第十九話:三体の怪物は目覚める
エリアーナに、俺なりの「当たり前」を口にしてから一夜が明けた。 俺にとっては、ただ面倒な人生相談を一つ片付けただけの、いつもと変わらぬ一日の始まりだった。だが、その日の合同訓練は、学園の歴史に新たな伝説を刻む、特別な一日となった。
訓練場に現れたエリアーナは、どこか雰囲気が違っていた。 昨日までの彼女を覆っていた、焦りや迷いといった霧が完全に晴れ、まるで嵐の後の空のように、静かで、澄み切った気をまとっている。彼女は、訓練用のゴーレムを前に、ただ静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……見せてやるがいい。ブレイヴァー嬢が、あの男の言葉でどこまで変わったかを」 少し離れた場所で、リリアナが扇子を構え、探るような視線を送っている。ミューも、アーサーも、そして指導教官たちも、固唾をのんでエリアーナの一挙手一投足を見守っていた。
俺は、いつものように隅の椅子に座り、大きなあくびを一つした。早く終わって、昼寝がしたい。
エリアーナが、ゆっくりと目を開いた。 その瞬間、訓練場の空気が変わった。 彼女は、腰のレイピアを抜いた。だが、その動きは、今までとは全く違う。剣を抜いたのではない。まるで、彼女の腕から、銀色の光が自然に生えてきたかのような、一体感があった。
彼女の体から溢れ出す魔力が、剣に吸い込まれていく。いや、違う。剣と魔力が、水と水が混じり合うように、境界線なく溶け合っていく。銀色の剣身は、淡い青色の光を帯び、もはやただの金属の塊には見えなかった。剣そのものが、意志を持った生命体のように、静かに脈動している。
「あれが……!」 指導教官の一人が、息を呑む。 「剣と魔力の完全なる同化……!文献にしか存在しなかった、真の『魔法剣』……!」
エリアーナは、構えない。ただ、自然に、そこに立っているだけだ。 ゴーレムが、鈍い駆動音を立てて突進してくる。岩の拳が、エリアーナの頭上めがけて振り下ろされた。
その瞬間、エリアーナの姿が、ふっと消えた。 いや、消えたのではない。常人には目で追えぬほどの速度で、動いたのだ。 彼女がいた場所をゴーレムの拳が空しく砕き、その背後に、いつの間にかエリアーナが立っていた。彼女は、一度だけ、レイピアを鞘に納めるような、流麗な動きで剣を振るっただけだった。
キィン、という澄んだ音が響き渡り、エリアーナはゆっくりと剣を鞘に収める。 その直後。 あれほど頑強だったゴーレムの全身に、無数の青い光の線が走った。そして、次の瞬間、まるで精巧なパズルが崩れるように、ゴーレムは寸分違わぬ大きさの無数の立方体となって、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
訓練場は、水を打ったように静まり返った。 誰もが、今の光景を理解できずにいた。一振り。たった一振りで、防御魔術で強化されたゴーレムを、塵一つ立てずに完璧に解体してしまったのだ。あれは、もはや剣技ではない。神技だ。
「……素晴らしい」 呆然と呟いたのは、リリアナだった。彼女の瞳には、嫉妬や対抗心ではなく、純粋な驚愕と、そして、エリアーナを変貌させた俺への、底知れない畏怖の色が浮かんでいた。 「カイの、たった一言のアドバイスで、これほどまでに……」
ミューは、感涙にむせびながら、両手を胸の前で握りしめている。 「エリアーナ様……!師匠の教えを、ご自分のものに……!すごいです……!」
俺は、椅子の上でこっくりこっくりと船を漕ぎ始めていた。 (……よし、終わったな。これで帰れる) 俺が立ち上がろうとすると、二つの影が、俺の行く手を阻んだ。リリアナと、ミューだった。
「お待ちください、カイ様(師匠)!」 二人の声が、綺麗にハモった。その瞳は、エリアーナのそれと同じく、真剣そのものだった。
