第十七話:侯爵様はお怒りです
騎士科のエース、アーサー・ペンフィールド侯爵令息が、魔力ゼロのFクラス生徒の使い魔(らしき子猫)に完膚なきまでに叩きのめされた――。 その衝撃的なニュースは、翌日には学園中を駆け巡っていた。尾ひれどころか、グリフォンの翼でも生えたかのような噂となって。
曰く、あの白猫は古代の聖獣であり、普段は力を隠しているカイ・レイジーロードの真の姿である、と。 曰く、カイは実は高名な獣魔術師であり、あの猫一匹で騎士団一個大隊に匹敵する戦力を持つ、と。 曰く、あの猫に引っかかれた傷は、聖なる呪いによって二度と癒えない、と。
おかげで、俺に向けられる視線は、もはや「畏怖」と「ドン引き」が半分ずつ混ざった、何とも言えないものになっていた。誰もが俺と、そして俺の足元で無邪気に欠伸をしているシロと、決して目を合わせようとしない。ある意味では、非常に静かで平穏な一日だった。俺は、この状況を最大限に利用し、授業中は誰にも邪魔されずに熟睡を決め込んだ。
だが、そんな束の間の平穏が、長く続くはずもなかった。 放課後、俺が三人の弟子(仮)と一匹の聖獣(仮)を引き連れて寮への帰路についていると、前方からいかにも高位の貴族といった風情の、厳つい中年男性が数人の供回りを連れて歩いてくるのが見えた。
その顔には、見覚えがあった。先日、シロに完膚なきまでに叩きのめされたアーサー君と、目元や傲慢そうな雰囲気がそっくりだ。おそらく、彼の父親であるペンフィールド侯爵本人だろう。
侯爵は、俺の姿を認めると、憎々しげな視線を向け、ずかずかと近づいてきた。その目は、完全に獲物を狙う肉食獣のそれだ。 「貴様が、カイ・レイジーロードか」 地を這うような、低い声だった。周囲の生徒たちが、恐怖に顔を引きつらせて遠巻きに離れていく。
面倒だ。関わりたくない。 俺は、聞こえないふりをして通り過ぎようとした。だが、エリアーナが俺の前に立ち、一歩も引かぬ構えで侯爵と対峙した。 「ペンフィールド侯爵。カイ様に対して、何たる無礼な態度ですか。ここは神聖なる学び舎です。貴方のような方が、私的な感情で足を踏み入れて良い場所ではありません」 公爵令嬢としての威厳を込めた、堂々とした物言いだった。
しかし、息子への溺愛で我を忘れているのか、侯爵はエリアーナの言葉にも怯まなかった。 「これはブレイヴァー嬢。これはこれはごきげんよう。だが、これは私的な問題ではない。我がペンフィールド家の名誉に関わる問題だ。この魔力ゼロの男が、卑劣な手段で我が息子を傷つけ、辱めた。その落とし前をつけに来たまでだ」 侯爵の視線が、俺の足元で毛づくろいをしているシロに向けられる。 「その不浄な使い魔……今ここで、叩き潰してくれる!」
侯爵の体から、膨大な魔力が放たれる。騎士科を監督する立場にあるだけあって、彼自身も相当な手練れの魔術騎士なのだろう。その殺気に、ミューは小さく悲鳴を上げ、リリアナは扇を構えて警戒態勢に入った。
俺は、心底うんざりした。なぜ、俺は息子に続いて、父親の面倒まで見なければならないのか。 俺が、仕方なく一歩前に出ようとした、その時だった。
「にゃ!」
シロが、威嚇するように毛を逆立てた。そして、次の瞬間、その小さな体から、純白の、しかし圧倒的な密度の魔力が、奔流となって溢れ出したのだ。 それは、侯爵が放った殺気を、まるで太陽が朝霧を消し去るかのように、いとも簡単に飲み込み、浄化してしまった。
「なっ……!?」 侯爵は、信じられないという顔で、目の前の子猫を見つめている。自分の全力の威圧が、子猫一匹の鳴き声でかき消された。その事実が、彼のプライドをいたく傷つけたようだった。
だが、シロの奇跡は、それだけでは終わらなかった。 シロから放たれた清浄な魔力は、侯爵の体を優しく包み込んだ。すると、どうだろう。あれほど怒りと憎悪に満ちていた侯爵の表情から、すっと険が消え、穏やかな、どこか虚脱したような顔つきへと変わっていったのだ。
「……おお……」 侯爵の口から、感嘆のため息が漏れた。 「なんということだ……。この温かな光は……。長年、私を苦しめてきた肩こりと腰痛が……癒えていく……。それに、この心の平穏は、なんだ……。息子のことなど、どうでもよくなってきた……」
