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第十五話:真夜中の散歩と優しい奇跡

学園の時計塔が、深夜二時を告げる鐘を二つ、厳かに鳴らした。 しんと静まり返った学園の敷地は、銀色の月光に照らされ、昼間の喧騒が嘘のように幻想的な静寂に包まれている。


俺、カイ・レイジーロードは、そんな月明かりの下、一つの影となって音もなく移動していた。 「……眠い」 心の底から漏れた、偽らざる本音だった。なぜ俺が、こんな真夜中に、暖かいベッドを抜け出して、面倒事のど真ん中に向かって歩かなければならないのか。理不尽だ。


数分前、俺の部屋から出て行った三人の少女たちは、宣言通り、旧第三実験室へと向かっているはずだ。俺は、彼女たちが面倒事を起こす前に、その面倒の根源を断つ。そして、何事もなかったかのように部屋に戻り、今度こそ安眠を貪る。俺の目的は、ただそれだけだった。


俺は、別に走ってはいない。ただ、少しだけ歩く速度を上げただけだ。だが、俺の一歩は、空間そのものを圧縮し、常人には目で追うことすらできない速度を生み出す。影から影へと滑るように移動し、あっという間に、彼女たちの気配に追いついた。


建物の陰からそっと様子を窺うと、三人の少女が、息を殺して実験室の建物に近づいていくのが見えた。その連携は見事なものだった。リリアナが指を振ると、建物の周囲に張られていたであろう警備結界が、まるで陽炎のように揺らめき、一時的に機能不全に陥る。すかさずミューが、三人の姿を月光に溶け込ませる、簡易な隠蔽の魔術をかける。そして、エリアーナが先頭に立ち、音もなく建物の壁際にたどり着いた。


(ほう、やるじゃないか)


素直に感心した。学生レベルとしては、間違いなくトップクラスの実力だ。だが、だからこそ危うい。自分たちの力を過信し、踏み込んではいけない領域にまで、足を踏み入れてしまう。


俺は、彼女たちが建物の裏口から侵入するのを見届けると、反対側の正面へと回り込んだ。彼女たちより先に、中の状況を把握する必要がある。


古い実験室の壁は、分厚い石でできている。だが、俺にとっては、紙も同然だ。俺は壁にそっと手を触れ、意識だけを内部へと滑り込ませた。


中は、広い講堂のようになっていた。そして、その中央では、十数人の生徒たちが、黒いローブを身にまとって円陣を組んでいた。ミューが言っていた通りだ。床には、禍々しい紫色の光を放つ、複雑な魔法陣が描かれている。どうやら、何かの召喚儀式の真っ最中らしい。


「――闇の揺り籠より来たれ、影を喰らう者よ!」 中心に立つリーダー格の男が、詠唱の最終段階に入っていた。魔法陣の光が、急速に勢いを増していく。まずい。思ったよりも、本格的な儀式だ。あれは、低級な悪魔を呼び出す類のものではない。影に潜み、人の精神を蝕む、厄介な魔物を生み出す術式だ。


あんなものが学内に放たれれば、大騒ぎになることは間違いない。そうなれば、また調査だのなんだのと、俺の平穏が脅かされる。


(……仕方ない)


俺は、本日何度目かになるため息をついた。 俺が取るべき手段は、単純明快だ。この儀式を、失敗させる。それも、誰にも気づかれず、あたかも「最初から成功するはずのない、欠陥だらけの儀式でした」という形で。


俺は、壁に手を触れたまま、目を閉じた。そして、意識を集中させる。 俺の魔力が、壁の石の原子の隙間をすり抜け、不可視の糸となって室内へと侵入する。それは、誰の魔力探知にもかからない、世界の理そのものに溶け込んだ、純粋なエネルギーの流れだ。


俺の魔力は、光り輝く魔法陣の上を滑り、その複雑な術式を瞬時に解析した。そして、その構造を維持している、何百ものルーン文字の中から、たった一つの、要となる文字を見つけ出す。