「わたくしにも、どうかご指導を!」 リリアナが、プライドをかなぐり捨て、俺に頭を下げた。 「エリアーナだけではありませんわ。わたくしも、壁にぶつかっています。私の精霊魔術は、完璧すぎると言われます。術式の構成、魔力の効率、どれをとっても教科書通り。ですが、それだけなのです。何か、決定的なものが足りない……!どうか、お導きください!」
続いて、ミューも、震える声で訴えかけた。 「し、師匠!私も、お願いします!私の治癒魔術は、傷を癒すことはできます。でも、それだけなんです。もっと、こう、心まで温かくなるような、奇跡みたいな光を、私も……!」
面倒なのが、一気に二つ来た。 俺は、心底うんざりした。だが、ここで無下に断れば、彼女たちは納得せず、さらに面倒なことになるだろう。さっさと適当なことを言って、この場を切り抜けるのが最善策だ。
俺は、まず、リリアナの方を見た。彼女は、デモンストレーションとして、空中にかざした手のひらの上に、寸分の狂いもない、完璧な水の球体を生み出してみせた。精霊の力が、彼女の命令通りに、完璧に制御されている。見事な技術だったが、確かに、どこか無機質で、面白みに欠ける。
俺は、彼女の魔術には一切興味を示さず、ふと、訓練場の隅の木の枝で、一羽の小鳥がさえずっているのに目をやった。 そして、独り言のように、ぽつりと呟いた。
「……ただ鳴いてるだけじゃない。楽しんでるんだよ、あれは」
「……え?」 リリアナが、間の抜けた声を上げる。 俺は、それ以上何も言わず、今度はミューの方に視線を移した。
彼女は、訓練用に置かれていた、わざと呪いをかけて枯れさせた鉢植えに、おずおずと手をかざしていた。その手から放たれる光は、温かいが、どこか弱々しく、自信なさげに揺れている。「治ってください、お願いします」と、祈るような魔術だ。
俺は、あくびを噛み殺しながら、言った。 「怖がるな。そんなんじゃ、伝わらないだろ。治れ、と、命令すればいいんだ」
「……命令……?」
俺は、言いたいことだけ言うと、今度こそ二人の間をすり抜け、さっさと訓練場を後にした。もう、今日のノルマは果たしただろう。
後に残された二人は、俺が残した言葉を、それぞれ反芻していた。
リリアナは、さえずる小鳥と、自分の手の上の水の球体を、交互に見つめていた。 (楽しむ……?そうか……!わたくしは、今まで精霊を、魔術を、完璧に制御すべき『道具』としてしか見ていなかった……!違う!精霊と共に、魔法という名の『歌』を、心から楽しむ……!私の意志、私の喜び、私の『歌』を、魔法に乗せるのよ……!) 彼女の手の上の水の球体が、ふわりと形を変えた。それは、まるで喜びに舞うように、きらきらと輝くイルカの形となり、楽しげに空中を泳ぎ始めた。
ミューは、枯れた鉢植えの前で、固く目を閉じていた。 (命令……。そう、私はいつも、治癒の力を『お借りします』と、祈っていた……。でも、師匠は、そうじゃないと。聖なる力とは、信じる力。揺るがぬ意志。生命そのものに対して、『光あれ』と、強く、優しく、命じることなんだ……!) 彼女が、再び目を開いた時、その瞳から、迷いは消えていた。彼女は、枯れた植物に優しく手をかざし、凛とした声で、ただ一言、告げた。 「――おきなさい」 その瞬間、彼女の手から放たれた光は、もはやただの治癒魔術ではなかった。生命の根源に働きかける、慈愛に満ちた、絶対的な奇跡の光だった。枯れていたはずの植物は、瞬く間に瑞々しい緑を取り戻し、美しい白い花を咲かせた。
その日、王立魔術冒-険者学園の代表チームの中に、新たに二体の『怪物』が、産声を上げた。
俺は、そんなこととは露知らず、ようやくたどり着いた自室のベッドの上で、満足げに寝息を立てていた。 俺はただ、三つの面倒事を、一度に片付けたつもりだった。 それが、大陸全土を揺るがす三体の怪物を、この世に解き放つ最後の一押しになったことなど、もちろん、知る由もなかった。