彼は、その場にへなへなと座り込むと、恍惚とした表情で、天を仰いだ。 供回りの者たちが、慌てて主人に駆け寄る。 「旦那様!しっかりしてください!」 「……ああ。私は、間違っていたようだ。真の力とは、破壊や憎悪の中にはない。この子猫が示すような、大いなる慈愛の中にこそ、存在するのだな……」 侯爵は、悟りを開いた聖者のような顔で、そう呟いた。そして、俺の方を振り返り、深く、深く頭を下げた。 「カイ・レイジーロード殿……。私の不明を、許してほしい。君こそが、真の聖者だったのだな……。このご恩は、一生忘れん……」
彼は、供回りの者たちに肩を担がれ、どこか晴れやかな、しかし完全に毒気を抜かれた顔で、その場を去っていった。 後に残されたのは、静寂と、何が起きたのか理解できずに呆然とする野次馬たち、そして、全てをやり遂げた顔で再び毛づくろいを始めるシロと、俺たちだけだった。
エリアーナが、感動に打ち震える声で言った。 「カイ様……!これが、貴方様のやり方なのですね……!敵意を向けた者すら、力でねじ伏せるのではなく、その大いなる慈愛で包み込み、魂のレベルで改心させてしまうとは……!もはや、人間のなせる業ではありません……!」
リリアナも、扇子で口元を隠しながら、戦慄したように呟く。 「……恐ろしい。あの侯爵は、強固な精神防御の魔術を常に張っているはず。それを、あの猫は、いとも簡単に貫通し、精神そのものを書き換えてしまった……。あれは、もはや治癒ではない。一種の精神支配よ……。カイ、貴方、一体何者なの……」
俺は、何も言えなかった。 俺にも、今のが何だったのか、よく分からなかったからだ。おそらく、俺が儀式を書き換えた際に凝縮された膨大な魔力が、シロの中に眠っており、敵意を向けられたことで、浄化と精神安撫の力として暴走した、といったところだろう。
結果として、面倒事は去った。それはいい。 だが、俺の評判は、もはや人間離れした、人外の聖者か何かというとんでもない方向へと、舵を切ってしまった。
その日の夕方、公爵からの緊急の呼び出しがあった。 俺が、三人を伴って指定された応接室へ向かうと、そこには、難しい顔をしたブレイヴァー公爵と、なぜか晴れやかな顔をしたペンフィールド侯爵が、和やかにお茶を飲んでいた。
「おお、カイ殿!先ほどは、世話になったな!」 ペンフィールド侯爵が、満面の笑みで俺に手を振る。変わり身が早すぎる。 ブレイヴァー公爵は、こめかみを押さえながら、疲れたように言った。
「……カイ君。一体、何をしたんだね。ペンフィールド卿が、君の熱烈な信奉者になってしまったのだが……」
どうやら、改心した侯爵は、その足で公爵邸を訪れ、俺という存在がいかに素晴らしいかを、ノンストップで三時間、熱く語り続けたらしい。
公爵は、ため息をつくと、本題に入った。 「まあ、いい。厄介事が一つ片付いたのは事実だ。だが、君のおかげで、新たな問題も浮上した。君の存在が、あまりにも目立ちすぎている」 彼は、一枚の招待状をテーブルの上に置いた。 「数週間後、王都で、近隣諸国の王族や貴族を招いた、大規模な学園対抗戦が開催される。ペンフィールド卿が、『ぜひ、カイ殿の聖なる御業を、諸国の方々にもお見せしたい』と、国王陛下に強く進言してしまってな……」
俺の背筋を、冷たい汗が伝った。 嫌な予感しかしない。
「国王陛下も、君の噂には大変興味を持たれている。結果として、君には、我が学園の代表チームの特別顧問として、この対抗戦に参加してもらうことが、決定してしまった」
それは、命令だった。国王陛下の、そして、二人の侯爵と公爵の、連名による、拒否権のない命令。
「これは、君の力を公に示すことで、『黄昏の蛇』のような、国に仇なす連中を牽制する、絶好の機会でもある。頼んだぞ、カイ君」 公爵は、そう言うと、俺の肩を力強く叩いた。
エリアーナたちが、「カイ様の真価が世界に!」「腕が鳴りますわ!」「師匠のサポート、頑張ります!」と、目を輝かせている。
俺は、ただ、静かに目を閉じた。 面倒事を避けようとした結果、俺は、国中、いや、世界中が注目する、最も面倒くさい舞台のど真ん中に、引きずり出されることになってしまったのだ。
俺の平穏な隠居生活は、もう、夢のまた夢だった。




