い出し、深くため息をつく。
勘違い公爵令嬢、エリアーナ。彼女に付きまとわれるという悪夢の現実が、今日から本格的に始まるのだ。俺はのろのろと着替えを済ませ、できるだけ気配を殺しながら部屋のドアをそっと開けた。
「おはようございます、カイ師匠!」
ドアの真ん前に、完璧な笑顔を浮かべたエリアーナが立っていた。なぜか簡素なメイド服のようなものを着ている。いや、よく見れば学園の制服を、給仕がしやすいように改造したものか。どちらにせよ、目立ちすぎる。
「……なんで人の部屋の前にいるんだ」 「弟子として、師匠の一日の始まりをお手伝いするのは当然の務めです!さあ、朝食へ参りましょう!」
彼女は有無を言わさぬ様子で俺の腕を取ろうとする。俺はそれをひらりとかわした。 「必要ない。それと、その呼び方はやめろと言ったはずだ」 「これは失礼いたしました、カイ様。では、食堂へ」 全く訂正になっていないが、もはや何を言っても無駄なのだろう。
寮から校舎へと続く道は、既に多くの生徒たちで賑わっていた。そして、その誰もが俺たちを見て、ひそひそと噂話をしているのが手に取るようにわかる。 「見ろよ、昨日の……」 「魔力ゼロのFクラスのやつと、Aクラスのブレイヴァー嬢だ……」 「一体どういう関係なんだ?」
突き刺さる視線が痛い。いや、物理的に痛いわけではないが、俺の精神を確実に削っていく。平穏な学園生活の設計図は、もうビリビリに破れてしまった。
エリアーナはそんな周囲の視線など全く気にも留めず、俺の半歩後ろを歩きながら、嬉しそうに話しかけてくる。 「昨夜、師匠のお言葉を反芻しておりました。『俺は何も教えん。勝手に見て、勝手に学べ』……なんと奥深いお言葉でしょう。これはつまり、『真理は言葉で与えられるものではなく、自らの観察眼と洞察力で見出すものだ』という、高尚な教えなのですね!」
違う。言葉の通り、何も教える気がないから面倒だと言っただけだ。 俺は完全に無視を決め込み、足早に自分の教室へと向かった。
俺が配属されたのは、当然ながらFクラス。落ちこぼればかりを集めた教室だ。対して、エリアーナはAクラス。校舎も違う棟にある。教室に入ってしまえば、さすがの彼女もついては来られないだろう。
「じゃあな」 俺は一言だけ告げ、Fクラス専用の古びた校舎へと入った。エリアーナは「はい、カイ様!本日も良き学びを!」と、深々とお辞儀をして見送っていた。最後まで目立つことこの上ない。
教室に入ると、そこには案の定、魔力測定で芳しくない結果だった生徒たちが、やる気なさそうに座っていた。うん、この空気だ。俺が求めていたのは。このどうしようもない落ちこぼれの集団に紛れ込めば、俺という存在もその他大勢として埋没できるはずだ。
やがて、チャイムが鳴り、初老の教官が入ってきた。 「諸君、私がFクラスを担当するマグナだ。君たちに多くは期待せん。だが、最低限、魔術師の卵として恥ずかしくない程度のことは身につけてもらう。今日の授業は、最も基本的な魔力操作、『光球生成』だ」
教官はそう言うと、いとも簡単に手のひらの上にピンポン玉ほどの光を灯してみせた。 「このように、体内の魔力を練り上げ、安定した形で体外に放出する。まずはこれを各自やってみろ。大きさや光量は問わん。形を保つことが重要だ」
生徒たちが、うんうん唸りながら魔力操作を始める。しかし、さすがはFクラス。光が灯る者すらほとんどいない。灯ったとしても、線香花火のようにすぐに消えてしまう。
(よし、俺もやるか)
もちろん、目指すは「できない側」だ。俺は周囲の生徒に合わせて、眉間にしわを寄せ、いかにも苦労しているという表情を作る。そして、指先に意識を集中させた。
俺の体内には、海のように、いや、宇宙そのものとでも言うべき膨大な魔力が渦巻いている。この中から、プランクトン一匹分にも満たない、ごくごく微量の魔力を掬い上げ、指先に送る。そして、それを豆粒ほどの、今にも消えそうな弱々しい光に変える。