リーダー格の男が、最後の呪文を叫んだ。 「その名を『シャドウ・ストーカー』!我らの刃となり、光を狩る者よ!今こそ、この世に生まれ出でよ!」


魔法陣の光が、極限まで高まる。中央の空間が歪み、どす黒い影の塊が、人の形を成し始めようとしていた。 エリアーナたちが、ちょうど講堂の入り口の扉の隙間から、中の様子を窺っているのが気配で分かった。


――今だ。


俺は、壁に触れていた人差し指で、軽く、コン、と石を叩いた。 俺の魔力が、目標としたルーン文字に到達し、その構造を、ほんの少しだけ書き換えた。『破壊』を意味するルーンを、『浄化』を意味するルーンへと。たったそれだけの、些細な改変だ。


次の瞬間、講堂の中で、劇的な変化が起こった。


禍々しい紫色の光が、一瞬にして、温かく、清浄な白光へと変わったのだ。どす黒い影の塊は、その聖なる光に照らされ、悲鳴を上げる間もなく霧散していく。 そして、魔法陣が最後に放った眩い光が収まった時、その中央に立っていたのは――。


一匹の、真っ白な子猫だった。


大きな青い瞳をした子猫は、何が起きたのか分からないという顔で、きょとんと周囲を見回すと、小さく「にゃあ」と鳴いた。そして、自分の尻尾を追いかけるように、その場でくるくると回り始めた。


講堂は、水を打ったように静まり返った。 黒いローブの生徒たちは、目の前の光景が信じられず、誰もが呆然と立ち尽くしている。 「……な、なぜだ……?」 「儀式は完璧だったはずだ……!なぜ、シャドウ・ストーカーが、こんな……こんな小動物に……!」 リーダー格の男が、膝から崩れ落ちた。彼の声は、絶望に打ちひしがれていた。


そして、その光景を、扉の隙間から見ていた三人の少女たちもまた、言葉を失っていた。


エリアーナは、両手で口を覆い、その瞳を大きく見開いている。やがて、その瞳には、熱い涙が滲み始めた。 「……ああ……!カイ様……!」 彼女は、全てを理解した。いや、いつものように、完璧に勘違いしたのだ。 「カイ様は……我々が危険を冒す前に、たったお一人で、この事態を収拾されたのだ……!それも、敵を傷つけることなく、その邪悪な儀式そのものを、無力な命を生み出すという、慈愛に満ちた奇跡へと変えて……!これが……これこそが、真の強さ……!」


リリアナも、扇子を握りしめ、わなわなと震えていた。 「……ありえない。外部から、あれほど完璧に隠蔽された儀式に干渉するなど……。しかも、破壊ではなく、『変換』……?術式の根源に働きかけ、結果そのものを書き換えるなど、神の領域ではないの……。あの男、一体、どこまで……」


ミューは、ただ、静かに涙を流していた。 「師匠は……優しい方……。悪い人たちですら、誰も傷つけずに……。すごい……すごいです……!」


黒ローブの生徒たちは、謎の失敗にパニックを起こし、子猫をその場に残したまま、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。 後に残されたのは、静寂と、無邪気に喉を鳴らす一匹の子猫だけだ。


三人は、顔を見合わせた。そして、深く、深く頷き合う。 彼女たちの師、カイ・レイジーロードが、また一つ、言葉ではなく、その行動で、あまりにも高尚な教えを示してくれたのだと。


その頃、当の俺は。 すでに彼女たちに背を向け、寮への道を、あくびを噛み殺しながら歩いていた。


(……よし、終わったな)


これで、秘密結社ごっこをしていた連中も、しばらくは大人しくなるだろう。三人も、目的は果たした(と勘違いしている)はずだ。これでもう、俺が面倒事に巻き込まれることはない。


俺は、ようやく手に入るであろう安眠に、少しだけ心を弾ませていた。 あの、純白の子猫が、明日から俺の部屋の新たな住人となり、さらなる面倒事の種になるという未来を、この時の俺は、まだ知る由もなかった。

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