第十六話:白猫は面倒事を連れてくる
翌朝、俺は久しぶりに、心からの安眠と呼べる睡眠から目覚めた。 秘密結社の儀式は、俺のささやかな介入によって、誰にも知られることなく、そして誰も傷つくことなく、平和的に(?)解決した。これで当分、面倒事はごめんだろう。そう信じたかった。
俺がのっそりとベッドから起き上がると、足元で、もぞり、と何かが動いた。 視線を向けると、そこには真っ白な毛玉が丸くなっていた。昨夜、俺が生み出してしまった、あの純白の子猫だ。大きな青い瞳で俺を見上げると、「にゃあ」と可愛らしい声を上げる。
どうやら、昨夜アジトから撤収した三人が、この子猫を放っておけず、保護という名目で連れ帰ってきたらしい。そして、当然のように、その世話役は俺の部屋ということになったようだ。俺の意見は、もちろん聞かれていない。
「おはようございます、カイ様!シロの目覚めはいかがですか?」 ドアを開けると、そこには甲斐甲斐しく朝食の準備をするエリアーナたちの姿があった。いつの間にか、子猫には「シロ」という、安直極まりない名前がつけられていた。
「シ-ロって……」 「カイ様が邪悪な儀式を浄化して生み出された、聖なる獣ですもの!『白』以上にふさわしい名はありませんわ!」 リリアナが、どこか誇らしげに言う。彼女は、すっかりこの子猫を俺の使い魔か何かだと信じ込んでいるらしい。ミューは、ミルクの入った小皿をシロの前に置き、優しい手つきでその頭を撫でている。
俺の部屋は、完全に三人の女子生徒と一匹の子猫の溜まり場と化していた。平穏な隠れ家は、もうどこにもない。 俺は諦めの境地で、エリアーナが用意した朝食のパンを、無言で口に運んだ。
その日の学園は、どこか奇妙な空気に包まれていた。 俺たちが昨日、未然に防いだ事件について、当然、誰も知らない。だが、夜中に旧実験室周辺で「謎の聖なる光を見た」という噂が、まことしやかに囁かれていたのだ。「学園を守護する古い精霊の仕業だ」とか、「迷える学生を導く天使が降臨した」とか、様々な憶測が飛び交っている。
そして、もう一つ。 学内に潜んでいたという『黄昏の蛇』の残党たちが、今朝、揃いも揃って学園長に自首してきたというのだ。 理由は、「昨夜、我々は神の奇跡を目の当たりにした。自らの邪悪な行いを悔い改め、光の道を歩むことを決意した」という、にわかには信じがたいものだったらしい。
彼らは、召喚しようとした邪悪な魔物が、純真無垢な子猫に変わってしまったという不可解な現象を、一種の神託、あるいは警告と受け取ったようだ。自分たちの力が、より大いなる存在の掌の上で踊らされていたに過ぎないと悟り、恐怖と畏怖の念から、全ての罪を告白するに至ったのだという。
この一連の出来事は、「旧実験室の奇跡」として、学園の七不思議の一つに数えられることになった。 もちろん、その奇跡を引き起こした張本人が、やる気なく授業で居眠りをしている俺だとは、誰も知らない。
いや、三人を除いては。
放課後、俺がいつもの樫の木の下で昼寝をしていると、三人の少女が、シロを腕に抱いてやってきた。 「カイ様、ご覧ください。あの日以来、シロの体から、微弱ながらも聖なる魔力が放たれているようです」 エリアーナが、真剣な顔で報告する。 確かに、シロの体は、ただの子猫とは思えないほど、清浄な気に満ちていた。俺が術式を書き換えた際に、魔法陣に満ちていた膨大な魔力が、この小さな体に凝縮された結果だろう。
「この子の力は、おそらく治癒や浄化に特化していますわ。ミューの神聖魔術とも、相性が良いかもしれません」 リリアナが、冷静に分析する。 ミューは、シロを優しく抱きしめ、その魔力に自らの魔力をそっと重ね合わせた。すると、シロの体から放たれる光が、ふわりと温かみを増す。 「……なんだか、心が落ち着きます。この子がいるだけで、周りの悪い気が、全部綺麗になっていくみたいです」