完璧だ。これなら誰にも怪しまれない。むしろ、「あいつなりに頑張ってるな」とすら思われるかもしれない。俺は自分の完璧な擬態に満足した。
その時、ふと教室のドアに視線を感じた。 ガラスがはめられた小さな窓から、銀髪が覗いている。エリアーナだ。自分のクラスはどうしたんだ。彼女は、食い入るように俺の手元を見つめていた。
まずい。またあの勘違いが加速してしまう。 俺は慌てて、生成したばかりの光を霧散させた。まるで失敗したかのように。
だが、エリアーナの目には、今の光景が全く別のものとして映っていたようだった。彼女は窓の外で、小さく、しかし感動に打ち震えるように何度も頷いている。
(何を納得しているんだ、あいつは……)
俺の心労を知ってか知らずか、授業は進む。 マグナ教官が、生徒たちの間を見回っていたが、あまりの出来の悪さに苛立ちを隠せない様子だった。そして、ついに俺の前で足を止めた。 「カイ・レイ-ジーロードだったか。魔力ゼロのお前が、そもそも魔力操作などできるはずもなかったな」 教官の言葉には、あからさまな侮蔑が滲んでいた。おそらく、入学式でエリアーナに恥をかかされたことを根に持っているのだろう。面倒な奴に目をつけられてしまった。
「次の課題だ。今度は物質への干渉を行う。そこにある、その小石を、魔力で少しだけ動かしてみろ。1ミリでも動けば合格としてやる」 教官は、俺の机の上にあった親指の先ほどの小石を指差した。これは、見せしめというやつだ。光球生成すらできない生徒に、物質干渉などできるはずがない。俺が惨めに失敗するところをクラス全員に見せつけ、自分の権威を示したいのだろう。
クラスの注目が、俺の机の上に集まる。ドアの外のエリアーナも、固唾を飲んで見守っているのがわかった。
(あー……面倒くさい)
もう、どうでもよくなってきた。早くこの時間を終わらせて、昼寝でもしたい。 俺はやる気なく、人差し指を小石に向けた。そして、先ほど光球を作った時よりもさらに微細な、原子一個を動かすくらいの意識で、魔力をほんの少しだけ放出した。
目的は、小石を1ミリ動かすこと。ただ、それだけ。
しかし、俺は忘れていた。三千年という時の中で研ぎ澄まされ、世界の理そのものに干渉する俺の魔力にとって、「ただ動かす」という単純な命令は、あまりにも解像度が低すぎたのだ。
俺の魔力は、小石に触れた瞬間、その存在構造を根源から解析し、最も効率的に「動かす」という結果を算出した。
結果――小石は、音もなく、光も発さず、ただ、フッ……と、その場から消えた。 いや、消えたのではない。
元の小石があった場所には、きめ細やかな砂が、小さな山を作っていた。 俺の魔力は、小石を構成する鉱物結晶の結合を原子レベルで完全に分解し、それを均一な大きさの微粒子へと再構成したのだ。つまり、ただの小石を、一瞬で最高品質のシリカサンドに変えてしまった。
「…………」 教室が、水を打ったように静まり返る。
マグナ教官は、何が起きたのか理解できず、目を白黒させている。 「……い、石はどこへ行った?風で飛ばされたのか?いや、窓は閉まっている……」 彼は砂の山に気づき、指でつまみ上げた。サラサラと、指の隙間からこぼれ落ちていく。 「なんだこれは……砂?なぜこんなところに……。もともとこういう脆い石だったのか……?」 彼は自分の常識では説明のつかない現象を前に、無理やり納得しようと結論づけているようだった。
他の生徒たちも、ただポカンとしているだけだ。 ただ一人、教室のドアの外に立つエリアーナを除いては。
彼女は、両手で口元を覆い、その蒼い瞳を大きく見開いていた。その瞳には、畏怖と、歓喜と、そして狂信的なまでの崇拝の色が浮かんでいる。
やがて、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。 俺は、誰よりも早く席を立ち、教室から逃げ出した。背後で、エリアーナが何か叫んでいるような気がしたが、振り返る余裕などなかった。
俺の平穏な学園生活は、もうどこにもない。 それだけは、はっきりと理解できた。




