第十三話:壁の染みと三人の探偵
ダンジョンでの一件から数日、俺は再び、限りなく平穏に近い(ただし三人のお目付役付きの)日常を取り戻していた。 公爵への報告は、「特に異常なし。ただし、念のため警戒は続けるべき」という、当たり障りのない内容で済ませた。強制転移魔術の痕跡などという面倒な事実を伝えれば、俺がさらに調査に駆り出されるのは目に見えている。触らぬ神に祟りなし。俺は、早々にこの件からフェードアウトするつもりだった。
だが、俺がそう思っていても、周囲がそれを許してはくれなかった。 特に、俺の弟子(と自称する)三人は、あの日以来、何やら様子がおかしかった。三人で集まっては、ひそひそと何かを話し込み、時折、俺の方をチラリと見ては、神妙な顔で頷き合っている。正直、気味が悪い。
その日の放課後、俺がいつものように中庭の樫の木の下で昼寝を決め込んでいると、三人が俺を取り囲むようにして座り込んだ。その顔は、揃いも揃って真剣そのものだ。
「カイ様」 代表して口火を切ったのは、エリアーナだった。 「先日の調査の折、貴方様が仰られたお言葉……『ただの、壁の染みだ』。我々、あの言葉の意味について、三日間、寝る間も惜しんで議論を重ねてまいりました」
やめてくれ。そんなことに貴重な睡眠時間を削らないでくれ。あれは言葉通りの意味で、それ以上でも以下でもない。 俺は寝たふりを続けたが、エリアーナは構わず話を続ける。
「そして、我々は一つの結論に達しました。あの『壁の染み』という言葉は、我々凡人には見えない魔術的な痕跡を指し示す、カイ様からの暗号……いえ、試練なのだと!」 「そうよ!ただの物理的な染みであるはずがないわ。あれは、事件の真相へと繋がる、重要な道標なのです!」 リリアナが、興奮気味に扇子を鳴らす。 「し、師匠は、私たちに、自分たちの力で真実を見つけ出せと、そう教えてくださっているんだと思います!」 ミューも、瞳を輝かせながら、強く頷いた。
ダメだ。こいつらの勘違いは、もはや手の施しようがない次元にまで達している。 俺は、もう何を言うのも諦め、ただ静かに寝息を立てるフリを続けた。
俺の沈黙を「肯定」と受け取ったのか、三人は満足げに頷き合った。 「では、カイ様。我々は、貴方様からいただいた試練に、全力でお応えする所存です。これより、我々三名で、独自に調査を開始いたします!」 エリアーナはそう高らかに宣言すると、リリアナとミューを伴って、意気揚々とその場を去っていった。
嵐が去った後の静寂の中で、俺は薄目を開けた。 (……好きにすればいい) どうせ、学生三人が調査ごっこをしたところで、何も見つかるはずがない。むしろ、彼女たちがそちらに夢中になっている間は、俺に付きまとう時間も減るかもしれない。それは、むしろ好都合だ。 俺は、今度こそ本当に心地よい微睡みの中へと意識を沈めていった。
だが、俺は彼女たちの能力と、勘違いがもたらす恐るべきエネルギーを、完全に見くびっていた。
翌日、俺は昼寝の場所を求めて、学園内をさまよっていた。中庭は、昨日の今日で少し居心地が悪い。静かで、日当たりの良い場所はないものか。 ふと、古文書館の裏手が、人もおらず、ちょうど良い日陰になっていることに気づいた。ここにしよう。
俺が壁に寄りかかってうとうとし始めると、館の中から、エリアーナのくぐもった声が聞こえてきた。 「うぅ……ダメです……!ダンジョンの建設記録から過去の異常事例報告書まで、全て目を通しましたが、『染み』に関する記述など、どこにも……!」 どうやら、彼女は本気で文献調査を行っているらしい。ご苦労なことだ。 館の中は、古い羊皮紙のせいで、かなり埃っぽいのだろう。時折、小さな咳払いも聞こえてくる。
俺は、壁の向こうの彼女に向かって、独り言のように呟いた。 「……換気でもしたらどうだ。埃っぽいのは体に悪い」 ただの、老婆心だった。本当に、それだけだった。
しかし、その直後。館の中から、ガタガタという窓を開ける音と、エリアーナのハッとしたような息を呑む音が聞こえてきた。 「そ、そうか……!カイ様!『換気』……つまり、『流れを変えよ』と!固定観念に囚われず、違う視点から物事を見よという、新たなヒントを……!」