三人は、この子猫が、俺が意図して生み出した「癒やしの聖獣」だと信じて疑っていない。 俺としては、ただの儀式の副産物で、面倒事の種でしかないのだが。
そんな穏やかな午後を打ち破るように、一本の矢が、風を切り裂いて飛んできた。 ヒュン、という鋭い音。矢は、俺たちのすぐ横の樫の木の幹に、深く突き刺さった。矢文だ。
エリアーナが、即座に俺を庇うように前に立ち、リリアナが警戒態勢を取る。 俺は、面倒くさそうに目を開け、その矢に結びつけられた羊皮紙を手に取った。
そこには、挑戦的な筆跡で、こう書かれていた。 『カイ・レイジーロードへ。 貴様が、ブレイヴァー嬢たちを誑かしているという噂は聞いている。魔力ゼロの落ちこぼれが、身の程をわきまえよ。 放課後、第三訓練場にて待つ。もし貴様に、冒険者の卵としての誇りが一片でも残っているのなら、その汚名を返上する機会を与えてやろう。 もし来なければ、貴様は臆病者の烙印を押され、未来永劫、学園中の笑い者となるだろう。 アーサー・ペンフィールド』
「アーサー・ペンフィールド……!騎士科のエースと名高い、あの……!」 エリアーナが、悔しそうに唇を噛む。 「最近、エリアーナ様に執拗に求婚しては、断られているという、あの侯爵家の……」 リリアナが、侮蔑を込めて付け加えた。
要するに、俺に嫉妬したエリート様が、決闘を申し込んできた、ということらしい。 面倒だ。死ぬほど、面倒くさい。
俺は、その挑戦状をくしゃくしゃに丸めて、ポケットに突っ込んだ。 「行かない。寝る」 俺がそう言うと、エリアーナが悲痛な顔で俺を見つめた。 「ですが、カイ様!このままでは、貴方の名誉が……!」 「そんなもの、最初からありはしない」 「カイ様の偉大さを知らない愚か者の戯言など、放っておけばよろしいですわ」 リリアナはそう言うが、その表情はどこか晴れない。
決闘を無視すれば、確かに俺は臆病者と罵られるだろう。そうなれば、俺に付き従う彼女たちの立場も、微妙なものになるかもしれない。それは、それで、また新たな面倒事を生む可能性がある。
どうするのが、一番面倒くさくないのか。 行って、適当にあしらって、さっさと終わらせるのが、結局は一番手っ取り早いのかもしれない。
俺が、重い腰を上げようとした、その時だった。 「にゃーん!」 俺の膝の上で丸くなっていたシロが、突然、鋭い鳴き声を上げた。そして、まるで黒豹のような俊敏さで地面に飛び降りると、挑戦状が飛んできた方向に向かって、猛然と駆け出したのだ。
「あっ、シロ!待ちなさい!」 ミューの制止も聞かず、シロはあっという間に茂みの向こうへと消えていった。
数秒後。 森の奥から、男の悲鳴が聞こえてきた。 「ぎゃああああ!なんだこの猫は!?離せ!俺の自慢の髪が!顔が!あああああ!」
どうやら、シロは、俺に敵意を向けた相手を察知し、単身で制裁を加えに行ったらしい。聖獣とは名ばかりの、凶暴な番猫だったようだ。
やがて、髪は鳥の巣のように乱れ、顔は無数の引っ掻き傷だらけになった騎士科のエース、アーサー君が、半泣きになりながら逃げ帰ってくるのが見えた。彼の背中には、小さな白い悪魔がしがみつき、容赦ない猫パンチを繰り出している。
その光景を、俺たちは、ただ呆然と見送っていた。 エリアーナが、ぽつりと呟く。 「……シロは、カイ様の威光を汚す者を、決して許さないのですね……」
俺は、天を仰いだ。 どうやら、この白い子猫は、俺の平穏を守るガーディアンであると同時に、新たな面倒事を次々と呼び寄せる、トラブルメーカーでもあるらしい。
俺の静かな隠居生活は、一体、いつになったら訪れるのだろうか。 答えは、まだ誰も知らない。