違う。単純に空気が悪いと思っただけだ。 俺の意図とは裏腹に、エリアーナは何かを閃いたようだった。窓から吹き込んできた風が、彼女が読んでいた分厚い本のページをパラパラと乱暴にめくっていく。 「あっ……!」 彼女が慌てて押さえた、そのページ。それは、本編ではなく、巻末に記された、補遺のような部分だった。 そこには、数十年前の、とある事件の顛末が、小さな文字で記されていた。 『……ダンジョン内で発生した原因不明の魔力異常。調査の結果、外部からの干渉と断定。関与が疑われた魔術結社『黄昏の蛇』は、証拠不十分のまま解体。その紋章は、蛇が己の尾を噛む図柄に、インクの『染み』のような意匠が特徴的であったと記録に残る……』 「こ、これだわ……!『染み』……!カイ様、ありがとうございます!」 館の中から聞こえてくる歓喜の声に、俺はそっとその場を離れた。面倒事が、一つ進んでしまった気がする。
次に俺が向かったのは、少し離れた場所にある、禁書庫の裏手だった。ここは常に鍵がかかっており、まず人が来ない。最高の昼寝スポットだ。 俺が壁に背を預けた、その時だった。 壁の向こう側、つまり禁書庫の前で、リリアナが何やら苦戦している気配がした。 「くっ……!この古代ルーンで施錠された扉……!私の知識をもってしても、解呪できないなんて……!」 彼女は、どうやら『黄昏の蛇』に関する、より危険な情報を求めて、禁書庫への侵入を試みているらしい。無茶をする。
俺は、その扉の構造を知っていた。あれは、魔術的な防御だけでなく、物理的にも非常に脆い金属を使った、一種のトラップなのだ。下手に魔力でこじ開けようとすれば、扉そのものが歪んで、二度と開かなくなる。 俺は、聞こえよがしに、大きなため息をついた。 「……あーあ。あんな安物の錠前、ちょっと力を加えれば、簡単に歪むだろうに」 俺が言ったのは、物理的な意味での「力」だった。 しかし、それを聞いたリリアナは、雷に打たれたように目を見開いた。 「……『歪ませる』……?そうか……!解呪するのではない!術式そのものの構造を、力で『歪ませて』、錠としての機能を麻痺させればいいんだわ……!なんと盲点……!これもカイ様の導き……!」
彼女は、扉の錠前に手をかざすと、今度は解呪ではなく、錠を構成するルーン文字の魔力経路に、強引に別の魔力を流し込み、回路をショートさせるという荒業をやってのけた。ガチャン、という鈍い音とともに、数百年開かれなかったという禁書庫の扉が、呆気なく開いた。 「やった……!待ってなさい、カイ!貴方の謎、必ず私が解き明かして見せるわ!」 意気揚々と禁書庫に消えていくリリアナの背中を見ながら、俺は三度目の正直を求めて、別の場所へと移動を開始した。
もう、どこでもいい。そう思って中庭を横切っていると、今度はミューが、数人の柄の悪い上級生に囲まれているのが見えた。 「なあ、ミューちゃん。最近、俺たちのこと嗅ぎ回ってるんだって?あんまり余計なことしないほうが、身のためだと思うぜ?」 どうやら、ミューの聞き込み調査が、何者かの勘に触ったらしい。
面倒だ。だが、さすがに見て見ぬふりをするのは、寝覚めが悪い。 俺は、わざと大股で、その集団に近づいていった。そして、絡んでいる上級生の一人に向かって、できるだけ横柄な声で言った。 「おい、そこの掃除当番。サボるな。便所が汚いと苦情が出てるぞ」 「はあ?誰だてめ……」 上級生は、威勢よく振り返り、俺の顔を見て、そして、俺の背後にいつの間にか立っていたエリアーナとリリアナ(禁書庫から戻ってきたらしい)の姿を認めて、顔を青くした。 「ひっ……!ブレイヴァー公爵令嬢に、シルヴァームーン王女……!」 「貴方たち、そこで何をしているのですか?」 エリアーナの氷のように冷たい声に、上級生たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
ミューが、涙目で駆け寄ってくる。 「師匠!エリアーナ様、リリアナ様!ありがとうございます!」 「気にするな」と俺が言う前に、エリアーナがミューの肩を抱いた。 「ミューさん、大丈夫でしたか。して、何か分かりましたか?」 ミューは、こくこくと頷くと、先ほどの上級生たちが消えた方向を指差した。 「はい……!あの方たち、最近、夜中に古い実験室で、何か怪しい集会を開いているようなんです。蛇のような、変な模様の旗を掲げて……!」
三人の少女たちの間で、全てのピースが、カチリと音を立ててはまった。 数十年前の事件。秘密結社『黄昏の蛇』。蛇が尾を噛む紋章。そして、学内に潜む、その残党。
「……カイ様は、全てお見通しだったのですね」 エリアーナが、畏敬の念に満ちた瞳で俺を見つめる。 「我々が自らの力でここまでたどり着くように、さりげなく、しかし的確なヒントを与え続けてくださっていたとは……!」
俺は、何も言わなかった。ただ、空を見上げ、今日という一日が、俺の人生で最も面倒な一日だったことを、静かに噛み締めていた。 どうやら、俺の平穏な日々は、俺自身の行動によって、さらに遠ざかってしまったらしい。




